婚儀
永禄三年(1560年) 十二月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「御爺!」
「おお、竹若、いや新蔵人か」
御爺が嬉しそうに顔を綻ばせた。その隣で蔵人の大叔父も笑みを浮かべている。
「久し振りだ。元気そうで安心した。大叔父上、久しいな。大叔父上も元気そうで何よりだ」
「真に、久しゅうございます」
「玄関で立ち話もなんだ、上がってくれ」
二人を邸に上げて俺の部屋へと向かった。
「中々の邸じゃのう」
「うむ、幕府が造ってくれた。面子があるからな、それなりのものだ」
御爺がウンウンと頷きながら庭を見ている。以前から来たがっていたからな、望みが叶って満足だろう。部屋では既に春齢と養母が待っていた。二人は明日の婚儀に備えて昨日からこの邸に泊まっている。
「目々典侍にございまする」
「春齢にございまする」
御爺と大叔父が慌てて座った。
「お初にお目に掛かりまする。朽木民部少輔にございまする」
「弟の蔵人にございまする」
「お二人の事は兄から、新蔵人殿から良く伺っております」
「畏れ入りまする」
養母と春齢を前に二人がカチカチに畏まっている。まあ俺にとっては叔母と従妹だが二人にとっては帝の側室と娘だからな。ちょっと畏れ多いか。
”失礼します”と声が掛かって菊が入ってきた。皆の前に茶碗を置く。立ち去ろうとする菊に九兵衛と源太郎を呼ぶように頼んだ。
「公方には挨拶をしたのかな?」
「うむ、ここに来る前に行ってきた」
「何か言われたか?」
問い掛けると御爺が髭を扱いた。
「公方様も幕臣達も面白くなさそうだったの。まあ孫の結婚式じゃ、文句は言わなかったがな」
「……」
「清水山城では不便だから朽木城へ戻れないかとも言っていた」
「……そんな事を言ったか。それで、御爺は何と?」
「新しい領地なので長門守が直接治めたいようだと答えておいた。儂は隠居だからの、口出しは出来ぬ。それと淡海乃海の事も言った。美しい湖でいくら見ても見飽きぬとな」
御爺が笑うと大叔父も笑い出した。
「兄上は淡海乃海を見るのがお好きですからな」
「おお、好きじゃのう」
二人で更に笑う。余程に気に入っているらしい。
「そのように美しいのですか?」
「それはもう、清水山城から見る景色は春夏秋冬いずれも絶景にございますぞ。いくら見ても見飽きませぬ」
御爺が養母の問いに答えると養母と春齢が羨ましそうな表情をした。そうだよな、二人とも旅行なんてした事が無いんだから。おまけにこの時代には写真も無い。”失礼致しまする”と声が掛かって九兵衛と源太郎が入ってきた。
「御用でございますか?」
「うむ、そなた達も座れ」
二人が末席に座った。
「御爺、家令の笠間九兵衛とそれを補佐する間宮源太郎だ」
二人が頭を下げた。
「桔梗屋から入れた」
「ほう、桔梗屋から」
御爺が声を上げ大叔父と顔を見合わせた。二人が忍びだと分かったのだろう。
「この邸に勤める者は皆桔梗屋から来ている」
「なんと、先程の女子もか?」
「そうだ。俺は敵が多いからな。信頼出来る者、腕の立つ者が必要だ。そうでなければ生き残れぬ。実際一度あぶれ者共に襲われた。指嗾したのは幕臣達だろう」
御爺と大叔父がまた顔を見合わせた。
「兄様、何時もと話し方が違う」
「そうですね、違います」
春齢と養母が不思議そうな表情をしている。
「御爺と会うとこうなるのです。素はこちらなのだろうな」
思わず苦笑が漏れた。養母と春齢の不思議そうな表情は変わらない。納得はしていないらしい。困ったもんだ。それより大事な事が有る。
「皆に聞いて欲しい事がある」
俺の言葉に皆の表情が改まった。
「公方はやる気だぞ」
皆が顔を見合わせた。
「朽木城に戻れと言ったのであろう。公方は本気で朽木の兵を京に入れようとしている」
御爺と大叔父が顔を顰めた。
「長門守が以前に断ったぞ」
「諦めておらぬのだ。六角と畠山が共闘出来る状態になった。両者ともやる気だ。朽木の兵も計算に入れているだろう。しつこく誘いが来るだろうな」
御爺と大叔父の表情が更に渋くなった。
「三好へのお成りが有ると聞いたが」
「三好を騙そうとしているのだ、御爺。油断させようとな。小細工よ」
”そんな”と春齢が呟いた。
「室町第では反三好の勢いが強まっている。公方、坂本の前管領、六角、畠山は頻りに連絡を取り合っているそうだ。それなのにお成りだ。おかしいとは思わぬか?」
”確かに”と大叔父が呟いた。
「しかし六角は野良田の敗戦以降、家中が混乱しているとそなたから文を貰ったぞ。戦など出来るのか?」
御爺が小首を傾げている。そう言えばそんな文も送ったな。
「だからだ、御爺。家中の不満を抑えるために六角は強い敵を必要としている」
御爺と大叔父が顔を見合わせた。御爺が首を横に振り大叔父が溜息を吐いている。
「畠山も河内奪還を声高に唱えているそうだ。連中、間違いなくやる気だ。浅井が回復する前に動くだろう」
御爺が”となると早いな”といった。その通りだ。年が明ければ動きが出るだろう。その事を言うと皆が頷いた。
「しかしのう、岸和田城には十河讃岐守が居るぞ。あそこに讃岐守が居ては畠山は簡単には動けまい」
「某もそう思います」
御爺と大叔父の言葉に九兵衛と源太郎が頷いた。養母と春齢は今ひとつ分かっていない表情だな。岸和田城の軍事的な価値が分からないのだろう。
「そうだな、三好修理大夫は油断していないという事だ。畠山を抑える大石を岸和田城に置いた。御爺、御爺ならこの大石、如何する?」
御爺が”如何すると言って”と困ったような表情を見せた。
「分からぬか。ならば足利なら如何すると思う? 今、幕府で力を伸ばしているのは進士一族だと聞く」
「……それは……」
御爺が表情を強張らせた。
「気付いたか。そうだ、足利なら讃岐守を暗殺するだろう。三好修理大夫を二度も暗殺しようとした。その内一度は進士一族の者が下手人だった筈だ。違うか?」
皆が顔を強張らせている。
「その通りだ、そして遊佐河内守は暗殺された」
御爺の言葉に春齢を除く皆が頷いた。俺と春齢は未だ三歳だった。春齢が知らないのも無理はない。遊佐河内守は三好修理大夫の有力な協力者だった。だが暗殺された。修理大夫の暗殺未遂事件は同時期に起こっている。そして同時期に義輝を支持する勢力が活発に軍事行動を起こしているのだ。明らかに無関係ではない。周到に練られた計画だったのだ。
「岸和田城の十河讃岐守に人を張り付けまするか?」
九兵衛が訊ねてきた。
「いや、その必要は無い。下手に人を張り付かせて悟られては妙な疑いをかけられかねぬ」
「では警告しては?」
今度は源太郎だ。
「それも無用だ。どちらか一方に加担するのは拙い」
旗幟を鮮明にするのは危険だ。というよりどちらにも味方する気は無い。
「暗殺ですか、卑怯な……」
養母が呟いた。口調に嫌悪がある。気持ちは分かる。分かるが……。
「乱世なのです、養母上。卑怯などという言葉は有りませぬ。十河讃岐守が死ぬ事で三好が不意を突かれ混乱するというなら三好は油断した、公方を甘く見たツケを払う事になったというだけです」
自分の足で立てぬ者は滅ぶのだ。そして絶対の強者等という者も居ない。
「実際に暗殺が起きるかどうかは分からぬ。だが讃岐守暗殺が起きれば危うい。足利は本気だという事だし三好の態勢に穴が生じるという事だ。畠山はそれを見逃すまい。必ず動く」
皆が頷いた。
「当然だが朽木への要求も厳しくなるだろう。高島の旧領からは兵を集められない等という言い訳はもう通用しないと見た方が良い。重ねて兵を出せと迫るだろう。六角と共にな」
御爺と大叔父が溜息を吐いた。
「そうだの、通用すまい。如何すれば良い?」
「永田達と手を組むのだな」
「永田達と?」
御爺が訝し気な声を上げた。
「浅井の動きがおかしいから自分達は抑えの兵として残ると六角に提案しようと誘うのだ。そして兵糧を贈る事で対処しようとな。永田達も三好と戦う事を望むとは思えぬ。上手く行く可能性はある」
御爺が”なるほどのう”と頷き髭を扱いた。幕府には六角を通して浅井の抑えに必要だと言って貰えば良い。
「儂も共に協力して浅井に対抗しようと永田達を誘ったのじゃ。もっともそれは永田達の警戒心を解こうとしての事じゃが……」
「上手く言ったか?」
御爺が”いや”と言って首を横に振った。
「上手く行かぬ。浅井よりも朽木への警戒心の方が強い。予想外であったわ」
口調が苦い。なるほど、六角が居る以上簡単に浅井は動けないと見ているのだろう。その事を言うと皆が頷いた。
「だが六角が動けば話は変わる筈だ。浅井が高島郡を狙う可能性は高くなる。その辺りを話せば……」
御爺が”ふむ”と唸った。
「そうじゃのう、上手く行くかもしれぬ」
「そうですな、上手く行くかもしれませぬ」
御爺と大叔父が頷いている。
「兵はどの程度揃えられたのだ?」
「三百だ。今新たに揃えた二百の兵を左兵衛尉達が鍛えておる」
「残り三百は?」
「来年の前半には百は増やせよう。だが残りは秋にならねば難しかろう」
六百の兵が揃うのは来年の秋か……。だが訓練して使えるようにするには時間が掛かる。六百の兵を動かせるのは再来年以降になるだろう。一五六二年か……。観音寺騒動には間に合うな。問題は畿内での騒乱、それを如何やり過ごすかだ。
「出来るだけ畿内の騒乱に巻き込まれぬようにする事だ。朽木が生き残るにはそれしかない」
御爺が”そうじゃのう”と嘆息を吐いた。
「生き残るのは難しいわ」
「朽木だけでは無いぞ、御爺。俺も生き残るのは難しい」
皆が俺を見た。
「それはどういう事です」
養母が不安そうな表情をしている。
「正直に申し上げますぞ、養母上。春齢との婚儀を早めたのは宮中に春齢を置いていては危険だと思ったからです」
養母と春齢の顔が強張った。春齢が”兄様”と縋るような口調で呟いた。
「関白殿下が京を離れました。そして太閤殿下が御倒れになった。九条、二条、一条が関白殿下を追い落とす好機と考えてもおかしくはありませぬ。飛鳥井はその近衛と密接に関わっている。邪魔でしょう。そして新大典侍……」
養母が”新大典侍”と呟いた。
「はい、勾当内侍が警告してくれました。新大典侍がこちらを大分気にしていると。新大典侍の狙いは関白殿下ではない。麿、そして飛鳥井です。万里小路にとって危険だと見ている」
春齢の不安そうな表情を見るのが辛かった。御爺、大叔父、九兵衛、源太郎が痛ましそうに春齢を見ている。言わなければならない。生き残るためには無知は許されないのだ。
「今は未だ彼らは協力関係にありませぬ。しかし彼らが組めば危うい。春齢が狙われる可能性は高いと思ったのです」
養母が溜息を吐いた。
「それで急いだのですか」
「はい。宮中よりは此処の方が安全です。そうであろう?」
九兵衛、源太郎に声を掛けると二人が”はっ”と畏まった。
「この邸の内なれば春齢様に害意を持つ者を近付ける事はありませぬ」
「我等命に掛けてもお守り致しまする」
九兵衛、源太郎が春齢の身は安全だと保証した。その通りだ、この邸は鞍馬忍者が固めているのだ。春齢の暗殺は不可能に近いだろう。
養母が一つ息を吐いた。
「春齢、良かったですね。新蔵人殿が頼りになる方で。羨ましい程です」
「母様」
「新蔵人殿、春齢の事、頼みますよ」
「はっ、必ずや」
頭を下げた。必ず守る。春齢が生まれてきた意味を見出せるようにな。
永禄三年(1560年) 十二月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に 帆を上げて……」
御爺の声が部屋に響いた。渋い声だが良く通る。美声だと言って良いだろう。部屋を見回した。上座に俺と春齢が座り周囲に祝いの客が座っている。御爺、蔵人の大叔父、飛鳥井の祖父、伯父、伯母、従兄、難波の叔父に松木の従兄弟、山科の大叔父に葉室の大叔父、実母とその夫持明院基孝、そして重蔵、葉月……。実母が俺を見た。懼れるような色が有る。笑顔を向けると困惑したような表情に変わった。少しずつだ。焦らず少しずつ改善して行けば良い。
多くの公家から祝いの品を貰った。幕府からも来た。おそらくは伊勢伊勢守だろう。三好家からも貰った。松永家からもだ。驚いたのは帝からも頂いた事だ。物は菊御作の太刀だった。内密にと渡されたがとても表には出せない。菊御作は後鳥羽上皇が倒幕のために作ったといわれる物だ。こんなの公表したら足利の幕府を倒せという密命かと噂が立ちかねない。帝の真意は俺が兵法を学んでいるから、そして帝の女婿になったから菊の御紋の入った太刀を贈ったということだ。
隣に座っている春齢を見た。表情が硬い。緊張しているのだと思った。宮中を出て外で暮らすのだ。養母も居ない、心細いのかもしれない。
「春齢」
小声で声をかけると春齢が俺を見た。
「何?」
春齢も小声だ。
「大事にするから」
春齢が目を瞠った。
「うん」
頷いた春齢がおずおずと手を伸ばしてきた。上目遣いに俺を見ている。その手を握ると嬉しそうに笑みを浮かべた。胸が痛んだ。尼寺に行った方が穏やかな一生を送れたのかもしれない。だがその人生を俺が捻じ曲げてしまった。俺には春齢を守り幸せにする義務がある。
「月もろともに 出潮の 波の淡路の島陰や 遠く鳴尾の沖過ぎて……」
手を強く握ると春齢が握り返してきた。小さな手だ。何時かこの手が幸せを掴み取れれば良い。御爺が俺と春齢を見た。笑みを浮かべた。
「はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり……」
第三巻は此処までですね。これから追加の文章を書き始めますので暫くは更新出来ないと思います。




