表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/100

寂寥




永禄三年(1560年) 九月下旬   山城国葛野・愛宕郡 東洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱




 縁側に出て空を見る。秋晴れの良い天気だ。早朝に素振りをして朝餉を取ってから弓の稽古に励んだ。普通ならその後は出仕するんだが今日は非番だからな。柴田左之助、巳之助兄弟を相手に剣、棒の稽古だ。強いんだよ、二人とも。全然勝てない。まあ身体が大きくなれば違ってくる筈だと二人は言うんだが本当かな。ちょっと自信を失う時もある。その後は素手での格闘戦を学んだんだがこれは小雪が相手をしてくれた。男が相手じゃ身体が大きくて訓練にならないんだ。まあ小雪にもあっという間に関節を決められて押さえ付けられた。俺が汗びっしょりなのに小雪は涼しい顔をしていたな。猫が鼠をいたぶっているような感じだ。落ち込むわ。少しは強くなっているのかな? 心配になる時がある。


 午後からは宮中に出向いて養母の御機嫌伺いだ。ついでに笛、琵琶を教わってこよう。先日、近衛家の寿に笛を教わったら筋が良いと褒められた。お世辞でも嬉しい。少しだけどやる気が出ている。まあ美人に褒められたらその気になるのは男の哀しい性だよな。寿に笛と琵琶を教わると言ったら春齢がプンプンしていた。でもね、これは技能習得を表看板にした近衛と飛鳥井の友好関係の維持と深化なのだよ。養母はその辺りは分かっている。飛鳥井は周囲から妬まれるほどに慶事続きだ。近衛との関係を疎かには出来ない。


 「新蔵人様」

 名を呼ばれた。声に切迫感がある。振り返ると間宮源太郎が緊張した面持ちで控えていた。

 「如何した?」

 出来るだけ穏やかな声を出した。俺が焦ると相手も焦る。それは上手くない。

 「近衛家より使者が」

 「……」

 「至急お出で頂きたいとの事にございます」

 至急? はて、また毬が何かやったかな。春日局とは仲が良くなったみたいだから小侍従と女の争いを始めたか。或いは派手な夫婦喧嘩で義輝をぶん殴ったか。


 「使者は?」

 訊ねると源太郎が首を横に振った。

 「他に行くところがあると」

 「……」

 「大分慌てておりました」

 夫婦喧嘩じゃなさそうだな。相当な厄介事らしい。急いだ方が良さそうだ。


 「馬を使う、用意してくれ」

 「はっ、忠蔵を付けまする」

 「それと養母上に今日は行けなくなったと伝えてくれ」

 「承知しました」

 源太郎が畏まってから俺の前を去った。どんな厄介ごとなのか……。溜息が出た。


 この邸には厩が有り馬が二頭居る。伯父の家にも馬が一頭居る。飛鳥井が裕福だとやっかまれる筈だよ。馬を飼っているんだからな。現代で言えば車を持っているようなものだ。貧乏な家では馬なんて飼えない。車と同じで維持費が大変だからだ。それは武家を見れば分かる。馬に乗れるのはそれなりの身分の者だけだ。普段は使わない。もっぱら急ぐ時、遠出の時に使う。


 俺の邸から近衛家まで馬に鞭を入れて走った。供の忠蔵も馬だ。この時代は馬専用の道なんて無い。俺達を見ると皆慌てて道を空ける。そこを突っ走った。多分、飛鳥井の鬼子が無茶をすると非難囂々だろう。明日になれば宮中では近衛に呼ばれて慌てて飛んでいったと笑い話になるに違いない。しかしね、そのくらいで良いんだよ。太閤殿下も悪い気はしない筈だ。


 近衛邸に着き来訪を告げると直ぐにパタパタと音がして寿が姿を見せた。大分慌てているなと思う間もなく寿が”新蔵人様”と縋り付いてきた。あ、いやね、玄関先で抱きつかれても困るんだけど……。それに俺未だ数えで十二歳だよ。縋られたって困るって。

 「父が、父が」

 「太閤殿下が?」

 問い返すと寿が頷いた。顔色が良くない、いや青褪めている。一体何が……。


 「倒れたのです」

 「失礼致しますぞ」

 邸内に入った。寿が”こちらへ”と案内してくれる。何時も会う部屋じゃ無い。通されたのは殿下の寝室だった。殿下は臥所に横になり上には単衣を掛けている。傍に居た男が俺を認めて頭を下げた。多分医師だろう。殿下の傍に座った。寿が俺の隣に座る。”殿下”と声を掛けた。目を開ける事は無い。眠っている、或いは意識が無いのか……。寿に視線を向けると悲しそうな表情で俺を見返した。


 「半刻ほど前に立ち上がった時にそのまま前に御倒れになって……」

 「……お苦しみになられましたか? 胸を押さえるような素振りは?」

 寿が首を横に振った。心臓じゃ無い、殿下の顔色は悪くない。とすると……。

 「そなた、薬師でおじゃろう。麿は飛鳥井新蔵人である。殿下の御病状は?」

 問い掛けると医師が沈痛な表情で”はっ”と畏まった。

 「卒中かと思いまする」

 やはりそうか。脳溢血、脳血栓、脳梗塞、そんなところだな。


 「一両日中に意識が戻られれば良いのですが……」

 医師は言外に戻らなければ殿下は死ぬと言っている。寿が俺の腕を強く掴んだ。

 「それと意識が戻られても御口や手足に多少の不自由が生じるものと思われます」

 腕を掴む力が更に強くなった。

 「分かった。麿と寿殿に出来る事は?」

 医師が言い辛そうな表情を見せた。


 「残念では有りますがございませぬ。殿下がお気がつかれるのを神仏に祈って頂く事だけにございます」

 「分かった。寿殿、少しよろしいか?」

 「はい」

 声が震えている。胸が痛んだ。


 寿の手を引いて部屋の片隅に行った。

 「お気を強く持つのです」

 「ですが」

 「大丈夫です。殿下はきっと目を覚まされます。信じるのです」

 寿が”はい”と頷いた。

 

 「室町第には報せましたか?」

 小声で問うと寿が顔を寄せてきた。

 「はい、あそこには毬と慶寿院の叔母上が居ますから」

 「公方には?」

 「勿論、報せました」

 ならば幕府は良いか。


 「御親族には?」

 「越後に行った兄上を除けば皆に報せました。新蔵人様、兄に報せた方が良いと思われますか?」

 寿が不安そうな表情をしている。気持ちは分かる。関白殿下は長尾の関東制覇を助けるために行ったんだ。それに今頃は長尾は関東へ攻め込んでいる筈だ。父親が病気だと報せて殿下の心を乱してはと思っているんだろう。だが父親の病状を隠して良いのかという思いもある。


 「一両日待って使者を出しましょう。殿下がお気がつかれたのなら症状は軽いので心配要らないと文を出します。万一の場合はこちらで全て執り行うので心配しないで欲しいと文を出しましょう」

 寿が”そうですね”と頷いた。現代じゃ無いんだ、簡単には戻ってこられない。それに殿下が戻るまで葬儀を延ばすなんて事も出来ない。


 「朝廷には、帝にはお伝え致しましたか?」

 寿が首を横に振った。有力者の健康問題は簡単には公表出来ないからな。しかしな、助かっても後遺症は出る。もう隠せないと判断するべきだ。

 「麿は報せた方が良いと思いますぞ。帝が見舞いの使者を遣わされるかもしれませぬ」

 寿が”そうですね”と言った。

 

 人が来た。女中が”寿様”と部屋の入り口から声を掛けてきた。

 「如何しました?」

 「公方様、御台所様、慶寿院様が」

 「分かりました。今行きます」

 寿が俺に対して軽く頭を下げてから立ち上がった。寿が部屋を出るのを見届けてから殿下の傍に移動した。


 厄介な事になった。たとえ殿下が快復してもその政治的な影響力は相当に低下する。飛鳥井はピンチだ。足利もピンチだな。宮中の親足利勢力も減少する事になる。六角が敗れ畠山が劣勢な今、足利はまた一つ押し込まれた……。喜ぶのは宮中では九条、二条。そして三好か。


 ドンドンドンドンと足音がした。義輝が姿を現した。俺を見て一瞬だが足を止めそして不愉快そうな表情で部屋の中に入ってきた。そして慶寿院、毬、寿が入ってきた。慶寿院は目を瞠り毬は嬉しそうな表情を見せた。あのなあ、不謹慎だろう。そして最後に細川兵部大輔が入ってきた。


 「何故此処に新蔵人が居るのだ?」

 義輝が俺の対面に座り不愉快そうな表情で俺を見ている。部外者は出て行けとでも言いたいのだろう。

 「寿殿から使いを頂きましたので」

 答えると義輝の表情が益々不愉快そうになった。悪かったね、俺は信頼されているんだよ。君よりもね。義輝が殿下を挟んで俺の対面に座り慶寿院がその脇に座った。寿が俺の脇に、その脇に毬が座った。兵部大輔は部屋の入り口で控えている。慶寿院が”兄上”、毬が”父上”と声を掛けた。勿論返事は無い。


 「殿下の御病状ですが卒中との事でおじゃります。この一両日が山だとか。御回復なされても中風の症状が出るだろうとの事でおじゃりました。そうであったな?」

 俺が医師に確認すると医師が”はい”と答えた。慶寿院が”卒中”、毬が”そんな”と声を出した。二人とも表情が暗い。関白殿下が居ないのだ、二人にとって太閤はもっとも強く、頼りになる後見人だ。それを失えばどうなるか。その不安を感じているのだろう。


 「寿殿とも相談したのですが関白殿下には一両日を待って使者を出しては如何でおじゃりましょう。殿下が御回復なされれば御病状は軽い、心配要らないと文に記します。万一の場合はこちらで全て執り行うので心配しないで欲しいと……」

 慶寿院、寿、毬が顔を見合わせた。慶寿院が頷くと毬も頷いた。義輝は不満そうだが頷いた。部外者の俺が仕切るのが面白くないらしい。


 「帝へは今直ぐお伝えすべきだと思いまするが」

 ”如何でおじゃりましょう”と言う前に義輝が”何を言う!”と目を剥いて言った。

 「そのような事をすれば伯父上が病だと皆に知られてしまうではないか!」

 「御回復なされても中風の症状が出ます。殿下の御病気は隠せませぬ」

 「……」

 義輝が言葉に詰まった。女三人は悲しそうな表情をしている。


 「それに帝が見舞いの使者を遣わされるかもしれませぬ」

 公家にとって帝の御信任は何よりも大事だ。見舞いの使者が来るというのは公家にとって最大の名誉だ。殿下が回復すれば喜ぶだろうしその事が殿下の政治的なパワーにもなる。多少障害が残っても無視は出来ない。それに関白殿下も見舞いの使者が来たと聞けば喜ぶ筈だ。その事を言うと女三人が顔を見合わせて頷いた。


 「そうですね、新蔵人殿の言う通りです」 

 「私もそう思います。そうでしょう、毬」

 「ええ」

 女三人は納得、義輝は不満そうだが何も言わなかった。

 「では麿がこれより朝廷へ赴き帝へお伝え致しましょう。そして見舞いの使者の事もお願い致しまする」

 慶寿院が”お願い致します”と言ったので頭を下げてから立ち上がった。部屋を出る時に兵部大輔が深々と頭を下げたのが見えた。良いのかねえ、義輝が顔を顰めるぞ。


 それにしてもちょっと問題が有るな。義輝は足利の人間だが殿下から見れば甥だ。立派な親族といって良い。それなのに近衛家の女達は誰も義輝を重んじていない。義輝の意見を聞こうとか重んじようという姿勢が見えないんだ。要するに余所者扱いだ。むしろ俺の方が頼りにされている。義輝と近衛家の関係は俺が考える以上に希薄、いや険悪なのかもしれない。



永禄三年(1560年) 九月下旬   山城国葛野郡   近衛前嗣邸   慶寿院




 「帝は太閤殿下の御容態を大分気にしておられました。麿を召し出し直ぐに殿下の元へ行けと。殿下の回復を願っていると家人に伝えよと仰せられました」

 山科権中納言の言葉に”畏れ多い事にございまする”と答えて頭を下げました。

 「兄の意識が戻らぬのが残念にございます。今のお言葉を聞けばどれ程喜んだか……。兄に代わりお礼を申し上げまする。帝にそのようにお伝え下さい」

 「勿論におじゃります。では麿はこれで」

 立ち上がった山科権中納言を見送ろうとすると新蔵人が”お待ちを”と言いました。


 「麿がお見送りを致しましょう。皆様方は殿下の御側に」

 迷っていると”今は大事の時でおじゃります”と言う。確かにその通りです。山科権中納言も頷いています。”ではお願い致しまする”と答えると新蔵人が軽く頭を下げて立ち上がりました。

 「大叔父上、では」

 「うむ」

 二人が歩き出しました。部屋を出て行きます。溜息が出ました。


 「叔母上」

 寿が不安そうな目で私を見ています。

 「大変な事になったと思ったのです」

 寿と御台所が頷きました。嘘です。本当は息子が此処に居てくれればと思ったのです。私に変わって山科権中納言に応対してくれればと……。義輝は新蔵人が宮中へ出向くと直ぐに室町第に戻ってしまいました。此処に居てもする事が無い、明日また来ると言って……。


 その通りです。此処に居ても何も出来ませぬ。ただ横たわる兄を見ているだけです。ですが情が無いと思いました。今日一日だけで良いのです。此処に居て私達を励まして欲しかった。義輝には近衛への想いはそれほど強くは無いのかもしれませぬ。口煩い母親と不仲な嫁、むしろ疎んじる気持ちがあるのでしょう。寂しいことです……。


 新蔵人が戻ってきました。寿の隣に座ります。寿の不安そうな表情が和らぐのが分かりました。頼りにしているのでしょう。本当なら義輝こそがその役目を果たさなければならないのに……。

 「新蔵人殿、礼を言います。新蔵人殿の尽力で帝のお見舞いを頂きました」

 頭を下げると新蔵人が”いえいえ”と言いました。

 「麿は何もしておりませぬ。殿下の事をお伝えすると帝は直ぐに見舞いをと仰られました。殿下への御信任の厚さに驚きました」

 本当に? そのように事を運んだのでは? 寿から聞きました。新蔵人は兄の病気を知っても狼狽える事無く寿を励まし段取りを付けたそうです。寿は”まるで巌のような”とその頼もしさを比喩していました。


 「あとは殿下が御回復なされれば……」

 「回復すると思いますか?」

 思い切って訊ねてみました。寿と御台所が”叔母上”、”義母上”と私を窘めました。

 「麿は御回復なされると信じております」

 静かな声でしたが心に響きました。そうです、信じなくては……。


 「もうじき暗くなりましょう。麿はそろそろ失礼させて頂きまする」

 「帰るのですか?」

 寿が不安そうな声を上げました。

 「今夜は泊まっていって」

 御台所も縋るような声を出します。

 「そうは行きませぬ。泊まっては後々寿殿と御台所に御迷惑をお掛けする事にもなりかねませぬ」

 「……」

 「殿下が御病気の今、近衛家は隙を見せてはならぬのです」

 二人は不安そうな表情をしています。本当なら私は二人を窘めなければならないのでしょう。でも私にも傍に頼りになる殿方に居て欲しいという気持ちがあるのです。義輝が居てくれれば……。


 「明日早く、こちらに参ります。帝からは明日の出仕は休んで良いとお許しを頂きました」

 そこまで手配を……。

 「新蔵人殿、今日は色々と御配慮をして頂き有り難うございました。心から礼を言います。大変厚かましいお願いですが明日もお願い致しまする」

 私が頭を下げると寿、御台所も頭を下げました。

 「夜中に何事か有れば遠慮せずに使者を下さい。こちらに駆けつけまする」

 「はい」

 「では失礼致しまする。見送りは御無用に」

 新蔵人が席を立ちます。立ち去る姿が消えるとどうしようも無いほどに寂寥を感じました。寿、御台所も寂しそうな表情をしています。


 「一人居なくなっただけなのに寂しいですね」

 「はい」

 「寂しいです」

 兄の顔を見ました。眠っています。お願いだから目を覚まして……、心からそう思いました。





明日も更新します。多分明後日も更新します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] >馬を飼っているんだからな。現代で言えば車を持っているようなものだ。 むしろ維持費の高さと速度を考えるとプライベートジェットくらいじゃないでしょう 一方、輿は担い手の人件費など気にしなくて…
[気になる点] 「現代じゃ無いんだ、簡単には戻ってこられない。」 この表現が気になります。主人公は原作第二話で現実を認識している筈なのに、これでは本人は未だ平成の世に生きていて、長い長い夢の中で生活し…
[一言] 今夜が山と言われてるのに、さっさと帰る義輝。 そりゃダメだよね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ