業
永禄三年(1560年) 九月上旬 山城国葛野・愛宕郡 東洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「目出度いの」
ニコニコ顔で盃を干したのは祖父の飛鳥井雅綱だった。皆がそれぞれの表情で頷く。まあ皆と言っても祖父の他には伯父の中納言飛鳥井雅教、その妻の佐枝、従兄の左少将松木宗満、左少将飛鳥井雅敦、叔父で難波家を継いだ侍従難波資堯、そして俺の七人だ。春齢も来たがったな。だが駄目だ。まあ結婚して宮中を退出したら少しは自由になるだろう。何処か近場で景色の良い所に連れて行ってやろうと思っている。
一番上座に祖父が居てその隣に伯父が居る。祖父達から見て左側に従兄二人と伯母が右側には叔父と俺が座った。俺が末席なのだがそれはそういう風にしてくれと俺が頼んだからだ。難波の叔父は俺より年上だからな。ちなみに俺と従兄の雅敦は白湯を飲んでいるがそれ以外は澄み酒を飲んでいる。内輪のお祝いに澄み酒なんて飲んでいるのは一部の公家だけだ。他は濁り酒を飲んでいる。飛鳥井が裕福と妬まれるわけだよ。
「何より嬉しいのは飛鳥井家、難波家が外様から内々へと変わった事でおじゃるの。帝の御信任を頂いた」
益々ニコニコだ。もっとも祖父だけじゃない、伯父、伯母もニコニコしているし叔父もニコニコだ。余程に嬉しいらしい。俺なんか面倒なだけだと思うんだけど。
「次は頭中将だな」
そう言ったのは宗満だった。この男、実は伯父の長男だ。歳は二十代半ばで俺が飛鳥井家に来た時は既に松木家に養子に行っていた。
長男を養子に出す、ちょっと不思議かもしれないが宗満は伯父が家人に産ませた子で母親は既に亡くなっている。伯父も扱いに困っていたらしい。そんな時に松木家から養子にと望まれた。伯父は良い縁だと受けたわけだ。そういうわけだから追い出されたと感じても良いのだがこの従兄は松木家に行った事を喜んでいる。
松木家はちょっと不思議な家で羽林の家格の家なのだが近衛中将から大弁となり参議を兼任するという羽林と名家を併せたような昇進をする家なのだ。時には大弁から蔵人頭に任じられ頭中将となることもある。大弁なのだから頭弁と呼ばれても良さそうだが家格が羽林だから頭中将らしい。まあそういう家だから当然だが内々だし帝の側近になりやすい。つまり出世しやすいわけだ。だから本人は大満足なのだ。伯父もその辺りを考えて養子に出したらしい。
もっとも飛鳥井家から松木家に養子に入った事でもしかすると自分は頭中将には成れないんじゃないかと多少の不安も有ったようだ。だが飛鳥井家は内々になったしもう直ぐ俺が頭中将に成るんじゃないかという話も有る。ならば俺も大丈夫だとニコニコなのだ。
「未だ未だ先の事でおじゃりましょう」
俺が答えると皆が頷いた。未だ十二歳だ。早くても来年の秋だろう。その頃なら春齢と結婚しているし帝の娘婿だからという名目で昇進させ易い筈だ。その辺りの事は皆も分かっている。
「小番もこれからは変わるのですね?」
「そうだな。これからは内々番となる。殿上人になった以上、左少将、右少将も小番に詰めることになる」
「まあ」
伯母が雅敦と俺を見た。不安そうな表情をしている。
小番というのは禁裏小番の事でこれは内裏に宿直し警護に当たる事を言う。この仕事は摂関家と大臣を除く公家が輪番で行うのだがこの禁裏小番が内々番衆と外様番衆に分かれている。詰め所が違うのだ。内々番衆は内々番衆所に詰めるのだがこれは帝の寝所の近くにある。一方の外様番衆は外様番衆所に詰めるのだがこれは殿上の下侍(清涼殿の殿上の間の南にある、侍臣の詰め所)に有る。そう内々と外様はここから来ている。
そして待遇にも差がある。内々番衆は帝、親王、女房らと接触する事が出来るが外様番衆は直接帝に接触する事は許されない。内々番衆を介して帝の指示を受ける事になる。その所為だろう。内々番衆の衣服は束帯(正装)であり外様番衆は衣冠・直垂(略装)だ。ついでに言えば内々番衆は外様番衆の代わりを務められたがその逆は許されない。この内々と外様は様々な行事においても差がついた。内々の家は誇りに思っただろうし外様の家は悔しく思っただろう。祖父達がニコニコなのも分からないでもない。
「まあ番は六日に一度だ。我等四人の内一人が詰めれば良い。左程の負担はあるまい。何をするかは後で教える」
番は人ではなく家で行う。本来なら俺は別家を立てているから一人で務めなければならない。難波の叔父も同様だ。だがそれでは大変だという事で伯父達と一緒で良いという事になっている。だから宿直は大体月に一回で済むだろう。伯父の言う通りだ、左程の負担ではない。
「大丈夫かな? 若い二人は」
祖父の言葉に皆の視線が俺と従兄の雅敦に集中した。
「帝の御傍に侍るのじゃ。歌舞音曲を望まれる事も有ると思うのだが……」
あ、それか。雅敦と顔を見合わせた。俺は勿論だが雅敦も余り自信有りそうには見えない。
「そうでおじゃりますな、父上。最低でも琵琶と笛はそれなりに熟せないと……」
「そうじゃのう」
伯父と祖父が顎髭を扱きながら頷いた。
琵琶と笛か……。まあ貴族としては身に付けておきたい技能だな。特に帝の傍近くに居る事が多くなるなら覚えておきたい。というのも天皇家にとって琵琶と笛はちょっと特別なのだ。天皇家では帝王学の一環として雅楽器を学ぶのだが代々の帝は特に琵琶を重視してきた。天皇家が持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)に分裂した時、持明院統がそれまで通り琵琶を重視したのに対し大覚寺統は笛を重視したという話を養母から聞いた覚えが有る。琵琶ほどではないにしても笛も習得すべき技能だったのだろう。
「如何かな?」
祖父が問い掛けてきた。
「麿は宮中で養母より雅楽の手ほどきを受けました。今も時折教えを受けておじゃりまする」
「麿も父上より教えは受けておりますが……」
祖父が”ふーん”と唸った。
「まあ、励むのじゃな。何なら麿が教えても良いぞ」
そうだな、地方へ逃げる事も有るだろう。和歌が下手なんだから琵琶と笛は覚えておきたい。祖父に”宜しくお願いしまする”と頭を下げた。従兄も頭を下げた。
永禄三年(1560年) 九月上旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「ほほほ、昇殿だけではなく蔵人に任じられるとは異例の事でおじゃるの」
太閤殿下が上機嫌で笑った。あのねえ、殿下。貴方は知ってたでしょ。帝から事前に相談が有った筈ですよ。
「飛鳥井家は慶事が続く。皆、喜んでおじゃろう」
「はい」
殿下が”うむ、うむ”と二回頷いた。
「室町第では皆面白くなさそうよ。特に公方様は毎日不機嫌そう。朽木の三人が帰る時に新蔵人殿に挨拶をしたでしょ。皆が自分を軽んじるんですって。ほほほほほほ」
毬も上機嫌に笑い声を上げた。あのなあ、その公方様は貴女の御亭主なのだけど分かっているかな? 訊いたら”え、そうなの?”とか言いそうだな。いや、“それがどうかした?”かな。
正直叔父達が訪ねてきた時は驚いたな。義輝が不快に思うのは分かっていた筈だ。それなのに来た。室町第では相当に嫌な想いをしたんだろう。当てつけに来たんだと思う。餞別に五貫ずつ渡したが随分と恐縮していた。帰国した叔父達からは丁重な挨拶状が届いた。これからは朽木のために働く、昵懇に願うと書いてあった。
「本当に凄いですわ。新蔵人様は期待されているのですね」
寿が俺を見ている。眼差しが強い、頬が熱くなった。お願いだからもうちょっと視線を緩めてくれないかな。心臓がドキドキするんだけど。それに俺、十歳以上年下なんだよ。そんな目で見詰める対象じゃないよ。朝倉義景の馬鹿野郎、お前がこの女を離縁するから俺がドキドキするんじゃないか。
蔵人に任じられてから新蔵人と呼ばれるようになった。俺としては右少将と呼ばれた方が武官らしくて気分が良いんだけどな。
「忙しくなるのう」
「はい、既に忙しくなっておじゃります。蔵人としての仕事もおじゃりますが琵琶に笛、それに和歌も学ばなければ……」
俺の答えに太閤殿下が”なるほどのう”と頷いた。
「寿に教わっては如何かな? 寿には一通り教えてある。それなりのものだが……」
寿が嬉しそうに頷いている。どうしよう? 年上の美人に教わるってちょっと気恥ずかしいな。
「寿も詰まらなさそうでの。気晴らしになればと思うのじゃ」
「……では時折お願い出来ましょうか?」
寿が嬉しそうに”はい”と言った。殿下が嬉しそうにしている。仕方ないよな、あんな縋るような目で頼まれたら。余程に寿の事が心配らしい。後で春齢にはきちんと説明しないと……。
「室町第にもいらっしゃいよ。私も教えて上げる」
「無理でおじゃります。麿が室町第に行けば皆が嫌がりましょう」
毬が”詰まらないの”と頬を膨らませた。子供っぽい仕草に皆が笑い声を上げた。毬も笑う。だが笑い終わると表情を改めた。
「ねえ、新蔵人殿。越後の長尾が関東に攻め入るみたいだけど……、どうなるのかしら?」
「……」
「以前室町第で無理だって聞いたわ。でも今川治部大輔が桶狭間で討ち死にして今川、武田、北条の三国同盟が揺らいでいるのでしょう? そこを狙って攻め込むみたいだけど……。新蔵人殿は春日局には関東制圧は無理だと言ったと聞いたわ。本当に無理なの?」
シンとした。皆が俺を見ている。困ったな……。
「公方様は毎日朝から晩まで長尾が関東を制圧すれば、そればかりよ。期待しているって言うより祈っているみたいなの」
「畠山が圧されているからの」
太閤殿下がボソッと吐いた。高屋城に籠もった畠山高政、安見宗房は相当に苦しい。そろそろ降伏せざるを得ないんじゃ無いかというのが重蔵からの報告だ。義輝にとっては六角が駄目、畠山が駄目、頼れるのは謙信だけ、そんな気持ちなのだろう。でもねえ、祈るって……。
「鬱陶しいのよね。うんざりなの。でも兄上が越後に行っているし……」
毬が表情を曇らせている。ジレンマだな。義輝が毬をきちんと扱っていれば毬も素直に応援出来るのに……。
「ねえ、本当に無理なの?」
毬が俺の顔を覗き込んできた。
「味方が大勢集まるらしいって聞いているのだけど」
「厳しいと思います」
答えると毬が溜息を吐いた。殿下と寿はじっと俺を見ている。
「今川は揺らいでおじゃりますが武田は健在でおじゃります。長尾が関東を制圧するのを武田が黙って見ているとは思えませぬ。それに……」
「それに?」
毬が先を促した。
「御台所、北条氏に代替わりが有った事をご存じでおじゃりますか?」
毬が視線を天井に向けた。
「……そういえば、そんな事を聞いた覚えが有るわね」
「北条左京大夫氏康殿が隠居して息子の新九郎氏政殿が跡を継いだ。その理由は飢饉でおじゃります」
”飢饉?”と声が上がった。毬じゃない、寿だ。殿下は無言だ。
「関東、いや関東だけではおじゃりませぬ。東国では酷い飢饉で民が苦しんでいるのです。北条氏が代替わりをしたのも左京大夫殿が民に有効な手を打てぬ事を詫びたもの、そして新たな当主の下で心を一つにしてこの危難に立ち向かおうというものでおじゃります」
この時代は飢饉は統治者に徳が無いから起きるのだという発想が有る。氏康は領民に責任を感じている。だから隠居すると言ったわけだ。
「つまり関東には米が無い。この状況で関東へ兵を出す。しかも大勢味方が集まる。戦よりも兵糧を如何するかで頭を痛める事になりかねませぬ」
この時期の謙信は未だ三十歳を超えたばかりだ。激戦で名を上げた第四次川中島の戦いも経験していない。義に厚い武勇の大将との評価は有るだろうが後世の軍神、毘沙門天の化身とまで言われるような評価は無い。寄せ集めの軍勢を一つに纏め上げられるだけのカリスマは乏しいと見て良い。
逆だったな。第四次川中島の戦いを先にやるべきだった。後世にまで激戦として名が残る戦いを先にするべきだったんだ。そうであれば関東の諸大名は謙信の威に皆が従っただろう。武田も北信で動いて謙信を牽制するのを躊躇ったに違いない。……焦ったのかな? 関白殿下が傍に居る、そして義輝の期待。そんなところに里見氏から救援の要請が届いた……。武田の脅威を認識していなかったとは思えない。だが……。毬が息を吐いた。
「やっぱり無理か」
毬が溜息を吐いた。溜息が深いわ。敵は分断して各個に叩くのがセオリーだ。だが謙信はそのセオリーを行わなかった。これじゃ勝てる筈がない。謙信自身、北条を滅ぼせると何処まで思っていたのか……。
“ホウッ”と息を吐く音が聞こえた。毬かと思ったら寿だった。
「新蔵人様は本当に公家ですの? まるで武家のような……」
「……公家でおじゃります」
寿がジッと俺を見た。
「朝倉左衛門督様と入れ替えてみたいですわ。直ぐに天下を獲りそうな」
寿が“ウフッ”と笑った。おいおい、危ない女だな。男を唆すような事をするんじゃない。義景がこの女を離縁したのはこの危なっかしさの所為じゃないかと思った。毬とは違った危うさが有る。
「畠山も相当に危ないらしいの。丹波の香西、波多野が畠山を助けようとしていると聞く。新蔵人は存じておるかな?」
「存じておじゃります。内藤備前守がそれを防ごうとしている事も存じておじゃります」
殿下が”うむ”と頷いた。
「ならば近江坂本に居る前管領がそれに絡んでいる事も知っておるか」
殿下が意味有りげに俺の顔を覗き込んだ。
「はい、丹波は細川の影響力が強い。それを期待しての事でおじゃりましょう。丹波から京を目指せば三好も無視は出来ませぬ。兵を出してそれを迎え討たなければなりますまい。三好を慌てさせる事が出来ますし高屋城の包囲が緩む可能性もおじゃりましょう。畠山が公方に泣きつき公方が前管領に畠山を助けてくれと依頼した。そうではおじゃりませぬか?」
今までは知らぬふりをしていたがもう隠す必要は無いだろう。そう思って答えると殿下が”ハハハハ”と笑い声を上げた。
「新蔵人は手強いのう」
女達も笑った。俺も笑った。なんて言うかな、近衛家の人間は嫌味が無いから助かるわ。俺も一緒に笑える。
香西、波多野は秋の穫り入れが終わってから兵を挙げるつもりだったらしい。長期戦になっても耐えられるようにと考えたのだろう。だが畠山は追い込まれている。義輝に泣きついたという事は秋の穫り入れが終わるまで保たないという事だ。三好修理大夫は内藤備前守に香西、波多野を抑えろと命じた。備前守に援軍は無い。松永弾正の弟だが軍事指揮官としての能力は兄の弾正以上だと聞く。相当に信頼されているらしい。
そして畠山は紀州の根来、粉河寺にも援軍を求めている。どうやら挙兵するようだがそちらには三好筑前守義興と松永弾正が向かうようだ。三好側もここが勝負所だと見たのだろう。手抜かりは無い。
「前管領も諦めきれぬようでおじゃるの」
「左様でおじゃりますな」
太閤殿下の声には憐れむような色があった。前管領細川晴元、畿内がここまで混乱する原因の一つがこの男に有ると言えるだろう。この男がもう少し上手く立ち回っていれば細川と三好、足利と三好の因縁も生まれなかった筈だ。そう思うと没落したのも当然だと思うし同情など全くしない。むしろ未だに復権を望んでいるのかとおぞましさを感じる。
一度は天下の覇権を握った男だ、諦めきれないんだろうな。だが三好がこの男を許す事は無い。それが分かっているから打倒三好を掲げる義輝に接近するんだろうが……。義輝も晴元も執念と言うよりも業が深いわ。天下の安定なんてまるで考えていない。自分が覇権を握る事だけを考えている。いや、三好もそれは同じだろうな。この乱世、綺麗ごとじゃ生きていけないんだよ。他者を殺してでも生き残る。いや、他者を踏み躙っても生き残る。そうでなければ自分も、自分に付き従う者も守れないんだ……。そう思うと公家も悪くないと思えるよ。




