馬と嫁
永禄四年(1561年) 二月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢
「ホウッ」
溜息が出た。兄様怒ってたな……。”ホウッ”また溜息が出た。
「如何なされました?」
「小雪」
声を掛けてきたのは小雪だった。私の傍に座って心配そうな顔で私を見ている。
「先程から溜息を何度も吐いております。何かございましたか?」
「……兄様をね、怒らせてしまったの。気付いてたでしょ?」
小雪が困ったような表情をした。
「それは、まあ。……先程中将様が大きなお声を出されましたので……。滅多に無い事にございます。何かございましたか?」
やっぱり気付いてたんだ。そうよね、忍者なんだもの。
「いざとなったら尾張に逃げるって……。行って欲しくないの」
「まあ、それは何故でございましょう」
「……尾張には濃姫が居るのよ」
小雪が”濃姫?”と言って首を傾げた。
「織田殿の正室。兄様の好みの女性なの」
「まあ」
小雪が目を丸くして声を上げた。
「そのような方がいらっしゃるのですか? ですが織田様の奥方ともなれば中将様よりも随分とお年上の筈。十歳は離れていましょう」
「兄様はね、少し年上の女性が好きなの。母様とか」
「まあ」
また小雪が声を上げた。
「では私も?」
「……それは……、分からないけど……」
「左様でございますか」
なんで不満そうなの? 小雪も兄様が好きなの? 結婚してて夫もこの邸に居るのに……。そう言えば小雪は兄様と素手の調練をして親しいのよね。身体もくっつけてるし。なんか不本意!
「近衛の寿姫と御台所は大丈夫。兄様はちゃんと答えてくれる。でも濃姫の事は隠すのよ。怪しいでしょう?」
「それは……」
小雪が困ったような表情をしている。
「だからね、尾張には絶対行って欲しくないの。それでちょっと言い合いになっちゃって……」
「……」
「大寧寺の変の事を忘れたか、何人公家が巻き込まれて殺されたと思っているって言われたの……」
小雪が”なるほど”と言って頷いた。
「そうよね。関白も殺されたんですもの。私の焼き餅なんて馬鹿げてるわよね」
「まあ、それは……」
小雪が言い辛そうな表情をしている。また溜息が出た。兄様が怒るのも当然よね。生きるか死ぬかの問題なんだから。
「中将様を盗られるのでは無いかと心配でございますか?」
「……だって私達未だ本当に夫婦じゃないし……」
ちょっと恥ずかしかった。身体が細いし胸だって少ししか脹らんでないし女らしさなんて全然無い。兄様は私の事如何思ってるんだろう。大事にするって言ってくれたけど……。私の事本当に好きなのかしら……。
「それにね、兄様は素敵なの」
「……」
「裕福だし頼り甲斐があって皆夢中よ。母様だって私よりも兄様を可愛がっているくらいなんだから。兄様がこの邸に移った時なんて本当に寂しそうだった」
「はあ、左様でございますか」
「ええ」
呆れているのかしら? でも本当の事なのよね。女官達も兄様の事になると目の色が変わるんだから。
「小雪だって兄様の事、素敵だって思うでしょ?」
「それは思います。ですが御方様は春齢様でございますよ」
「それはそうだけど……」
「御方様をこの邸にお迎えになられたのも宮中は危険だからでございます。御方様を想えばこそではございませぬか?」
「……そうかしら」
小雪が“そう思います”と言って頷いた。小雪って首筋が細いんだ……。この邸には独身の女は居ないけど皆姿形がすっきりしてるのよね。……やっぱり不本意!
「それに時期を待つのも御方様に無理はさせたくないとのお気遣いにございます。今少し中将様をお信じになられても宜しいかと」
「……そうよね」
それは分かるんだけど……。
永禄四年(1561年) 二月中旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「御加減は如何でございますか?」
問い掛けると太閤殿下が顔を綻ばせた。
「悪くない」
言葉もスムーズに出る。娘二人とよく話している所為だろうな。話すというのも機能の一つだ。使えば使うほど上達する。その娘達は両脇に控えている。この二人も上機嫌だ。殿下が病に倒れてから絆は深まったらしい。
「久し振り、じゃのう」
「はい。思ったよりも忙しいと思います」
殿下が頷いた。
「忙しいか。ど、うかな? 頭中将は」
「慣れぬ事ばかりで困惑しておじゃります」
殿下が”ハハハ”と声を上げて笑った。
「謙遜じゃのう」
そんな事は無い。本当に苦労している。その事を言うと今度は寿と毬が笑った。俺、信用無いな。
「帝は頭弁よりも女婿の頭中将を信任している。頭弁は頼りない、今では頭中将が蔵人所を仕切っているって宮中ではもっぱらの評判らしいわよ。目々典侍が懐妊したし飛鳥井の勢威は上昇する一方で新大典侍がピリピリしているって」
毬が俺を悪戯な表情で見ている。うん、まあそういう所はある。頭弁が余り頼りにならないんだ。テキパキ仕事を片付けていくタイプの人間じゃない。
仕事は段取り八分とも言うんだがその段取りが出来ない。甘露寺、勧修寺は頭弁に遠慮して自分から率先して動こうとはしないから仕事が溜まっていく。だから俺が采配を振るう事になった。宮中なんて前例重視だから新任の俺には分からない事も多い。甘露寺、勧修寺、そして勾当内侍に相談、確認しながら作業を進めている。今じゃ俺が頭弁に指示を出している。
もっともお願いという形で仕事を任せているから頭弁本人は俺を助けていると思っているかもしれない。それで良いんだよ。相手はプライドだけは高いからな。煽ててヨイショして気持ち良くして使うのがベストだ。先日の警告も相手は悪く思っていない。後で小声で感謝された。まあそういう状況に新大典侍がピリピリしているのも事実だ。宮中で顔を合わせると嫌な目で俺を見る。相当に不満が有るらしい。養母の傍に梅と松を入れたのは当然の事だ。
「元日の節会も久し振りに行われましたし……。父も残念がっていました。でも来年は、ね?」
寿が太閤殿下に視線を向けると殿下が嬉しそうに”うむ”と頷いた。そうだな、来年は殿下にも参加して貰いたいものだ。その事を言うと殿下が益々嬉しそうにした。
「昨日は、春日局が来た」
「左様でおじゃりますか」
毬に視線を向けると”ええ”と言って頷いた。
「公方様の様子を教えてくれたわ。室町第では関東の事でもちきりのようよ。もうすぐ北条を下す、長尾が上洛するって大騒ぎらしいの」
「そのように麿も聞いております」
まあ気持ちは分からないでもないけどね。長尾の下には大勢の国人衆が集まり小田原に向けて兵を進めているらしい。関白殿下からそういう文が来た。しかしなあ、せめて小田原城を落としてから浮かれて欲しいわ。
春日局が此処に来るという事は足利と近衛の関係をこれ以上悪化させてはならないと考えているからだろう。公方は殆どここに来ないらしいからな。彼女は関東制覇はならないと思っている。公方や幕臣達の浮かれる姿を苦い気持ちで見ているのだ。養母の呪詛の件も相談すると直ぐに手を打つと言ってくれた。あれは相当に驚いていたな。表沙汰になれば公方の立場が危うくなると怯えていた。もっとも今では彼女以上に幕臣達の方が怯えているだろう。依頼した陰陽師は殺された。発見された時は首が無かった……。もうすぐ養母を呪詛したからだ、幕臣達が絡んでいる、陰陽師は口封じに殺されたと噂が流れる筈だ。
「来月には三好の邸に御成になるんだけど今から楽しみなんですって」
「楽しみ?」
何が楽しみなんだ? 疑問に思っていると毬が”ウフフ”と笑った。寒いわ。
「三好の人間達の顔色が悪いだろうって。それが楽しみなんですって」
「なるほど」
そういう事か。この時期の御成は表向きには三好との関係改善、そして三好は臣下なのだと周囲に、三好に知らしめるのが目的だと思っていた。勿論畠山、六角との連合を隠そうとしての事だと。だが関東制覇も関係しているのかもしれない。
義輝と幕臣達は自分には長尾が居るのだと三好に威圧を掛けたのだとしたら……。そういう威圧を掛ける事で三好の目を関東に向けようとしたのだとしたら……。なるほど、関東に目が行けばその分だけ畿内の監視は甘くなるか。案外関東制覇が上手くいかなくてもこういう形で利用出来ますと言った人間が居たのかも知れない。だとすれば幕臣達もなかなかに侮れない。
しかしな、武田、今川も関東の状況には危機感を抱いている。そろそろ動き始めるだろう。となればだ、長尾の攻勢も長くは続かない。史実では四月の末頃には関東遠征を打ち切った筈だ。あと二ヶ月か……。公方、幕臣、三好、六角、畠山、皆が振り回されそうだな。
「そう言えば三河の松平が馬を贈ってきたそうですわ」
「ほう」
とうとう動いたか。寿の言葉を聞きながら思った。松平は一線を越えた。もう後戻りは出来ない。太閤殿下が意味ありげな表情をしている。気付いたかな?
「かなりの名馬で公方様はお喜びとか。松平には返事を出したそうです」
「左様でおじゃりますか」
「良い事尽くめで室町第はお祭り騒ぎですね」
東海方面もそろそろだろう。楽しみだな。
永禄四年(1561年) 二月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「御加減は如何でおじゃりますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
中将が気遣ってくれる。激務で疲れているだろうに私にはそんな素振りは見せない。なんと優しいのか。
「春齢も元気でおじゃります。養母上の事を心配していました」
「そうですか。大丈夫だと伝えて下さい」
「分かりました」
穏やかな笑みを浮かべている。自慢の息子だ。
「ところで、松平が公方に馬を献じたそうですね」
「ご存じで」
「ええ、帝が教えてくれました。そなたから聞いたと。何故私には話さぬのです?」
中将が困ったような表情を見せた。
「養母上のお心を煩わす事も無いと……」
「そのような気遣いは無用です。子を産むのは初めてではないのですよ」
「はい」
梅と松が可笑しそうにしている。中将が困っているのが珍しいのだろう。
「動いたのですね」
「はい、動きました」
三河の松平がとうとう今川から離れた。また一つ、この子の読みが当たった。
「この後は?」
中将の顔から困惑が消えた。冷たい表情をしている。ぞくりとした。
「織田と松平の間でせめぎ合いがおきましょう」
「せめぎ合い?」
「織田に従属するのか、それとも同盟という形を取るのか。公方に馬を献じたのは松平は小なりとはいえ大名である。織田とは対等の立場だと主張するためでしょう」
「……」
中将が”フッ”と笑った。
「松平の中では反織田感情が強い。次郎三郎は織田への従属では松平の家中が納得しないと見たのだと思います」
「それで馬を?」
「はい。但し、これで次郎三郎も引き返せなくなりました」
「……」
「織田に従属なら言い訳が出来ます。織田の勢力が強まるのに今川はそれを無視した。已むを得ず織田に従ったと。今川もそれを責める事は難しい。しかし自立、そして同盟では……」
中将が首を横に振った。自らの意志で自立、織田を選んだ。今川を見切ったという事になる。今川はそれを許せない……。
「では織田は松平と同盟を選ぶと?」
中将が頷いた。
「その方が利が多い。そうではおじゃりませぬか?」
「そうですね」
「それに一色が六角と同盟を結びました。次郎三郎は今なら多少強く出ても織田は譲歩すると見たのでしょう。なかなか売り時を心得ている男です」
中将が声を上げて笑った。三河半国の国人領主が織田と対等の同盟を結ぶ。松平次郎三郎、強かな男なのかもしれない。
永禄四年(1561年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
「久しいな、左兵衛尉」
「はっ、公方様には御機嫌麗しく、左兵衛尉心からお慶び申し上げまする」
朽木左兵衛尉殿が頭を上げた。緊張していると思った。部屋には公方様の他に幕臣達が居る。幕臣達の左兵衛尉殿を見る目は冷たい。しかし、それに慣れていないとも思えぬ。昔はこの室町第に居たのだ。突然朽木から出てきて謁見を願ったが一体何事が起きたのか……。
「それで今日は如何したのだ?」
「はっ。此度、兄朽木長門守と織田弾正忠様の妹君美乃様との婚約が整いましたので公方様に御報告をと兄に命じられ罷り越しましてございまする」
シンとした。皆が顔を見合わせている。長門守殿が織田の妹を娶る……。
「それはどういう事かな。某は初めて聞いた。皆もそうではないか?」
上野中務少輔殿が周囲を見ながら言った。不愉快そうな表情だ。面白くなく思っている。そして中務少輔殿に同意するように頷く者も不愉快そうな表情をしている。幕府は一昨年上洛した織田を素気無く扱った。その織田と朽木が縁を結ぶ。不愉快なのだ。公方様も面白く無さそうな表情をしている。頭中将様が織田を褒める事も関係しているだろう。待てよ、この婚約、中将様が絡んでいる? まさか……。
「されば、このように御報告致しておりまする」
「そうではない。何故我等に事前に相談が無いのかと問うている」
「不快かな、中務少輔殿」
「当然であろう。某だけではない。公方様も御不快であられようし皆も不快の筈。そうであろう」
中務少輔殿が皆に問うと同意する声が上がった。公方様も頷いている。
「左様か。ならば申し上げる。某も不快じゃ」
左兵衛尉殿が中務少輔殿を見据えて吐き捨てた。座がざわついた。
「兄は既に三十の半ばを過ぎた。だが嫁が無い。中務少輔殿、これはどういう事かな?」
座が静まった。皆が顔を見合わせている。長門守殿に嫁が居ないのは幕府が世話しなかったからだ。
「父も亡くなった兄も幕府から嫁を世話して頂いた。だが兄には無い。何故だ?」
「それは……」
「知らぬとは言わせぬぞ。朽木に五年も居たのだからな」
中務少輔殿が口を閉じた。顔を強張らせている。世話をしなかったのは長門守殿の立場が弱かったから。そして朽木家が頭中将様と関わりが有るからだった。長門守殿を、朽木家を忌諱したのだ。
「幕府が嫁を世話せぬ以上、自分で嫁取りをした。それだけの事よ。中務少輔、不快か?」
呼び捨てた。
「……幕府が、嫁を世話する。だから」
”ふざけるな!”と左兵衛尉殿が一喝した。
「今更遅いわ! 汝は忘れていた、申し訳ないとでも言うつもりか! それで済ますつもりか! 何処まで兄を、朽木を馬鹿にする! そのような嫁など要らぬわ!」
「……」
中務少輔殿が蒼白になっている。理は左兵衛尉殿に有る。これは幕府の落ち度だ。
夕方にもう一話更新する予定です。




