交渉者
永禄四年(1561年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
「左兵衛尉殿、そのように声を荒げられるな」
左兵衛尉殿が発言した摂津中務大輔殿に険しい視線を向けた。中務大輔殿が眩しいかのように目を細めた。
「某、間違った事を申しましたかな?」
「いや、左兵衛尉殿の申される事、尤もにござる。長門守殿に嫁を世話しなかった事は幕府の失態、非は幕府に有る。我等の落ち度じゃ」
「……当主を蔑ろにされて喜ぶ家臣は居りませぬ」
中務大輔殿が”如何にも”と頷いた。
「某も武士なればその気持ちは良く分かり申す。……公方様、この件について我等は何の異議も言えませぬ。この上は長門守殿への祝いの言葉を左兵衛尉殿に託されるべきかと思いまする」
公方様の表情が曇った。
「……分かった。左兵衛尉、長門守に目出度いと伝えてくれ」
「はっ!」
心からの言葉ではあるまい。その事は左兵衛尉殿も分かっていよう。だが祝いの言葉を貰ったという事は幕府も認めたという事だ。十分だと思っていよう。
「目出度いな、左兵衛尉殿。心からお祝い申し上げる。ところで織田家から嫁を貰うとの事だが朽木家は織田家と繋がりが有ったのかな?」
兄が問い掛けた。
「いえ、有りませぬな。ですが兄は桶狭間で勝利した織田様を非常に尊敬しておりその武勇に少しでもあやかりたいと言って使者を送りました。半ば以上は駄目かもしれぬと思っていたようにございます。なれど予想外の上首尾に皆が驚いております」
「ほう、左様か。妹姫と聞いたが養女かな?」
「いえ、実妹と聞いております。歳は十六歳とか」
ざわめきが起きた。織田と朽木では身代が違いすぎる。それなのに実妹? しかも十六歳となれば何らかの理由で婚期を逃したわけでもない。三十の半ばを過ぎた長門守殿とは余りにも不釣り合いだ。
「それで式は?」
「四月に」
「ではその時は幕府からも人を出して祝いたいと思うが如何かな?」
「有り難うございまする。兄も喜びましょう」
兄と左兵衛尉殿が にこやかに話している。だが幕臣達の中には面白く無さそうな表情をする者が少なからず居た。四月か、早いな。朽木も織田も急いでいると思った。
左兵衛尉殿が下がり謁見が終わると兄が私を空いている小部屋へと誘った。憂鬱そうな表情をしている。先程左兵衛尉殿と和やかに話していた兄と同一人物とは思えない。座ると直ぐに話し掛けてきた。
「相当に憤懣が溜まっているようだな」
「……嫁の件は失敗でした」
兄が”そうだな”と頷いた。京に戻った時、或いは朽木家が二万石になった時、嫁を世話するべきだった。その事を言うと兄がまた”そうだな”と頷いた。
「前々から狙っていたのかもしれぬ」
「と言いますと?」
兄が”フッ”と嗤った。
「幕府にガツンと言ってやろうという事よ。朽木を舐めるなとな」
「なるほど」
十分に有り得る事だ。幕府内部での朽木の立場は左兵衛尉殿達が教えただろう。民部少輔殿、長門守殿がその事を不満に思ってもおかしくは無い。
「人質も居らぬしな、もう幕府に遠慮は要らぬという事だ」
「……」
兄が”フフフ”と嗤った。左兵衛尉殿達が朽木に戻った事で枷が外れたか……。
「兄上、織田から嫁を取るとの事ですが訝しいとは思いませぬか?」
「何処がだ?」
兄が皮肉そうな笑みを浮かべている。兄も訝しんでいるのだと思った。
「朽木と織田に繋がりは有りませぬ。そして朽木は二万石、尾張からは遠い。織田から見て縁を結びたいと思えましょうか?」
兄が笑みを消した。
「織田と朽木に繋がりは無かった。だが織田と朽木を結ぶ人物が居た。その人物の口添えが有ったのだろうな」
「頭中将様」
私の言葉に兄が”おそらくな”と頷いた。深刻な表情をしている。
「中将様は桶狭間の戦いの折、尾張に滞在されていた。繋がりは有る。中将様の口利きで織田は嫁を出したと見るのが妥当だろう」
「だとすると織田から嫁を貰うという話が何時出たかです。昨年の中将様の婚儀で出たのだとすると随分早いと思いませぬか。二月掛からずに話が纏まったということになります。しかも養女ではありませぬ。実妹です。歳も若い。嫁ぎ先は幾らでも有る筈。それなのに……」
兄がジッと私を見た。
「織田は迷わず嫁を出す事を決めたという事だな。織田と中将様の関係は相当に深く強いという事になる」
「……」
「桶狭間の戦いに中将様が関わっているのかもしれぬ」
正確には織田の勝利に関わっているのだろう。だから織田も中将様の意向を無視出来ぬのだ。そして朽木と積極的に結ぶ事で中将様との関係を強めようとしているのかもしれぬ。それだけの価値があると認識している。
「それにしても、……普通なら身近な六角家を頼っても良い筈ですが……」
「そうだな。六角を通して幕府に嫁を世話してもらう。それならば幕府もそれなりの娘を出す。下手な娘を出しては六角の顔を潰す事になるからな」
「朽木はそれをしませんでした」
兄が一つ息を吐いた。
「避けたのだろう。三好、浅井との戦いに巻き込まれるのをな」
「そういう事でしょうな」
二人で顔を見合わせた。兄は苦い表情をしている。自分も同様だろう。六角から離れる、つまり幕府からも離れるという事だ。朽木は間違いなく幕府から距離を取りつつ有る。その事を言うと兄も頷いた。
「まあ已むを得ぬ所は有る。恩賞もまともに出せぬのだからな」
「……」
「おまけに嫁も世話しなかった。朽木を敵視しそのくせ何かと便利使いしようとする。民部少輔殿もうんざりであろう。恩知らずにも程が有ると思っていよう」
「そうですな」
兄がほろ苦く嗤う。自分も嗤った。なんと拙い事か……。
「四月の式に出るつもりだ。そこで朽木の内情を探ってみようと思う。それと出来る事なら関係を改善したい。何と言っても直ぐ傍にあるから避難し易い。それに朽木は高島郡の中央にまで勢力を伸ばしたから六角との連携も取り易いのだ。いざという時は朽木に逃げて再起を図る。或いは朽木から六角へと移って京を目指す。それが最善の手だ」
兄の表情が渋い。兄は朽木が何処まで頼れるかを確認するつもりだろう。幕府のために兵を出して貰えるのか。それが無理ならいざという時に受け入れて貰えるのか……。今までとは違う。朽木は無条件に頼れる存在では無くなりつつあるのだと思った。
「某は中将様に接触してみようと思いますが」
「……」
「兄上は反対ですか?」
兄が”いや”と首を横に振った。
「これ以上中将様を無視し続けるのは得策ではなかろう。宮中の様子、朽木の様子を探る事にもなる」
「では」
「うむ。後程公方様にお許しを得よう。現実を認識して貰わなければ……」
兄が一つ息を吐いた。
「明日にでも中将様をお訪ねしようと思います」
「頼む。……気を付けろよ」
「……」
兄が心配そうな表情で私を見ている。
「相手は一筋縄ではいかぬ御方だからな」
「はい」
容易ならぬ相手である事は分かっている。三好も無視出来ずに居るのだ。むしろこれまで幕府が無視してきた事がおかしい。他の幕臣達から白い目で見られるかもしれぬがやらねばならぬ。
永禄四年(1561年) 二月下旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 織田濃
ドンドンドンドンと足音がした。早い、興奮している。カラリと戸が開いた。
「いらせられませ」
「うむ」
夫が部屋の中に入るとむずと座った。
「まあ、開けたままで寒いこと」
立ち上がって戸を閉めた。夫が”であるか”と言った。困ったお人。
「如何なされました」
座って問い掛けると夫がニヤリと笑った。
「松平がこちらに付いたわ」
「真でございますか?」
驚いて問い掛けると夫が声を上げて笑った。本当なのだと思った。そして思った。中将様の考えたとおりになったと。
「桶狭間から半年が過ぎた。待った甲斐が有ったというものよ」
「藤四郎殿が?」
「うむ。次郎三郎が織田と結びたいとな、言ってきたそうだ」
「そうですか」
夫がまた笑った。余程に嬉しいのだと思った。
「次郎三郎め、幕府に馬を贈ったらしい」
「まあ」
「国人では無く大名として扱って欲しいという事よ。俺との関係も服属では無く対等、そう考えているようだ」
「……」
「幕府も長尾の関東制覇を願っているからな。北条の味方をする今川を快くは思っておらぬ。次郎三郎の馬を喜んで受け取ったらしい。上手く幕府を利用したわ。やるものよ」
夫が嬉しそうに膝を叩いている。次郎三郎殿が強かな交渉をするのが嬉しいらしい。
「六角の事もある。今なら俺に強く出られる。そう思ったようだな」
「宜しいのでございますか?」
問い掛けると夫が頷いた。
「構わぬ。大事なのは松平が織田と結ぶ事よ。それにな、松平の家中は反織田感情が強い。ここは無理は出来ぬ。次郎三郎の顔を立てる」
「なるほど」
無理に服属を迫れば松平は混乱する。或いは今川に戻るということも有り得る。それでは意味が無いと思ったのだろう。
「お濃」
「はい」
夫がニヤリとした。
「美濃が見えて来たぞ、天下もな」
「はい!」
永禄四年(1561年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
宮中から帰って来ると九兵衛が出迎えてくれた。ふむ、珍しいな。今日は春齢が出迎えない。
「お客様がお待ちでございます」
「客?」
問い返すと九兵衛が頷いた。ふむ、弾正かな? それとも春日局か。少し疲れているから面倒だと思った。
「細川兵部大輔様にございます」
「……そうか」
身体が引き締まる感じがした。何時かは来るんじゃないかと思っていたがとうとう来たか……。疲れてなどいられないな。
「何時来たのだ?」
「小半刻程前に」
小半刻前か。大体三十分前だな。もう戌の刻なんだが……。
「奥方様がお相手をしております」
「春齢が?」
九兵衛が頷く。急に不安になってきた。急いで着替えて兵部大輔の許へと向かった。
”はははははは”、”ほほほほほほ”、笑い声が聞こえる。ふむ、兵部大輔は座談の名手らしい。声を掛けて部屋の中に入った。後で春齢が何を話したかを確認しなければ……。
「楽しそうでおじゃりますな」
「お帰りなさい」
「夜分におじゃましておりまする」
兵部大輔が俺を見てにこやかに頭を下げた。
「では私はこれで」
「うむ、済まぬな」
春齢が席を立つと兵部大輔がまた頭を下げた。春齢が部屋を出るのを見届けてから席に座った。
「久しゅうおじゃりますな。こうして面と向かって会うのは九年ぶりになりましょうか?」
「はい、九年になりまする」
あの時は俺に朽木に戻ってはどうかと勧めてきた。左兵衛尉の叔父御も一緒だったな。まあ断ったが。
「今お戻りでございますか。お忙しいようでございますな」
現代なら二十時を回っているだろう。この時代は電気が無いから夜の活動は極めて制限される。それに灯りに使う油も値が張るからな。普通はもう寝る時間だ。
「なにかと雑用が多いので如何しても遅くなります」
今日は帝と勾当内侍と俺で今年の予算の件で打ち合わせだった。
俺が献上した二百貫は元日の節会や他の正月の行事で綺麗に無くなった。残りは千二百貫だがその内の二百貫は非常用の積立金になるから残りは一千貫。これをどう使うか……。朝廷にも収入はあるがこいつは当てにならない。一千貫で予算を作成し収入は予備費として考えようということになった。はっきり言ってきついわ。もっと銭が要る。なんとか稼ぐ方法を考えないと……。もっとも勾当内侍に言わせると一千貫という銭があるだけでも有り難いそうだ。”今年は楽です”なんて言っていたし帝も頷いていた。涙が出そうになったよ。
「帝の御信任が厚いと聞いておりますぞ」
「春齢を妻に娶りましたので何かとお引き立てを頂いております」
そう、出世は能力じゃ無い、縁故だよ。ちょっと苦しいかな。兵部大輔が苦笑いを浮かべた。
「そのような事はございますまい。三条西権大納言様より伺いました。清原侍従からもです。蔵人所を差配するのは中将様、帝も満足しておられると」
「新任の蔵人頭でおじゃります。とてもそのような……」
”ホホホホホホ”と扇子で表情を隠して笑った。三条西権大納言か、ふむ、和歌の繋がりだな。清原氏は学者の家だ。侍従には俺も学問を教わった事がある。そうか、兵部大輔の母親が清原の出だったな。
「それで、今日は何用でおじゃりますかな?」
「用というものは有りませぬ。中将様と懇意になりたいと思ったのでございます」
兵部大輔がにこやかに言った。
「ほう、宜しいのかな? 公方も幕臣達も麿を忌諱しておりましょう。居辛くなりますぞ」
「御安心を、公方様にはお許しを得ております」
ふむ、兵部大輔が俺との交渉担当者か。或いは情報収集者かな。まあ悪い人選じゃ無さそうだ。このタイミングでの来訪となると長門の叔父の結婚だろうな。昨日、左兵衛尉の叔父が来た。幕府の了承は得たと言っていたが……。幕府内で問題になったようだな。さて、如何あしらうか……。
「なるほど、ではこれからは時々会う事になりますな」
「お許しを頂けましょうか?」
「構いませぬよ。誰が此処を訪ねようと困る事はおじゃりませぬ。むしろ好都合でおじゃりますな。妙な邪推をされずに済む」
「邪推でございますか」
兵部大輔が俺をジッと見た。
「何か有りましたかな?」
誘いを掛けると兵部大輔が一つ息を吐いた。
「朽木長門守殿が織田家より嫁を娶る事になりました」
「そう聞いております」
「織田と朽木では身代が釣り合いませぬ。それに尾張と近江というのも些か遠すぎる。不自然にございます。中将様のお口添えが有ったのではありませぬか?」
兵部大輔がジッと俺を見ている。
「ええ、そうです。麿が織田殿に嫁を世話してくれと頼みました」
「……」
兵部大輔は目が点だ。正直に答えるとは思っていなかったらしい。”真でございますか?”と問い掛けてきた声は掠れていた。
「ホホホホホホ、嘘を吐いても納得はしますまい。それでは嘘を吐く意味が無い。違いますかな?」
「それは……、まあ……」
ふむ。こいつ、相手が予想外の行動を取ると身動きが出来なくなるらしい。




