惨劇
永禄三年(1560年) 八月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木成綱
「父上、兄上、京より戻りましてございます」
三人を代表して挨拶すると父と兄が笑みを浮かべて迎えてくれた。
「良く戻ったの」
「御苦労だったな」
父も兄も元気そうだ。兄は日に焼けただろうか? 領内を見回っているのかもしれない。
「京を去る前に右少将様に挨拶を致しました」
「ほう」
父が声を上げた。
「父上と兄上に宜しく伝えて欲しいとの事でございました。それと路銀に使って欲しいと銘々に餞別を頂きました」
一人に五貫の銭を貰った。普段付き合いの無い我等に十五貫もの銭を贈る。恐縮する限りだった。
「他に何か言っていたか?」
「いえ、特には……」
父の問いに答えると父と兄が顔を見合わせて笑った。はて……。
「何かございますので?」
「実はな、そなた達を朽木に戻してはどうかと言ったのは右少将なのじゃ」
「なんと!」
「真でございますか?」
「そのような話、出ませんでしたぞ」
三人で驚いていると父と兄がまた笑った。
「右少将様はそなた達の事を大分案じていてな。自分の所為で室町第では辛い思いをしているようだ、六角が浅井に敗れるようであればそれを機に朽木に戻した方が良いと仰られたのだ」
思わず弟達と顔を見合わせた。京でお会いした時はそのような事は一言も仰られなかった。ただ穏やかに我等の挨拶を受けただけだったが……。”父上”と弟の右兵衛尉が声を掛けた。
「今のお話で気になったのですが右少将様は六角が浅井に敗れると見ていたのでございますか?」
シンとした。父と兄が顔を見合わせている。父が一つ息を吐いた。
「今年の初めの事じゃ。右少将が此処に来ての、六角と浅井の戦の話になった。我等は六角が勝つと見ていたが右少将は六角は簡単には勝てぬと言った。今考えれば相当に負ける可能性が有ると見ていたのだと思う」
末弟の左衛門尉が”なんと”と呟いた。
「当時我等は幕府、六角から馳走せよと迫られていた。兵糧を贈る事で躱すというのは右少将様の御発案じゃ。御陰で負け戦に巻き込まれずに済んだ」
「なんと」
今度は自分が呟いていた。右少将様の鋭さに驚いたが右少将様と朽木の密接な繋がりにも驚いた。公方様や幕臣達がこれを知ればどんな反応をするか……。金切り声を上げて”幕府の恩を忘れたか”と父や兄を責めるかもしれない。そう思うと可笑しかった。
「右少将様とは緊密に連絡を取り合っているのでございますね?」
弟の右兵衛尉が問うと父と兄が笑いながら頷いた。
「高島を滅ぼしたのも右少将の策よ。儂や長門守には仮病を使って越中を誘き寄せるなど考えも付かぬわ」
「なんと」
呟くのは何度目だろう。弟達も溜息を吐いている。
「この清水山城に居を移せというのも右少将様の御発案だった。朽木では京に近過ぎる、危険だとな」
「……」
「その時はそれほど強い危機感を持ったわけではない。どちらかと言えば清水山城の方が発展し易い、永田達五頭の動きに対応し易いという思いの方が強かった。だがその後にそなた達から幕府が朽木の兵を京に入れようと考えている、危険だと報せがきた。愕然としたな。まさか斯様に早くと思った」
溜息が出た。早い、そして鋭いと思った。幕臣達が何を考えるか、事が起きる前に想定している。
「気になったのですが永田達とは上手くいっておらぬのですか?」
問い掛けると父と兄の顔が渋いものになった。
「高島を滅ぼしてから連中は行動を共にするようになった。一つに纏まるようになったのだ」
「……」
「朽木は二万石、永田達は一万石に及ばぬ身代だ。単独では勝てぬと見ているのだろう。連中が纏まればざっと三万石、動かす兵は一千に近い。朽木に対抗出来ると考えているのだと思う」
父の言葉になるほどと思った。朽木が清水山城に居を構えた、永田達にしてみれば朽木が高島郡の中央に勢力を伸ばしてきた。居城を清水山城にしたという事は一時的なものではないのではと不安を感じたのかもしれない。幕府が朽木を利用しようとした事が高島郡に緊張を引き起こしているのだと思った。
「先日の野良田の戦いで浅井が六角に勝った。当然だが我等は浅井の動きにも目を配らなければならん。今まで以上に朽木を取り巻く状況は厳しくなったと言えよう。そなたらを呼び戻したのは共に朽木を守るためだ。良く帰ってきたな、皆。期待しているぞ」
「はっ」
兄の言葉に素直に頷けた。そうだ、我等は朽木を守るために帰って来たのだ。迷う事は何も無い。
永禄三年(1560年) 八月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「暑い日が続きますがお変わりは有りませぬか?」
葉月は心配そうな顔はしていない。社交辞令だろうな。
「至って健康、問題はおじゃらぬ」
「それはようございました」
”ほほほほほほ”と葉月が胸をゆさゆささせながら笑う。うん、これぞ絶景、暑さも吹き飛ぶわ。
「新しく入った者達は如何でございますか?」
「良くやってくれている。不満は無い」
本当だよ、良くやっている。柴田左之助、巳之助兄弟とは良く剣の稽古をするが強いわ。全然歯が立たない。真中源次郎は棒を良く使う。教わっているんだが結構面白い。彼らの棒術は左右に大きく振り回す事は無い。殆ど縦の動きが主だ。理由は山の中では横に振り回せば木にぶつかるから、或いは山道では横が崖で棒を振り回す広さが無いかららしい。独特の動かし方をする。
「それは宜しゅうございました。ところで宇治川の葦の件でございますが」
「うむ、如何かな?」
「はい、先月から刈り取って売り出しております。なかなか好評で」
“ほう”と声が出た。葉月が“ほほほほほほ”と笑った。
「以前は十分に成長しないものまで売り出しておりましたから……」
「なるほど」
買い手にとっては葦の品質が上がったか。その分値も上がるという事だな。結構、結構。
「十一月には運上の額を御報告出来ると考えております」
「よろしく頼む」
葉月が頷いた。そして表情を改めた。
「桔梗屋の報告は以上でございます。頭領の重蔵より右少将様にお知らせせよと命じられた事がございます」
「聞こう」
重蔵からの報せでは六角が浅井に負けた事で義輝と幕臣達は相当に危機感を持ったらしい。今川に続いて六角までと愕然としたようだ。そして河内では畠山が劣勢にある。幕府を支えた名門守護大名が敗れつつある。幕府は孤立しつつあると悲痛な空気が有るようだ。そんな彼らにとっての希望が越後の長尾だ。室町第では長尾が関東を制すればとそればかりが話題になるらしい。
「北条氏は里見氏と戦っているそうでございますが……」
「うむ、里見から長尾に救援の要請が有ったらしい。関白殿下からの文では今月の末には関東へ出兵すると書かれておじゃった」
そろそろ出兵だろう。北条も何時までも里見を相手にしているわけには行かなくなる。反北条勢力にとってはホッと一息、そんなところだろうな。
「関東ではここ数年満足に米が穫れぬそうで……。今年も出来が良くないと言われております」
「そうか……。稼ぎ時でおじゃるな」
「はい」
葉月がにっこりと笑った。
「何処で買うのだ?」
「尾張、伊勢で」
なるほど、海路で米を関東に運ぶか……。
「今川でございますが」
「うむ」
「体制の立て直しに懸命でございますな」
「そうか」
「ですが桶狭間では重臣達も数多く討ち死にしております。なかなか難しいようで……」
葉月が目を伏せながら言う。桶狭間の戦いといえば義元を討ち取った、その事ばかりに目が行きがちだ。だが義元の本隊が襲われた事で義元を支えた重臣達も相当に討たれている。当主の交代だけでなく体制の再構築が必要な状況になっているのだろう。葉月の言う通り、相当に苦しい。そして跡取りの氏真には不安がある。
「尾張の織田様でございますが三河の松平を味方に付けようとしておられます。ですがはかばかしくないようでございます」
「そうでおじゃろうな」
葉月が”はい”と頷いた。今は無理だろう。だがもうすぐ越後の長尾が関東に攻め込む。そうなれば話は変わってくる。松平元康も信長の誘いを無視は出来なくなる。葉月もその辺りは分かっているから表情に余裕が有る。
「ところで右少将様」
葉月が表情を改めた。はて……。
「平井加賀守の嫡男、弥太郎高明が死んだ事をご存じでございますか?」
思わず葉月の顔をまじまじと見た。葉月が嘘ではないというように頷いた。
「野良田の戦いの折、本陣に詰めていたそうにございます。浅井勢が突撃して来た時、深傷を負いその傷が元で死んだのだとか……」
「そうか……」
一度しか会っていない。だが知っている人間が死ぬ、いや殺されたという事に驚きがあった。
「その事で平井加賀守と六角右衛門督の間が思わしくありませぬ」
「……」
「実は平井家は本来は留守居を命じられていたのですが右衛門督が無理に平井に出兵を命じ弥太郎が百人程を率いて本陣に詰めたそうにございます」
「何故そんな事を?」
問い掛けると葉月が言い辛そうな表情をした。
「娘を側室に出さなかった事で六角よりも浅井に心を寄せているのではないかと、そうでないなら兵を出せと右衛門督が命じたそうにございます。おそらくは嫌がらせでございましょう」
「馬鹿な……」
その嫌がらせで弥太郎が死んだ……。
「本陣が崩れた時、弥太郎は最後までその場に留まったそうです。逃げれば浅井に通じているから逃げたのだと誹られる。それを恐れたのでございましょう。その弥太郎に傷を負わせたのが浅井新九郎……」
「馬鹿な……」
新九郎が小夜を離縁し右衛門督が侮辱した。そして右衛門督が弥太郎を引き摺り出し新九郎が殺した。新九郎と右衛門督の二人によって平井の家は滅茶苦茶にされた……。
俺の所為か? 俺が小夜を側室に出すなと言わなければ防げたのか? それとも史実でも起きたのか? 分からん、分からんがこうなった原因の一つが俺の口出しに有る事は間違いないだろう。月が変わる前に平井に行かねばならん。
「この件で六角家の重臣達は右衛門督を強く非難しております。当主の左京大夫はそれを抑えるために苦慮しているとか」
「なるほど」
単純な負け戦じゃ無い、内部に火種まで作った敗戦になったか。その火種を消さなければ出兵は無理だ。流石は右衛門督義治だな。六角を潰すために生まれたような存在だ。
「確か平井加賀守には他に男子は居なかったと思うが……」
「はい、居りませぬ」
ふむ、となると小夜に婿を迎える事になるな。……直ぐに婿取りはないな。俺より一歳上だから三回忌が終わってからでも数えで十五歳か、年齢も問題ない。相手を選ぶのに苦労することは無いだろう。
「人の一生とは分からぬものだな」
「はい」
「言い辛かったでおじゃろう。良く報せてくれた」
葉月が頭を下げた。
「麿からも伝える事がある」
「はい」
「未だ邸の中の者にも言っておらぬが次の除目で蔵人に任じられる事になるだろう。帝からそのようなお話があった」
葉月が目を瞠って”まあ”と言った。
「異例の事でございますね」
「異例では有る。だが帝がそれを強く望まれている」
「では昇殿も?」
「飛鳥井家は外様から内々になり麿は昇殿を許される事になると思う」
「おめでとうございまする」
いや、余り嬉しくない。殿上間に詰めて雑用係だからな。自由になる時間が少なくなるのは目に見えている。頭中将になれば更に減るだろう。その事を言うと葉月が”まあ、我儘な”と言って笑った。いや、我儘じゃ無いんだよ。やっかまれるのも面倒だし出世には興味が無いんだ。
永禄三年(1560年) 九月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「おめでとう、兄様」
「おめでとう、右少将殿」
「有り難うございます、養母上、春齢姫」
蔵人に任じられ昇殿を許された……。分かっていた事だけど顔が引き攣る。従兄の雅敦も昇殿を許された。そして二人とも正五位上に任じられた。従五位上からの昇進だから正五位下を飛び越してということになる。次は従四位上か下だな。四位になれば近衛中将に進んで蔵人頭という事になるのだろう。まあ、早くても来年の秋以降の話だな。
俺だけが蔵人に任じられたのだがそれはしょうがない。ちょっと変わっているんだが蔵人は五位の位階に在る者から二名、六位の位階に在る者から六名が選ばれる。他にも蔵人所には非蔵人、雑色等の見習いがいる。五位の蔵人は五位蔵人、六位の蔵人は六位蔵人と呼ばれてそれぞれ四位、五位に昇進すると蔵人を離れる事になる。留任は許されない。
何でそうなったかというと蔵人所の職掌が次第に増え細分化された事が理由らしい。要するに身分の高低が職掌に密接に関係するようになったという事だ。実際に五位蔵人の役割は勅旨や上奏を伝達する役目で天皇の秘書官といって良い。一方の六位蔵人は天皇の膳の給仕その他、殿上の雑務を担当するのが役目だ。
二人の五位蔵人には右中弁甘露寺経元、左少弁勧修寺晴豊が任じられているのだが三人目の五位蔵人として俺が任じられた。普通、蔵人には弁官、つまり名家出身者が任じられるのだから異例であり特例なのだ。勿論、其処には春齢の婿としていずれは頭中将になるのだからという意味がある。宮中でもやっかみは有っても不当だという声は無い。従兄の雅敦も納得している。しかしね、どうも帝は俺に弁官の仕事もさせたいみたいなんだ。色々と経験させてみようという事らしい。
「ねえ、宣旨を見せて」
「どうぞ」
春齢に渡したのは昇殿宣旨だ。夢中になって見ている。
「右近衛権少将、藤原基綱
右、別当左大臣の宣を被るに偁はく、件の人、宜しく昇殿を聴すべし者」
蔵人というのは実務のトップは蔵人頭だが責任者は別当ということになる。大臣が務めるのだが今は左大臣西園寺公朝が務めている。
「頭弁には挨拶をしたのですか?」
「はい」
「何も有りませんでしたか?」
「はい、有りませんでした」
頭弁は万里小路だからな、養母は心配なのだろう。
実際大した事は無かった。
”飛鳥井家から蔵人が出るのは初めてだ”
”何も知らないのだから分を弁えろ”
”ヘマをするな”
とかネチネチ言うからヘマをしたらあんたの責任だねと笑ってやった。頭弁が若いから指導が上手くいっていない、もっと年長者にすべきだとか言われるんじゃないのと警告したら顔を真っ赤にしてぷるぷる震えていたな。ついでだから俺をコケにするとわざと間違えてあんたの責任問題にしてやるぞと脅しておいた。そうしたら真っ青になっていた。ちょっとやり過ぎたかなと思ったから最後は肩を叩いて宜しくねと優しく言っておいた。泣きそうになっていたけど多分俺の優しさに感動したんだろう。きっと仲良く出来るさ。
「飛鳥井家も外様から内々にとなりましたし目出度い事ですね」
養母が嬉しそうに言う。そう、飛鳥井家も外様から内々にとなった。まあ予想通りという事で宮中では驚く声は少ない。今日は伯父の家でお祝いだ。手ぶらでは行けないから何か持って行かないと。一番良いのは銭だな。
平井加賀守に会ってきた。やつれていたな。無理も無い、嫡男を失ったんだ。右衛門督と新九郎賢政を酷く恨んでいた。右衛門督を仕え甲斐の無い主と思ったのだろうし新九郎には恩を仇で返されたという感情があるのだろう。俺は小夜に婿を取らせ平井の家を盤石にすることが何よりも弥太郎への供養になるし右衛門督、新九郎を見返すことになるだろうと励ました。平井加賀守は泣きそうな表情で頷いていたな。良い婿が見つかれば良いんだが……。ま、六角六人衆の家だ。大丈夫だろう。