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御成り




永禄三年(1560年) 十一月中旬            山城国葛野郡   近衛前嗣邸   飛鳥井基綱




 「御気分は如何でおじゃりますか?」

 問い掛けると太閤殿下が顔を綻ばせた。もっとも左の反面はちょっと引き攣るような笑みになっている。その事が痛々しい。

 「わ、悪くない」

 「それは宜しゅうございました」

 話すのにもそれほど苦労はしないようだ。殿下自身、ゆっくり大きく口を開けて話すという事を心掛けているからだろう。殿下の傍には寿と毬が居るのだが二人とも不安そうな表情は無い。


 「き、昨日は、庭を、あ、歩いた」

 「左様で」

 殿下がにいっと笑った。

 「杖は、無し、じゃ」

 「それは」

 殿下が笑う、俺も笑った。寿、毬も笑っている。


 「危なくはおじゃりませんでしたか?」

 寿と毬に話し掛けると毬が”とんでもない”と首を振った。

 「転ぶんじゃないかとハラハラしたわよ。姉上と一緒にずっと脇に付いていたんだから」

寿はクスクス笑っている。殿下がまた笑った。毬も声を上げて笑う。順調に回復している。それを実感出来るのが嬉しいのだろう。毬を近衛邸に戻して良かった。自分を取り戻している。


 「良い事でおじゃります。少しずつでも歩く距離を伸ばせば、いずれは杖も必要無くなりましょう。宮中への参内も難しくはおじゃりませぬ」

 殿下が嬉しそうに頷いた。

 「なれど焦ってはなりませぬぞ」

 「新蔵人様の言う通りですわ、父上。焦ってはなりませぬ」

 「そうよ、父上」

 殿下が頷いた。

 「そうで、おじゃるの」

 殿下は娘達に心配されて嬉しそうだ。唯一の不満は直ぐ近くに居るのに義輝が滅多に来ない事だ。俺の方が此処に来ている。近衛に価値は無いと思っているのか、或いは毬に会いたくないのか……。


 「か、関白から、文が、届いた。そなたに、感謝、していた」

 「感謝されるような事はしておりませぬ」

 殿下が首を横に振った。

 「ま、麿も感謝、している。娘達も」

 寿と毬が頷く。“畏れ入りまする”と頭を下げた。


 「ま、毬から、聞いた。毬を、戻した、のは、毬を、心配しての、事でおじゃ、ろう」

 「……」

 毬に視線を向けると毬が頷いた。

 「有難う、新蔵人殿。感謝しているの、本当よ。此処に戻って良かったと思っているわ」

 「……御台所を心配していたのは麿だけではおじゃりませぬ。慶寿院様も心配しておられました」

 義輝の名前を出せない事が辛かった。


 「春日局がね、文をくれるの」

 「……」

 「私と新蔵人殿が紅葉を見ていた事が話題になるんですって。二人で和歌を詠んで楽しんでいたって。公方様は面白く無さそうよ」

 「左様でおじゃりますか」

 義輝に和歌の一つも送ってやればいいのに。まあ返歌が来る事は無いだろうな。


 「そなたを、息子のように、思う」

 「殿下、そのような」

 殿下が首を横に振った。

 「真、じゃ」

 胸が痛んだ。義輝の馬鹿! お前は大馬鹿だ! お前が此処に居ればお前が息子になれたんだ。そうであれば朝廷での立場も……。無理だな、朝廷を重視していないんだから……。




永禄三年(1560年) 十一月下旬            山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏   飛鳥井基綱




 「これで如何でおじゃりましょう」

 問い掛けると甘露寺右中弁がじっと書面を見て“宜しいかと思いますぞ”と言ってくれた。年齢は二十代半ばだから俺より十五歳くらい上なんだが言葉遣いが丁寧なんだ。恐縮するよ。


 『上卿 勧修寺中納言

 永禄三年十一月廿日 宣旨

 源長逸

 宣叙従四位下

 蔵人右近衛権少将藤原基綱奉』


 俺が作ったのは口宣と呼ばれるものだ。帝の勅旨を口頭で受けた蔵人がその内容を文書化して太政官上卿に伝える目的のために使われた。本当はね、これは口頭で行うものだった。だが伝言ゲームじゃないが命令を出した帝と命令を受け取った上卿で内容が異なる事象が発生する事があった。そのため、本来であれば口頭にて伝達が行われる帝の勅旨をあらかじめ紙に書いてそれを上卿に渡すようになったらしい。そしてこれが公文書として扱われるようになった。サラリーマンだった俺には良く分かる話だ。伝言は正確に伝えないといけない。それにはメモを取るのが一番だよ。


 それにしても寄りによって三好孫四郎、いや三好日向守だったな。奴を従四位下に叙する口宣を俺が作成するなんて……。こんなの貰ったら日向守も顔を顰めるだろうな。でもね、仕事なんだから仕方ないよ。それに誰が作ろうとこれで日向守は従四位下だ。武家で従四位下って相当なもんだよ。義輝も従四位下なんだから。俺なら額縁に入れて飾るところだな。


 「随分と慣れたようでおじゃりますな」

 「有難うございます。右中弁殿には感謝しておじゃります」

 右中弁が“いやいや”と首を横に振った。いや、本当だよ。蔵人頭の万里小路輔房は俺を見ると顔を背けるからな。同じ五位蔵人の甘露寺右中弁と勧修寺左小弁が俺を受け入れてくれなければ何も出来なかった。


 「もうじき春齢姫と御結婚ですな」

 「はい」

 「お目出度い事でおじゃりますな」

 「有難うおじゃりまする」

 春齢は年が明けて数えでようやく十三歳だ。夫婦の事は再来年にしようと養母に相談した。養母も不安に感じていたらしい。賛成してくれた。春齢は身体が細いんだよ。無理はしたくない。春齢には養母から伝えたんだが納得してくれたようだ。なにより宮中から出られる、俺と一緒に暮らせると喜んでいるらしい。


 「ところで三好筑前守、松永弾正を従四位下にと三好修理大夫が願い出ている事、新蔵人殿は御存知でおじゃりましょう」

 「はい、存じておじゃります」

 三好一族なら分かるが弾正まで従四位下に叙位とは……。修理大夫の弾正に対する信任の厚さが分る。そして三好一族は全体的に家格を上げようとしている。しかしなあ、諸大名の反発は必至だな。


 「来年以降という事になりましょうがそちらは麿と勧修寺左小弁で行いましょう。新蔵人殿に全てを任せては詰まらぬ噂が出かねませぬからな」

 「御配慮、有難うおじゃりまする」

 領地を貰ったからな。やっかむ奴が居るわけだ。


 三好が用意した領地は河内国志紀郡にある柏原村、市村新田の一部だった。千五十石。淀川の運上の礼と春齢との結婚のお祝いだそうだ。余り嬉しくない。河内なんてこれから戦でガンガン荒れるところだよ。年貢なんて期待出来ないだろうと思っている。一度領地を見に行かないと……。


 「来年は良い年になりましょう。新蔵人殿の御陰で元旦の節会も出来ます。それに畿内で戦が起きる心配も無い」

 「……」

 「公方が三好邸に御成りになると聞いておじゃります。ようやく落ち着きますな」

 「……左様でおじゃりますな」

 それを機に甘露寺右中弁の元を離れた。さて、上卿の勧修寺権中納言の所に行かないと。多分、殿上の間に居ると思うんだが……。


 皆御成りを喜んでいる。平和が来ると思っているのだ。御成りか……。御成りというのは将軍が家臣の邸を訪ねる事だ。当然だが家臣は将軍を歓待する事になる。つまりだ、御成りは訪問した将軍と訪問された家臣の主従関係を確認する意味があるのだ。そして将軍から家臣への信頼の証であり家臣にとっては大変な名誉でもある。だが、三好がそれを喜ぶとも思えない。むしろ嫌がらせかと思うだろう。


 俺が聞いている話では十一月の中旬頃に幕府側から三好家に訪問したいと要望したらしい。当初三好側は婉曲に断ったらしいが重ねて要望が有り受け入れたのだという。三好側は筑前守義長が亭主として歓待する。父親の長慶は関わろうとしていない。まあ家督を譲ったという事も有るのだろうが家臣扱いされたくないという感情が有るのだろう。そして室町第の空気が反三好から親三好に切り替わった等という報告は一切無い。それどころか義輝は室町第の防備を強化している。俺が渡した運上もそれに使われているらしい。誰を警戒しているんだ? 畠山は紀州に逼塞し畿内は三好が押さえている。三好を信頼しているなら防備を強化する必要は無い。……居た、やはり殿上の間に居た。


 「勧修寺権中納言様」

 声をかけると俺を見て“おお”と顔を綻ばせた。なんかね、最近俺を見て笑顔になる人が多いんだ。困ったもんだよ。

 「こちらを、お願い致しまする」

 口宣を渡すとじっと見てから“確かに受け取りましたぞ”と言った。口宣には上卿としてこの男の名前が有る。理由はこの男が武家伝奏だからだ。


 「蔵人のお役には慣れましたかな?」

 「甘露寺右中弁、勧修寺左小弁には色々と御指導を頂いておじゃります。その御陰で少しずつではおじゃりますが慣れてきたように思います。感謝しておじゃります」

 権中納言が“ほほほほほほ”と笑い声を上げた。

 「いやいや、不出来な息子におじゃります。良しなに願いますぞ」

 「こちらが教えを乞う立場でおじゃります。こちらこそ良しなに願いまする」 

 にこやかに笑顔で分かれた。人間不信になりそうだな。


 擬態だと思う。義輝は三好を騙そうとしている。三好側もそれを理解して騙された振りをしている。義輝を迎えるために邸を改築しているらしい。さて、如何なるか……。




永禄三年(1560年) 十二月上旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱




 庭を見ている。憂鬱だな。今日は非番なのに曇天で朝から小雨が降っている。後で近衛家に行かねばならないんだが……。こんな天気の時に行くから信頼されるのだ。幸い雨は小降りだ。行こう。信頼というのは能力だけの問題じゃない、人格も有るんだ。ここは我慢だ。律儀だと言われるだけの実績を作らなければ……。


 春齢を迎える準備は整いつつある。あと十日もすれば婚儀の日を迎える。桔梗屋に随分と世話になった。商人と懇意にしていると色々と便利だ。婚儀は内々に行うと公表している。祝いも席に来るのは飛鳥井一族の他は公家は山科の大叔父、その息子、葉室の大叔父、そして持明院基孝ぐらいのものだ。実母も来る。会うのは久し振りだ。養母が是非にと頼んだらしい。有難い事だ、頭が上がらん。


 朽木からは御爺と大叔父の蔵人が来る。長門の叔父は来ない。京に来れば義輝に挨拶しないわけにはいかない。それを避けたという事だ。御爺も挨拶はするが義輝も御爺にはきつい事は言えない。なんと言っても千五百貫もの銭を受け取っているからな。長門の叔父を始め京に居た叔父達からは出席出来ない事を詫びる文が来たからそちらの立場は分かっているから気にしていないと返事を書いておいた。いずれ婚儀が終わったら春齢を連れて朽木へ行こう。蔵人頭になったら忙しいが帝に頼んで休暇を貰おう。


 「新蔵人様」

 九兵衛が何時の間にか来て片膝を突いている。もうちょっと気配を出してくれ。自分の鈍さが嫌になるわ。

 「如何かしたか?」

 「お客様が?」

 「誰だ? 弾正殿か?」

 九兵衛が首を横に振った。ふむ、春日局かな? しかし彼女が来るなら夜だと思うんだが……。


 「政所執事の伊勢伊勢守様にございます」

 「……分かった。書院にお通しせよ」

 「はっ」

 「今日は冷える。この雨の中を来たのだ、寒かろう。白湯をお出ししてくれ」

 「はっ」

 九兵衛が立ち去った。


 政所は財政、領地の訴訟を預かる所だ。執事というのは政所の長官だから伊勢伊勢守は幕府の重臣と言って良い。但し、義輝の信頼は厚くない。何と言ってもこの男は親三好派なのだ。伊勢氏は代々政所執事を務めてきた。そのため政所は伊勢氏の影響下に有る。この男の所為で義輝の意向は何も通らないとまで言われている……。その男が俺に会いに来た。こんな天気の日にだ。一体何が目的なのか……。悩んでいても仕方ないな、書院に行くか。


 書院に入ると初老の男が頭を下げた。

 「お待たせ致しましたな」

 「いえ、こちらが急に押しかけたのでございます。どうかお気になさらずに」

 正面に座って男を見た。品の良い老人だ。だが一筋縄ではいかないふてぶてしさを感じた。気のせいではないだろう。老人の前に置かれた茶碗には白湯が無かった。やはり外は寒いらしい。


 「失礼致しまする」

 声が有って玉が入ってきた。俺の前に茶碗を置こうとするから伊勢守の茶碗と交換するように、俺は後で良いと言った。

 「直ぐにお持ち致しまする」

 玉が立ち去ると伊勢守が”お気遣い、有り難うございまする”と言って頭を下げた。


 「お気になさいますな、今日は冷えまする。さ、遠慮無く」

勧めると老人が一礼して茶碗を手に取った。両手で持ち口元に運ぶ。少し飲んで満足そうな表情で茶碗を置いた。

 「生き返りますな」

 「それは宜しゅうおじゃりました。ところで今日は一体どのようなご用件での御来訪でおじゃりましょう? この雨の中、わざわざいらっしゃるとは……」

 老人が”されば”と言った。


 「春齢姫との御結婚、真におめでとうございまする」

 「有り難うおじゃりまする」

 「後日改めて幕府より御祝いを贈らせて頂きまする」

 「そのようにお気遣いを頂かなくとも」

 老人が”いえいえ”と首を横に振った。

 「新蔵人様には運上の件でもお世話になっております。これは当然の事で」

 「……」

 お世話ね……。義輝は運上の件で不満を漏らしているって聞いてるんだけどな。五千七百貫は本当は自分の物なんだって。三好が淀川で五千貫も稼いだからな。俺と三好にしてやられたって悔しがっているらしい。


 「ですが幕臣達の中には新蔵人様に不満を持つ者が居ります。お気を付け下さい」

 「……幕臣、でおじゃりますかな?」

 老人が目を伏せた。

 「……公方様にも困ったもので……」

 そう、義輝が不満を言うから追従する者が出る。追従する者が続けば徐々に激化する。自分達で煽り合っているだけだ。玉が白湯を持ってきた。一口飲む、老人も一口飲んだ。


 「お成りの事はご存じであられましょう」

 「はい」

 「あれを提案したのは某でございます」

 「……」

 「三好家を幕府内にしっかりと取り込む。それが大事だと思ったのでございますが……」

 「……」

 この男、お成りが三好を騙す擬態だと知っているな。なるほど、幕府のためを思ってお成りをと提案したがそれを利用されたか。その事で義輝に不満が有るのだ。


 「幕府には力が無い。力が有る者を利用しなければならないのですが……」

 そのためには権威が要る。権威と力が一つになる事で相乗効果が生まれるのだ。だが義輝は権威を高める事に関心を持たない。

 「関東で長尾が戦をしていると聞きます。そちらに期待しているのでおじゃりましょう」

 「かもしれませぬなあ」

 六角、畠山と文を交わしている事は指摘しなかった。この男、単純な親三好派じゃない。三好を利用して幕府を強化しようとしている。お成りも三好は義輝の家臣なのだと周囲に認識させるのが目的だろう。ここに来たのも警告が目的だ。俺に万一の事が有っては幕府と朝廷の関係が益々悪化する。それを避けたいと思っているのだろう。


 俺よりも自分の事を心配した方が良いぞ。三好は甘くない。あんたが何を考えて自分達に接近したか察する筈だ。足利を否定する三好にとってあんたは或る意味一番厄介な存在なんだ。今は利用価値があると見ているのだろうがいずれは不要になる。その時は孤立する事になる。老人はそれから三十分ほど俺と話をして帰った。大した話はしていない。毬は元気か、太閤殿下は元気か、そんなものだった。


 


明日の更新は夕方になります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 本編のほうは、買っているので、あえて読まないようにしてます。 登場人物が多すぎて、web上で読むのは辛いからね。紙の本だと読み返すのが楽でいい。外伝は、二巻まで買って....登場人物が少ない…
[一言] 伊勢伊勢守は足利義輝個人ではなく、組織としての公方、幕府に忠義を立てていたのでしょう それ故に幕臣というより義輝の幇間たちから疎んじられて、直接 公方に謹言する事も叶わず、切羽詰まっての新蔵…
[気になる点] 市村新田は、名に新田とあるとおり江戸期の大和川付け替え工事に伴う新田開発によって生じた地名のようなので、この時代は古大和川の河床ではないかと… [一言] 朝倉義景から離縁された近衛家の…
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