相模の獅子
明日も更新しますよ。
永禄三年(1560年) 九月下旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「あ、う」
殿下が声を上げた! 目覚めた! 助かったのだ。ホッとした。
「兄上! お気がつかれましたか?」
「良かった」
「父上」
慶寿院、寿、毬の三人が声を弾ませた。俺も”殿下”と声を掛けた。俺が朝早くに近衛家を訪ねて殿下の側に座ると小半刻程で目を覚ましてくれた。良かった、これで最悪の事態は防げた事になる。
「宜しゅうございますか?」
医師が声を掛けてきた。この男も大変だよな、昨日は寝ずの番だったんだから。医師が殿下の傍に寄ると腕が動くか、足が動くか、喋れるかを確認している。やはり左半身が上手く動かないようだ。そして喋るのにも苦労している。慶寿院、寿、毬の顔色が曇った。後遺症が出る事は覚悟していただろう。それでもやはりショックなのだ。
起き上がろうとする殿下を抑えた。
「殿下、ご無理はなりませぬ。飛鳥井新蔵人におじゃります。分かりまするか?」
殿下が頷いた。
「み、水」
「喉が渇いたのでおじゃりますな?」
殿下が頷いた。寿が立ち上がり“今用意します”と言って立ち去った。
「寿殿が水をお持ちします。今しばらくお待ちください」
殿下が頷いた。
「良くお聞き下さい。殿下は昨日、お倒れになったのです。卒中です。一昼夜、眠っておられました」
「そ、つ、ちゅう」
回らない口で言う。表情から驚いているのが分かった。
「おそらく、腕や足、口にも御不自由を感じておられると思います。それは卒中の所為です。お分かりになられましたか?」
殿下が頷いた。そして周りを見回した。慶寿院、毬の顔を見た。不審の色がある。
「如何なされました?」
「く、くぼ」
公方? 義輝か……。
「公方でおじゃりますか? 公方は殿下が倒れたと聞いて直ぐに駆けつけたのでおじゃりますが仕事が有るとの事で已むを得ず室町第に戻られました。今使者を出します。直ぐに駆けつけましょう」
殿下が納得したような表情を見せた。
内心では忸怩たるものを感じた。本来ならこの場には俺では無く義輝が居るべきなのだ。早朝に来れば殿下の目覚めに間に合った。来なかったのは来る意志が無かったからだろう。使者が来てから近衛邸に行けば良いと思ったのだ。本来なら幕臣達が行くべきだと言わねばならないんだが……。寿が戻った。殿下が身体を起こそうとする。慶寿院と共に後ろから支えた。寿が茶碗の水を飲ませ毬が心配そうに見ている。飲み終わると殿下が”ホウッ”と息を吐いた。
「麿はこれより宮中に赴き殿下がお目覚めになられたと帝に言上致しまする。帝は殿下がお倒れになった事をご存じでおじゃります。酷く案じられて山科権中納言を見舞いの使者としてこちらに遣わされました」
帝が知っているという部分には不満そうだったが見舞いの使者が来たと言うと嬉しそうになった。
「し、ん、くろ、うど」
「はい、ゆっくりとお話し下さい」
殿下が頷いた。
「帝へは、ま、麿が、御心、配を、おかけ、したと恐、懼、して、いたと」
「分かりました。そのようにお伝え致しまする」
殿下が満足そうに頷いた。大丈夫だ、ゆっくり話せば会話は出来る。
「御無理はなりませぬ。今はゆっくりとお休みください」
そう言って殿下の身体を床へ横たえた。
「寿殿、どなたかを室町第へ」
「はい」
「それと関白殿下にも文を。太閤殿下の症状は御軽いとお願いします」
「はい」
寿の声にも張りがある。多少後遺症が出ても太閤は生きているのだ。心強いのだろう。
「では麿は宮中へ向かいまする」
出来ればもう一度見舞いの使者を出して頂こう。帝は近衛家を重視している。公家達はそう思う筈だ。それと関白殿下には俺からも使者を出さなければ。これは詳しく書いた方が良いな。これからは今まで以上に密に連絡を取り合う必要がある。場合によっては京に戻って頂かなければならなくなるだろう。あとは地方の大名にも文を出そう。こちらは殿下の後遺症は極めて軽いと書いておこう。まあ、そんなところだな。
永禄三年(1560年) 十月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 春齢
「太閤殿下の御具合は如何ですか?」
「食欲も有りますし特に不安を感じるような事はおじゃりませぬ」
兄様が答えると母様が”そうですか”と言った。母様、ちょっと不安そう。
「身体の半身に痺れが生じるようでおじゃります。その所為で話すのにも影響が出ます。今はそれに少しずつ慣れつつある、そんなところでおじゃりましょう」
また母様が”そうですか”と言った。
「宮中への参内は出来ますか?」
兄様が眉根を寄せた。
「……今は無理です。少しずつですが殿下は歩く練習もしておじゃります。歩く事に慣れれば参内も出来ましょう。まあ杖のような物が要るかもしれませぬ。その辺りは帝にお許しを得なければなりませぬが……」
知ってる。兄様が太閤殿下のために杖を作らせたって。腕に巻き付ける帯が付いている杖で足元が四つ又になっているから凄く安定しているらしい。太閤殿下はとても喜んでいるって聞いた。桔梗屋に作らせたらしいけど桔梗屋はそれを沢山作って売り出したのだとか。結構売れてるみたい。母様が息を吐いた。
「皆がそなたの事を褒めていますよ。太閤殿下が危急の時、慌てる事無く手配りをした。特に帝のお見舞いを二度も頂いたのは見事だと。近衛家の方々も改めてそなたの事を頼りになると褒めているそうです」
「当然の事をしただけでおじゃります。褒められるような事ではおじゃりませぬ」
当然の事かしら? そうは思わないんだけど兄様はそう思っているみたい。何で褒められるのか分からずにちょっと不満そう。
「室町第への出仕は止める事は出来ませぬか?」
「……」
「そなたと公方を比べる人が多いようです。太閤殿下の甥であるのに公方は殿下を心配しなかった。近衛家の方々を励ます事も無かった。情が薄いと非難の声が出ています。幕臣達の中にはその事でそなたに不満を持つ者も居ると聞きます」
「……」
兄様は無言。母様の言葉を俯きながら黙って聞いている。
「私も室町第には行って欲しくない」
「……また無茶を……」
兄様、口調が弱い。
「焼き餅じゃないわよ。飛鳥井にとって近衛家との強い紐帯が必要だというのは私にも分かります。太閤殿下が動けない今、御台所を支えられるのは兄様だけと近衛家の人達が思うのは当然だと私も思う。でも危険よ、引き受けるべきじゃ無いわ」
「……」
兄様が一つ息を吐いた。
「兄様は馬で近衛家に向かったのでしょう」
「……ええ」
「公方は輿で向かった。公家の兄様が馬で駆け付けたのに武家の棟梁である公方が輿を遣うとは……。皆がそう言って公方を嗤っているの」
”愚かな事を……”。兄様の表情が渋い。こんな時だけどやっぱり素敵。
「公方には立場や格式という物があるのです。移動に輿を使うのはおかしな事ではおじゃりませぬ」
「そうかもしれないけど、……でも嗤われているの。近衛家の人達も公方よりも兄様を頼りにしているって……。公方も幕臣達も面白くない筈よ」
「……」
「ねえ、駄目?」
兄様が一つ息を吐いた。
「心配して頂けるのは有り難いと思いますが大丈夫でおじゃります。公方も幕臣達ももうじき麿に関わっている暇など無くなりましょう」
母様と顔を見合わせた。
「如何いう意味です、新蔵人殿」
母様の問いに兄様が軽く笑い声を上げた。
「丹波で香西、波多野が畠山を助けようと兵を挙げました。両者を動かしたのは坂本にいる前管領の細川晴元。当然ですが公方と六角が絡んでおじゃります。三好方は内藤備前守が香西、波多野に向かいます」
「……」
「そして紀伊では根来、粉河寺が畠山を救うために兵を挙げるようです。こちらには松永弾正、三好筑前守が向かいます。三好と畠山の戦も此処が正念場でおじゃりましょう」
そんな事になってるんだ。母様も驚いている。
「関東では越後の長尾が上野に攻め込みました。今頃は上野に有る北条側の城を攻略しておじゃりましょうな。関白殿下も同行しているやもしれませぬ。さて、どうなるか……」
あーん、やっぱり兄様格好良い! 近衛の寿姫が兄様に夢中だって聞くけど絶対渡さない。兄様は私のものよ!
永禄三年(1560年) 十月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「お久しゅうございまする。お変わりも有りませぬようで」
「真、久しいな。そなたも元気そうで何よりだ」
二人で笑顔で向かい合う。うん、和むなあ。相手は堀川主膳、三好の忍びの棟梁なんだけど笑顔の似合う男なんだ。会っていて楽しい。
「そなたには礼を言わねばならぬ」
「はて」
「長助の野菜だがなかなか良い、重宝している」
主膳が”それは”と言って顔を綻ばせた。長助は飛鳥井家に出入りの野菜売りになっている。女達は長助の野菜を値切るのが楽しみらしい。今日も朝早くに野菜を売りに来たのだが夜に主膳が訪ねても良いかと聞いてきた。勿論オーケーだ。こっちも話したい事が有る。
「あれは忍び働きよりも百姓の方が性に合うという困った男でして」
「良いではないか。人は喰わねば生きていけぬ。その喰う物を作るのだ。誰に恥じる事も無い、立派な仕事でおじゃろう」
主膳が益々困ったように笑う。
「長助に伝えてくれ。土地が足りなければ此処で作れば良いとな」
「よろしいのでございますか?」
「構わぬ」
「ではそのように伝えましょう」
二人で声を合わせて笑った。傍で控えている家令の九兵衛も笑っている。
「ところでそなたが此処に来たという事は畠山との戦もそろそろ終決かな?」
「はい」
「丹波の香西、波多野は動けぬか。流石、戦上手で知られた内藤備前守でおじゃるな。修理大夫殿の信任が厚いのも道理よ」
主膳が笑みを浮かべた。うん、余裕の笑みだな。
「紀伊は如何かな?」
「根来、粉河は腰が砕けましたようで」
「ほう、そうか」
主膳が意味有りげに俺を見ている。そんな事は貴方も知っているでしょう、そんな目だ。まあ知っているよ。香西、波多野は内藤に抑えられとても京、摂津方面には攻め込めない。つまり三好の混乱は見込めない。そして根来、粉河は現状では松永弾正、三好筑前守を相手に勝つ目算が立たない。という事で挙兵は取り止めにしたらしい。うん、現実的な判断だ。賢いぞ。
「公方様にも困ったもので……」
「……」
「前管領を使えば三好家の方々が怒るとお分かりでしょうに……。また懲りずに手を御組みになった」
「……」
主膳の顔には笑みが有る。だが先程までとはちょっと違うな。何処かで軽蔑するような色が滲み出ている。
「仕方有るまい。公方には三好と共に天下を治めるという意志は無い」
「左様でございますな」
「そなた達でおじゃろう。公方を貶すような噂を流したのは」
「……」
「貶すのは良いが麿を使うな。迷惑でおじゃるぞ」
主膳が無言で頭を下げた。全くなあ、何で俺を巻き込むかね。
「此度、麿は太閤殿下のたっての頼みで御台所の元に御機嫌伺いに行かねばならなくなった」
行きたくないが太閤殿下に回らない口で”頼む”と言われたら断れないよ。それに寿も毬も心細そうなんだ。あの二人、強そうに見えるが強い女じゃ無い。どちらかと言えば庇護を必要とする女だ。毬が近衛邸にしばしば戻るのも不安なのだろう。父親に会って自分を庇護してくれる存在を確認しているのかもしれん。以前のような月に二日じゃ足りんな、殿上の仕事もあるから五日に一度は御機嫌伺いに行かないと。近衛の邸にも行かなければならん。折角だ、寿だけじゃ無く毬にも笛でも教わろうか。
「近衛家の方々は公方様よりも新蔵人様を頼りにしておられますからなあ。これは我らが噂を流す前からの事でございますぞ。特に寿姫様は新蔵人様に並々ならぬ御執心だとか。公家の方々は新蔵人様を羨んでいるそうで」
「無責任な噂だな」
「真に、噂で?」
主膳が俺の顔を覗き込んだ。あのなあ、俺には婚約者が居るんだよ。それも帝の娘だぞ。浮気なんてもってのほかだ。
「寿殿は太閤殿下が御倒れになった事で不安なのだ。麿を頼りにするのもそれ故の事、それ以上ではおじゃらぬ」
主膳と九兵衛が顔を見合わせている。何で? お前ら基本的に敵対関係に有る仲だろう。何でそこで首を振ったり溜息を吐く。俺の知らないところで通じているのか?
「妙な噂の所為で皆が要らぬ心配をする。やり辛くて敵わぬ」
養母も春齢も心配が凄いんだ。養母は俺の身が危ういと言っている。春齢も俺の身を案じているが半分は焼き餅だな。
「麿が室町第へ行く事、三好孫四郎殿は何と?」
俺の問いに主膳が顔を引き締めた。
「面白くは思っておられないようです。ですが仕方がないとも思っておられます。まあ新蔵人様が足利に協力する事は無い。公方様が新蔵人様を頼る事も無いだろうと」
あのなあ、そういう風にお前等が仕向けたんだろう。
「それなら良い」
「関白殿下はお戻りになりませぬので?」
主膳が俺をジッと見ている。なるほど、今日訪ねてきたのはこれが目的か……。畿内での戦争は終わりが見えた。始まりつつ有る関東の戦が気になったという事らしい。
「どうでおじゃろうな。近衛家からは太閤殿下の御病状は軽いと文を送った。麿は今少し詳しく左半身に痺れが有る。命に別状は無いが中風の症状が出ていると書き送った。お命に別状が無いとなれば戻らぬのではないかな」
主膳が”なるほど”と頷いた。戻るとすれば関東制覇の目途が立った時か失敗が分かった時、或いは京の情勢が大きく変わった時だろう。現状はそのいずれでも無い。
「不安かな?」
問い掛けると主膳がこちらをじっと見た。あら、挑発されたとでも思ったかな。
「随分と兵が集まるようだと聞いております。新蔵人様は関東制覇はならぬと見ていると聞いておりますが真にそう思われますか? 三好家の内部でも不安視する者は少なく有りませぬが……」
その一人が三好孫四郎かな。
「畿内で戦を起こしたのは三好の目を関東から逸らすため、そう思ったかな?」
「そこまでは……」
主膳が苦笑している。そこまでは追い込まれていないか。
「兵が多くても烏合の衆では意味がおじゃるまい。それに北条の隠居を甘く見ない事だ。敵が大軍だからといって居竦むような男ではおじゃらぬ」
「なるほど、川越夜戦でございますか」
主膳が頷いた。川越夜戦では氏康は十倍近い敵を相手に怯む事無く戦い打ち破っている。景虎も簡単に関東制覇がなるとは思っていないだろう。




