決別
永禄三年(1560年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 東洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「うーむ、六角が敗れたか」
唸りながら祖父の飛鳥井雅綱が言った。天井を睨んでいる。うん、鼻の穴が見えるな。鼻毛が白い。伯父を訪ねたら伯父は宮中へ出かけた後だった。どうやら入れ違いになったらしい。こういう時は携帯とは言わないから電話が欲しいわ。仕方ない、宮中に行くかと思ったら祖父に引き留められた。祖父が俺を見た。
「どうなる、これから。近江の情勢は?」
「六角の優位は変わりませぬ」
「負けたのじゃぞ」
「兵の損失は浅井の方が大きゅうおじゃります」
祖父が”うむ”と唸った。
戦の結果を問われれば浅井が勝ったと言わざるを得ない。重蔵の報せによれば浅井勢六千、六角勢一万一千。妥当な数字だろう。一説には浅井が一万という数字が有るらしいが間違いなく嘘だな。一万も出せるほど今の浅井は大きくない。織田と戦った時だって出せなかったのだ。この時期の浅井には到底無理だ。
そして史実通り野良田で両者がぶつかった。緒戦から終盤まで終始六角勢が優位に立っていた。しかし最終局面で浅井新九郎賢政が一千程の手勢で六角左京大夫義賢の本陣に突撃した。多分、このままでは力負けする、そう思っての一か八かの勝負だったのだろう。討ち死にも覚悟しての突撃だったと思う。だがその気迫が六角を押し切った。
左京大夫は本陣を崩され後退、六角勢は退却した。肥田城は浅井側に有る。肥田城を守り抜き六角勢を打ち破ったのだから浅井の勝利だ。二倍以上の敵を退けたのだ、大勝利と言って良い。だが信長の桶狭間の戦いに比べれば明らかに落ちる。信長は今川義元の首を獲った。そして今川方の武将達もかなり討ち取っている。だが浅井にはそれが無い。つまり六角側の指揮官クラスは健在なのだ。
更に兵の損失は明らかに浅井側の方が多い。本来なら六角が兵を退いた時、浅井は追撃するべきだった。そして敵に損害を与えるべきだった。だがずっと押され続けていたのだ、浅井勢には追撃するだけの余力が無かった。六角勢は本陣を崩されたが殆ど損害らしい損害を受けずに撤退した。つまり指揮官クラスだけではない、兵力の面でも損害は少ないのだ。強大な六角は健在と言って良い。
一方の浅井だが肥田城を守り、六角勢を打ち破った。政治的には大勝利だ。浅井は六角から自立を勝ち取った。誰もがそれを認めるだろう。だが軍事的には損害が多過ぎてとても大勝利とは喜べない。この時代の兵は百姓なのだ。百姓を失うという事は労働力を失う事で当然だが生産力にも影響は出る。今頃浅井の上層部は自立の代償の大きさに頭を抱えているだろう。その事を祖父に言うと”なるほどのう”と頷いた。
つまりだ、野良田の戦いでの結末は浅井の勃興を意味しないし六角の没落も意味しないという事になる。後世の歴史でこの一戦で浅井が大勝したとか浅井家の北近江における覇権が確立したなんていう評価は嘘だな。浅井三姉妹の末娘が徳川に嫁いで家光、忠長を産んだから徳川は浅井を美化して過大評価した。その影響だろう。
今の浅井は自立したとはいえ未だ弱小勢力でしかない。浅井の存在感が大きくなるのは六角が観音寺騒動で衰退してからだ。それによって相対的に近江における浅井の存在感が大きくなった。また、六角が動けなくなった事で浅井は動けるようになった。信長が浅井との同盟を結ぶのは観音寺騒動以後の事だ。それまでは到底六角の相手にはならないと周囲から見られていたのだろう。信長からもだ。
「朽木はどうなる?」
祖父が心配そうな表情を見せた。朽木からの援助が無くなると心配したかな。
「浅井が朽木を攻めようとすれば先ずは高島五頭を攻めなければなりませぬ。彼らは六角に従属しておじゃります。簡単には出来ませぬ」
「そうか、では畿内への影響は?」
「これからの六角は浅井という敵を持つ事になります。その分だけ動きは制限されましょう」
祖父が頷いた。
「畠山も圧されておる。三好の優位は今まで以上に強まるという事じゃな。それにしても、あの六角が浅井に敗れるとは……」
「……」
「世の移り変わりは激しいのう」
祖父の若い時代は六角の全盛期だった筈だ。それなりに思う事が有るのだろう。だが今は乱世なのだ。ちょっとでも隙を見せれば蹴落とされる。そして六角はこれから下り坂になる……。
永禄三年(1560年) 八月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木藤綱
「六角が敗れたのう」
父の詠嘆が聞こえた。一瞬だが本当に父が言ったのかと疑念が浮かんだ。父は穏やかな視線で淡海乃海を見ている。いや、間違いなく父だ。櫓台には父と儂しか居ない。
「浅井が勝ったか、厄介な事になったの」
「はい」
厄介な事になった。これまで近江は六角の下で纏まっていた。だが新たに浅井という軸が出来た。そして浅井は六角よりも朽木に近い。直ぐに攻められる事は無いと思うが如何対応していけば良いか、いずれは選択を迫られる時が来るだろう。父が儂を見た。
「兵を出さなかったのは正解じゃの」
「はい」
「存外なのは永田達よ。あの者達も兵を出さなかった」
「当家を大分気にしておりますようで」
父が”うむ”と頷いた。表情が渋い。本来なら朽木を気にするより六角の機嫌を取る事を優先する筈。だが永田達は一度目の肥田城攻めには兵を出したが此度の戦には兵を出さなかった。こちらが兵糧を出した事を知って同じように兵糧を出した。兵を失いたくないと考えたとすれば永田達の朽木に対する警戒心は相当に強いという事になる。いずれは戦う事になると考えているのかもしれない。
「長門守、右少将は何処まで読んでいたかの」
「さて……」
父が先程までとは変わって楽しそうな表情をしている。右少将様の事が可愛いのだ、父が右少将様の事を話す時は常に表情が明るい。
「簡単に六角が勝つとは言えぬと言っていたが……」
朝倉の援軍は無かった。だが浅井は勝った。右少将様の助言の御陰で朽木は負け戦に巻き込まれずに済んだ。鋭いと思わざるを得ない。
「京に使者は出したか?」
「はい、弟達に。そして幕府にも」
父が頷いた。
「六角が敗れた。河内で三好と畠山が戦の最中じゃ、しかも畠山の旗色は悪い。公方様はさぞかしお力を落とされていよう。そして我が家の息子共が朽木に戻ると言えば……」
自分を見限るのかと非難するかもしれない。しかし浅井が自立した事で朽木を取り巻く状況はより一層厳しさを増した。朽木の存続を最優先に動かざるを得ない。その事を言うと父が”そうじゃの”と頷いた。
「長門守、永田達にも出しては如何じゃ」
「出す? 文をでございますか?」
「うむ、浅井が高島郡へ兵を出すかもしれぬ。これからは今まで以上に協力して事に当たりたいとな」
「……真、そのような事をお考えで?」
問い掛けると父が朗々と笑い出した。可笑しそうにこちらを見ている。
「浅井が攻め寄せて来ればそうなるのう。バラバラでは浅井に良い様に踏み潰されて終わりよ」
攻めて来るだろうか? 浅井は勝ったが損害は大きかったと聞く。
「……攻め寄せてこなければ?」
父がまた笑った。
「永田達は朽木を警戒しているようじゃ。その視線を浅井へと逸らす事が出来よう」
「……」
やはりそうか、父は永田達を攻め潰す事を望んでいる。
「もう直ぐ取り入れじゃ。それが終われば兵を増やせよう」
「はい、二百は増やせましょう」
父が頷いた。
「いずれの、永田達を……」
「はい」
永田達を潰す。そして高島郡の支配者となる……。何時ごろからか父の心に生まれた望みだ。
「楽しみじゃの」
「はい、楽しみにございます」
そして儂の心にも同じ望みが有る。何時かは……。そのためにも領内を豊かにし銭を稼がなければ……。
永禄三年(1560年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
「朽木へ戻りたいと?」
公方様の問いに三人が畏まった。
「兄の長門守より朽木を守るために戻って欲しいと。野良田の戦いで六角が敗れましたので……」
左兵衛尉成綱殿がぼそぼそと答えると座がシンとした。六角が浅井に敗れた。予想外の事であった。その事に皆が衝撃を受けている。
「左兵衛尉殿、それは浅井が攻めてくるという事かな?」
進士美作守殿が問うと左兵衛尉殿が”分かりませぬな”と言って首を横に振った。
「ですがそういう事になっても少しも不思議では有りませぬ。浅井にとって小さい国人領主が多い高島郡は攻め易い場所にございましょう。我ら兄弟は朽木で生まれ育ちました。兄に請われずとも朽木を守るために兄を助けたいという気持ちは有ります」
皆が顔を見合わせた。不満そうな表情を見せている者が居る。
「公方様にお仕えする事より朽木を守る事を優先か。なるほど、朽木は二万石になりましたからな。守るのが大変でござろう」
皮肉な口調で三人を揶揄したのは上野中務少輔殿だった。意地の悪い言い方だ。何処の家でも家を保つのは大事なのに……。そのような言い方をすれば公方様も不満を持とう。
「三好家の勢威が増した今、朽木家の重要性は増した。そうでは有りませぬかな?」
私の言葉に中務少輔殿が忌々しそうな表情を見せたが反論はしなかった。
「朽木家は高島郡の中央部にまで勢力を伸ばしております。六角家との繋ぎも付け易いというもの。違いましょうか」
兄三淵大和守が続けると彼方此方で頷く姿が有った。公方様も頷いている。
「そうだな、朽木は足利に忠義の家だ。守らなければならぬ」
「……」
「左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉。朽木へ戻る事、許す。これまで御苦労であった」
三人が畏まった。
「朽木に戻ったら民部少輔、長門守に頼りにしていると伝えて欲しい。そして何としても朽木を守れと」
「はっ」
三人が深々と頭を下げて御前を下がった。
ホッとしただろうな。あの三人にとってこの室町第は決して居心地の良い場所ではなかった筈だ。だが先程の公方様の言葉……。
“そうだな、朽木は足利に忠義の家だ。守らなければならぬ”
自分を納得させるかのような口調だった。三人にとっては不愉快な口調だっただろう。
畠山は三好に押されつつある。挽回するのは難しいだろう。そして六角は浅井に敗れた。公方様を取り巻く状況は厳しくなりつつある。そんな公方様にとって朽木は大事な避難場所だ。それなのに……。
永禄三年(1560年) 八月中旬 山城国葛野・愛宕郡 朽木成綱
兄弟三人が私の邸に集まった。酒を飲む。京で三人で飲むのはこれが最後だろう。肴は胡瓜、茄子の浅漬け。無言で食べ、無言で飲む。視線を合わせる事もしない。まるで一人で飲んでいるかのようだ。
明日は邸の片付けをしなければなるまい。そして明後日には出立し朽木へ向かう。まだ暑い、厳しい道中になりそうだ。
「ふざけおって! いざとなれば朽木を頼るくせに!」
吐き捨てたのは末弟の左衛門尉だった。直ぐ上の右兵衛尉は一瞬だけ左衛門尉を見たが直ぐに胡瓜を齧り始めた。
「そうは思いませぬか?」
左衛門尉が問い掛けてきた。
「舐められているのだ。分かっているだろう?」
私の言葉に左衛門尉が口元に力を入れた。右兵衛尉は視線を伏せたままだ。胡瓜を齧る音だけが響いた。
「長門の兄上は公方様の御意向により朽木家の当主となった。そして朽木は足利に忠義の家だ。右少将様の事も有る。幕臣達は多少の嫌がらせや我儘は許されて当然と思っているのだ。他にそんな事が許される相手は何処にも居らぬからな。朽木だけが優越感を示せる相手なのだ」
「……」
「兄上がどれほど苦労したか等という事はまるで分っておらぬのよ」
左衛門尉が酒を呷った。そして太い息を吐く。“兄上”と今度は右兵衛尉が声を掛けてきた。
「長門の兄上からの文には幕府にも我ら三人を戻して欲しいと文を送ったと書かれてありました。しかし公方様からはそのような言葉は出ませんでした。訝しいとは思われませぬか」
溜息が出た。
「分かっているだろう、右兵衛尉。多分誰かが握り潰したのだ。それ以外は考えられぬ」
「意味が有りませぬぞ」
「意味など無い。ただの嫌がらせだ」
右兵衛尉が溜息を吐いた。左衛門尉は視線を盃に落としている。
「兄上方、某は朽木に戻ったら朽木のために働くつもりです」
ポツンとした声だった。だが重く響いた。左衛門尉はもう幕府のためには働かないと言っている。
「某も同じ気持ちです」
「私もだ」
兄弟三人が幕府を見限ったか……。それも已むを得ぬ事だ。畠山は三好の前に劣勢、六角は浅井に敗れた。少し前には今川が織田に敗れている。幕府を支えるべき守護達が敗れ続けているのだ。どうみても頼りにならない。それなのに幕臣達にとって我等は八つ当たりの対象でしか無かった。本来なら一番大事にすべき存在なのに……。
「おぬし達、右少将様を恨んでいるか?」
右兵衛尉、左衛門尉が顔を見合わせた。
「恨んだ事が無いとは言えませぬ。しかし幕府を見限ってみれば右少将様の為された事は道理と思えます。むしろ幕府の拙劣さ、不甲斐無さに嫌気がさしますな」
「某も左衛門尉と同じ思いです。兄上は如何です?」
右兵衛尉が問い掛けてきた。左衛門尉も私を見ている。
「同感だ。公方様も幕臣達も頼りにならぬ。頼りになるのは右少将様の方だろう。あの御方なら頼った者を失望はさせまい」
二人が頷いた。
「どうかな? 朽木に帰る時、最後に右少将様に挨拶をしていかぬか?」
二人が目を瞠って笑い出した。
「兄上もお人が悪い」
「公方様も幕臣達も気を悪くしますぞ」
私も笑った。
「これまで散々嫌な想いをしてきたのだ。最後に一つくらいしっぺ返しをしても良かろう」
笑い声が大きくなった。左衛門尉が飲む、右兵衛尉が食べる、私も飲んで食べた。此処で三人で飲むのは今日が最後だろう。最後くらいは楽しく飲みたいものだ。