縁談
永禄四年(1561年) 一月上旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 織田濃
「ウーム」
文を読んでいる夫が唸った。御茶請けの羊羹を食べる前に呼んでいるから京の新蔵人様からの文だろう。
「ウーム」
また唸った。そして文から目を離すと”ホウッ”と息を吐いた。
「羊羹は如何でございますか?」
「ウム」
頷くと皿の上から羊羹を一つ掴んで口に入れた。顔が綻ぶ。
「なかなか塩味が良いな。甘さが引き立つ」
「ホホホホホホ、それは宜しゅうございました」
夫が白湯を飲んだ。そして一つ息を吐いた。
「ウム、寒い日はこれに限る」
「まあ、羊羹でございますか? それとも白湯でございますか?」
「両方だ」
「ホホホホホホ」
「ハハハハハハ」
私が笑うと夫も上機嫌で笑い声を上げた。
「随分と御機嫌でございますね」
「今年は挨拶に来る者が多かった」
「左様でございますか」
夫が”ウム”と満足そうに頷いた。
「尾張国内で俺を侮る者はもう居らぬ」
昨年の桶狭間での大勝利で尾張国内では夫の勢威が強まっている。それを実感しているのだと思った。
「先程の文は新蔵人様からの物ですか?」
「ああ、今では頭中将だがな」
「まあ!」
思わず声が出た。夫が訝しげな表情をしている。
「頭中将と言えば帝の御側近でございますよ。物語にも出てきます」
「そうか」
夫は曖昧な表情をしている。良く分からないらしい。蔵人頭と近衛中将を兼任して帝の側近中の側近なのだと教えると”なるほど”と頷いた。
「それで、中将様は何と?」
「織田の娘が欲しいそうだ」
「織田の娘? 中将様は御結婚なされた筈では……。お相手は帝の姫君と伺っておりますが……」
夫が“ハハハハハハ”と笑った。
「娘を欲しているのは中将ではない。朽木長門守、中将の叔父だ」
「まあ」
中将様の叔父……。
「近江高島郡で二万石の身代だそうだ」
「二万石……。小そうございますね」
「御濃は反対か?」
夫がニヤニヤと私を見ている。
「そうではありませんが……」
”ハハハハハハ”とまた夫が声を上げて笑った。
「確かに小さいな。だが朽木は京の直ぐ傍に在る。其処に俺の縁者が居る。これは大きい」
「いずれ上洛すれば、でございますね」
夫が頷いた。もう笑ってはいない。縁を結ぶ決断をしたのだと思った。
「今の朽木は将棋の歩のようなものよ。誰も気にはかけまい。だが俺が上洛すれば朽木はと金になる」
「左様でございますね」
織田は上方には血縁者が居ない。此処で縁を結べば朽木は貴重な存在になる。上手い事を考えるものだと思った。中将様と夫は朽木家を使って絆を強めようとしている。
「長門守様のお歳は?」
「三十の半ばを過ぎているそうだ」
結構歳が行っていると思った。相手は初婚では無いのかも知れない。
「どなたをお出しになります?」
「……美乃を出す」
「まあ」
思わず声が出た。美乃殿は未だ十六歳、親子ほども年が違う。
「養女では無く美乃殿を?」
夫が私を見た。そして“そうだ”と言った。
「関東では長尾が上野で冬を越した。長尾は本気だ。本気で北条を倒し関東を制しようとしている」
「……」
夫がニヤリと笑った。
「それが分かったのだろう。関東ではこれまで北条に従っていた国人衆が動揺しているらしい。北条も危機感を強めている。武田に北信濃で動いてくれと頼んでいるようだな」
「……」
「駿河では北条に援軍を出そうという動きが出ている。武田だけに動かれては今川の立場が益々悪くなるからな。中将の文に拠れば武田陸奥守、この男は甲斐を追い出された信玄の父親、そして今川彦五郎の祖父なのだが甲斐の息子には負けられぬと彦五郎に兵を出せと尻を叩いているらしい。彦五郎も北条を助ける事で三国同盟の中で立場を強めたいと考えているようだ。まあ女房が北条の娘だからな。良いところを見せたいという思いもあるのだろう」
夫が”ハハハハハハ”と笑った。
「三河の松平ではその事にとうとう不満が出始めた。俺の勢威が強まりつつあるのに駿河はまるで分かっていない。北条の事ばかり気にしているとな」
夫がまたニヤリと笑った。
「動きが出たのですね」
「そうだ。漸く鍋の水が温まってきた。直に煮え滾るだろう。そうなれば……」
夫が私を見た。手をギュッと強く握りしめている。私が頷くと夫も頷いた。
「松平を引き寄せて美濃攻めでございますね」
「そうだ」
夫の声が強い、手応えを感じ始めているのだと思った。桶狭間から半年、長かったのか、短かったのか……。
「今回の縁談、中将から俺への問い掛けだと思っている。本気で上洛する覚悟が有るのかとな。だから美乃を出す。これが俺の返事だ」
「はい」
頷くと夫も頷いた。そして”ハハハハハハ”と笑い声を上げた。
「皆疑問に思うだろうな。何故美乃を朽木へ嫁がせるのかと。だがいずれ分かる。その時が楽しみよ」
「はい」
「まあ表向きには朽木は小身だが宇多源氏の血を引く名門、幕府の御供衆にも任じられる家だと説明する事になるな」
夫が残っていた羊羹に手を出した。そして一口で食べると”美味かった”と言って席を立った。
永禄四年(1561年) 一月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「養母上」
部屋の入り口から声を掛けると養母が”中将殿”と言って嬉しそうに顔を綻ばせた。うん、右近衛権中将になった。そして蔵人頭を兼任して位階は従四位下だ。皆からは頭中将と呼ばれている。ちなみに従兄の雅敦が新たに蔵人に任命され新蔵人と呼ばれている。一度じゃ無い、続けて二度目だからな。五位蔵人は二人体制から三人体制に、そして一人は羽林から選ばれる事になるようだ。多分、羽林から選ばれる蔵人はずっと新蔵人と呼ばれるのだろう。羽林の家格の公家達は一つポストが増えた事に喜んでいる。近衛少将から蔵人を兼任して近衛中将、蔵人頭というわけだ。出世コースの一つと認識されている。。
「今日は新蔵人殿は一緒ではないのですか?」
座ると直ぐに問い掛けてきた。
「従兄上は甘露寺右中弁殿から仕事を教わっているところでおじゃります」
「そうですか。意地悪をされていませんか?」
養母が不安そうな表情をしている。
「いいえ、そのような事はおじゃりませぬ」
まあ新人いじめは何処でもあるけど大丈夫。同じ五位蔵人の甘露寺右中弁、勧修寺左少弁の二人はそんな性格の悪い人間じゃ無い。
「それなら良いのですけど」
ホッとしたような表情をしている。うん、和むなあ。
「養母上、御加減は如何ですか?」
問い掛けると養母がにっこり笑ってお腹に手をやった。
「ええ、大丈夫ですよ」
「それは宜しゅうおじゃりました」
昨年の暮れ、俺と春齢の婚儀の後、養母が懐妊している事が分かった。養母は俺と春齢の婚儀の件で頭が一杯で気付かなかったらしい。そういうちょっと抜けたところの有る養母が好きだな。飛鳥井家は皆大喜びだ。帝も喜んでいる。元日の節会ではその事で一頻り盛り上がった程だ。
「中将殿が何かと気遣ってくれますから安心です」
養母が部屋の隅に控える二人を見た。二人とも三十代後半、細面でほっそりと華奢な姿をしている。名前は松と梅。この二人、姉妹らしい。瓜二つだ。違いは松には右の目尻に黒子がある事だ。重蔵の所から養母の身辺警護にと呼んだ。
養母が懐妊したという事はタイミングも有るのだろうが帝の寵愛が深いという事でもある。そして帝には男皇子は一人しか居ない。皇統の維持という点では不安が有るのだ。節会でもその事は話題に出た。養母に男皇子を産んで欲しいと思うのは帝だけでは無いのだ。だがそれを不安、不快に思う人間もいる。油断は出来ない。
「異常は無いか?」
問い掛けると二人が首を横に振った。
「頼むぞ」
今度は頷いた。タイミングが同じだ。もしかすると双子かも知れない。それに無口なのも良い。
「春齢は如何していますか?」
「元気でおじゃります。麿の世話を焼きたがります。困ったもので……」
養母が”ホホホホホホ”と笑った。
「此処に居る時から中将殿の身の回りの世話をしたがりましたからね」
「はい」
俺が許さなかった。婚約者だが春齢は主筋の娘なのだ。結婚するまではそんな事はさせられない。
「昨日、帝とお話したのですが節会の事、とても喜んでおられましたよ。そなたの働きを喜んでおられました」
「畏れ多い事でおじゃります」
漸く実現出来たからな。相当に嬉しいらしい。俺も直々に礼を言われた。恐縮だよ。
「宮中でも評判が良いそうですね」
そりゃ久し振りの事だからね。嬉しいさ。銭の力は大きいよ。
「それだけに用心が必要でおじゃりましょう」
「ええ」
養母が頷いた。出る釘は打たれるという言葉も有る。飛鳥井は慶事続きだ。そして勢いも有る。当然だが妬む人間も居る。
「織田殿から返事が来ました」
「まあ、それで、何と?」
養母が声を弾ませた。
「向こうも乗り気でおじゃりますな。織田殿の妹を嫁がせると返事が有りました。名は美乃、歳は十六だそうです」
養母が満足そうに頷いている。実妹だからな。信長はこの提案の意味を十分に分かっている。将来への布石を打ち始めたという事だ。それにしても美乃ね。誰の事だろう? お市ではないと思うんだが……。信長は兄弟が多いから良く分からんな。
「織田殿の返事には三河の松平に動きが出たとおじゃりました」
「では?」
「はい、今川への不満が出始めたと」
養母が大きく頷いた。
「関東ですね」
囁くような声だ。
「はい、長尾が上州で越年しました。その事で関東の大名、国人衆達が長尾の北条攻めに同調しつつあります。北条は相当に危機感を持っているようでおじゃりますな」
また養母が頷いた。
「これからどうなります?」
うん、視線が熱い。
「関白殿下の文によれば長尾勢は十万を越えるだろうとの事でおじゃります。武田、今川も北条の苦境を無視は出来ない。関東の情勢には危機感を持っておじゃりましょう」
「……十万ですか」
養母が目を瞠っている。うん、なかなか可愛い。殿下は大喜びだったな。関東制覇も不可能ではないと喜んでいた。文面から嬉しさが滲み出ていた。
「では?」
「今川には西を見る余裕はおじゃりませぬ。松平は孤立する事になります」
シンとした。養母だけじゃ無い。梅、松も息を凝らすように俺を見ている。
「松平次郎三郎の母方の縁者に水野という者が居ります。その者が織田に付いてはどうかと説得しているそうです」
養母が頷いた。
「朽木に文を送ります。長門の叔父上が織田殿に縁を結びたいと使者を送る事になりましょう」
織田、朽木で縁結びが出来たら時期を見て長門の叔父が織田と浅井の縁結びを提案する。時期は観音寺騒動の後だな。そうすれば浅井が朽木を攻める事は無い。となると今年から来年、此処をどう凌ぐかだ。
永禄四年(1561年) 一月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木稙綱
「実妹でございますか?」
五郎衛門が驚きの声を出した。同席している長門守、左兵衛尉、右兵衛尉、左衞門尉、新次郎も驚いている。織田は五十万石は越えよう。朽木は二万石、そして尾張と近江は決して近くはない。本来なら養女でもおかしくは無い。
「うむ。十六歳、名は美乃だそうだ」
また驚きの声が上がった。長門守は三十の半ばを越える。余りにも釣り合いが取れぬ、そう思っているのだ。
「驚きましたな」
新次郎が首を横に振った。皆が頷いている。一番大きく頷いているのは長門守だ。自分のことだけに信じられぬのだろう。
「織田は本気のようだな。本気で上洛を考えている」
皆が儂を見た。中には頷く者も居る。
「しかし、可能なので?」
「以前にも言ったが中将は可能だと考えているようだ。まあ美濃を獲ってからなら織田の領地は百万石を越える。南近江も入れれば百五十万石、不可能とは言えまい」
儂と五郎衛門の遣り取りに”それは分かりますが”、”まあ”と声が上がった。
「となると美濃を獲れるかどうかですな」
左兵衛尉の言葉に皆が頷いた。
「織田も正念場であろう。桶狭間の勝利が運なのか、それとも武略なのか。皆が見ている。失敗は出来ぬ」
儂の言葉に長門守が大きく頷いた。戦で勝つ事の重要さ、領地を広げる重要さは長門守自身が身を以て知っている。高島越中を討ち取り朽木を二万石にした事で家臣達は長門守への信頼を強めた。以前に比べれば長門守は随分と遣り易くなった筈だ。そして今回織田と縁を結べばまた一つ長門守への評価を高めるだろう。
「幕府には何時報せます?」
右兵衛尉が問い掛けてきた。皆が顔を見合わせている。
「急ぐ事は無いわ。縁談が正式に纏まってからで良かろう。まあ、直ぐに纏まるだろうがな」
「文句を言いましょうな。何故事前に話が無い、勝手に決めるなと」
左衞門尉がうんざりしたような口調でぼやいた。そうかもしれぬの。だが……。
「長門守を等閑にしたのは幕府の方であろう。文句は言わせぬ」
皆が儂を見ている。驚いたような表情をしている者も居る。儂が幕府を批判したのが意外だったようだ。だがな、許せぬのよ。儂の倅をコケにするだけで無く孫にまであぶれ者を送るような奴らに遠慮などせぬわ! 朽木が足利にどれだけ尽くしてきたと思っている! 馬鹿にするな!
「幕府が世話せぬから我らは自分達で嫁を決めたまで。そう突っぱねれば良い。まあ朽木が織田と縁を結べば幕府にも都合が良かろうとでも言っておけば良いわ。中将の文にもそう書いてある。後は勝手に自分に都合良く考えるであろうよ。フフフ」
儂が嗤うと皆も満足そうな笑みを浮かべた。そう、儂の不満は儂だけのものではない、朽木の者皆の不満なのだ。
「長門守よ、早う文を書け。織田殿へな。儂はそなたの嫁が早う見たい。孫の顔もだ。お主もそうであろう?」
「まあ、それは」
倅が照れている。皆がニヤニヤと長門守を見ていた。
「それと今少し垢抜けた衣装を身につけよ。嫁御は若いのだ、嫌われぬようにな」
「はい」
自覚が有ったのだろうか? 面目無さそうな表情をしている長門守を見て皆が笑い出した。




