予兆
もう直ぐ第十一巻の発売です。
今回は応援書店用に特典SSを書きました。特典SSは以下のようになります。
【第11巻 特典SSまとめ】
TOブックスオンラインストア特典『面影』
https://tobooks.shop-pro.jp/?pid=159797737
応援書店特典『終焉』
http://tobooks.jp/afumi/ouen11.html
電子書籍特典『継承』
メロンブックス特典『老雄 蒲生定秀』
(通販・店舗どちらにも付きます。在庫の有無はメロンブックスさんに直接お問い合わせください)
永禄三年(1560年) 七月中旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「畠山は大分苦しいらしいの」
「はい、三好勢は藤井寺に攻め込んだようでおじゃります」
俺の返事に太閤殿下が“うむ”と頷いた。七月の上旬に修理大夫は玉櫛で畠山を破った。太田、若林には実弟の豊前守が攻め込んでいる。そして中旬には藤井寺……。三好勢は圧倒的な強さで南下している。このままいけば畠山はあっという間に河内から叩き出されるだろう。蝉が煩く鳴いている、今日も暑いわ……。
「畠山は如何するつもりかな?」
「さて、このまま終わるとは思えませぬが……」
畠山は根来、粉河寺を動かそうとしているらしい。粉河寺というのは天台宗の寺なのだが寺領は四万石もあって相当な数の僧兵を有している。しかしねえ、武士が戦で負けそうになったからって坊主に戦に参加しろ、助けてくれって……。
世も末だな。いや、末なのは畠山の武威か。それと畠山は近江坂本に逼塞している細川晴元と連絡を取っている。どうやら丹波の国人衆を動かそうとしているようだ。丹波から京、或いは河内を狙わせるという事なのだろう。重蔵からはそういう報告が来ている。しかしここは内緒にしておこう。余りに知り過ぎていると殿下に怪しまれては面倒だ。
「室町第は如何でおじゃりますか?」
太閤殿下の表情が渋いものになった。
「良くないの。畠山が頼りにならぬ、六角が使えればと悲しんだり、憤ったりじゃ」
なるほど、泣いたり怒ったりか。傍には慰める女、幕臣達が沢山居るのだろう。不足する事はないだろうな。
「自ら兵を上げるとは言いませぬか」
太閤殿下が首を横に振った。
「朽木で五年も捨て置かれたからの、簡単に兵は挙げられぬようでおじゃるの。京を離れては三好の存在感が今以上に増す。自分の立場が危うくなると考えているようじゃ」
「勝てば問題はおじゃりませぬ」
太閤殿下が俺を見て笑った。
「勝てるならの」
今度は俺が笑った。そうだよな、勝てるならだ。でもなあ、京に居ても存在感は大きくならないぞ。
「そなたも意地が悪い」
「……」
流し目を送るのは止めて欲しいな。俺は男には興味が全く無い。
「御大葬から御大典、改元と公方の顔を潰しまくった。五年も捨て置いたのもそなたの案であろう」
「已むを得ぬ事におじゃります。解任よりはましでおじゃりましょう」
太閤殿下が頷いた。
「まあそうじゃの。そうなれば天下大乱となった事でおじゃろう。已むを得ぬ事では有る。だが永禄の元号は公方の知らぬ所で決まった。京を追われるのは避けたいと思うのは至極当然の事よ」
「はい」
昔なら気にしなかった。公方が京を追われても朝廷は改元を始め重要事は公方の意見を聞いたからだ。だが今は違う。
「大分気にしておるのう」
「……」
そうだろうな、武家の棟梁は足利では無いと朝廷が宣言したのだから。京を離れられないというのは朝廷が公方を武家の棟梁と認めていないという事への不安なのだ。次の改元の時、また無視されたら……。そんな不安が有るのだろう。そして出来るだけ早く永禄の元号を変えたいと思っている筈だ。自分の手で……。
「元号の事では無いぞ。右少将、そなたの事だ」
「麿の?」
殿下が頷いた。良く分からんな。何を気にしてるんだ?
「そなたは反足利じゃからの。公方が京を離れれば親三好の姿勢を強めるのではないか、朝廷が親三好で纏まるのではないかと恐れておる」
「麿は親三好ではおじゃりませぬ」
太閤殿下が声を上げて笑った。
「まあ、そうでおじゃるの。だが足利よりは三好に好意を持っていよう。公方、幕臣にとっては気を許せぬ相手じゃ」
だからってならず者を邸に寄越すなよ。益々嫌いになるぞ。
「六角も戦のようでおじゃるの」
「そのようで」
六角も浅井もそろそろ兵を肥田城へと向けるだろう。いよいよ野良田の戦いだ。史実では浅井が勝った。この世界ではどうなるのか……。
「越後でも戦の準備が整いつつ有る。もうじき出兵らしい」
「はい、そのように聞いております」
関白殿下からそういう内容の文が届いた。太閤殿下にも同じ内容の物が届いたのだろう。
「何処も戦じゃの」
「左様でおじゃりますな」
仕方ないよ、戦国なんだから。
「お茶にしませぬか?」
声がかかって寿が入ってきた。立ち姿がすっきりしていて百合の花のようだ。その後ろからは毬が……。また室町第を抜け出して来たらしい。太閤殿下が息を吐くのが分かった。寿が手際よく大振りの茶碗を四つ並べていく。自分達も飲むらしい。中に入っているのは麦湯だった。
礼を言って一口飲む。殿下も一口。二人で笑顔になった。
「暑い時はこれが一番でおじゃるの」
「真に」
温い、それでもなんとも言えない清涼感が口の中に広がる。暑さも喉の渇きも忘れるというものだ。
「本当、此処で飲む麦湯は美味しいわ。室町第で飲む麦湯はどういうわけか美味しくないのよね」
毬があっけらかんと言うと寿がクスクスと笑い出した。
「毬、まさか麦湯を飲むために此処に戻っているのではないでしょうね」
「違うわよ、姉上。此処に来たのは可哀想な姉上をお慰めするためですわ。当然でしょう」
寿と毬が声を上げて笑い出した。二人とも微塵も暗さが無い。殿下は呆れたような表情をしているが暗さが無い事は良い事だ。この二人を見ていると人生を謳歌しているとは言えないが一生懸命楽しもうとしている、そんな感じがする。いや、それよりも肝心な事を殿下に訊かなければ……。
「ところで殿下、麿を頭中将にという話が有ると養母から聞いたのですが……」
殿下がニヤッと笑った。悪い顔をするなあ。
「それならば知っている」
女二人が”まあ”と声を上げると殿下が顔を顰めた。
「静かにせぬか」
「でも、頭中将だなんて。ねえ?」
「ええ、本当にそんな話があるの?」
寿も毬もまるで殿下の渋面なんて無視だ。この二人に苦手なものなんて有るのかな? 毬は慶寿院を苦手そうだが……。
「帝がそれを望んでおられる。世の中が落ち着かぬからの」
「帝がそのように?」
「うむ」
流石に二人も話すのを止めた。落ち着かない元凶の一人が毬の夫だからな。しかし殿下は帝から直接聞いたのか。養母も聞いている。となると詰まらぬ噂話でも帝のその場限りの思い付きというわけでも無いらしい。
「養母からもそのような話を聞きました。しかし今ひとつ納得が行かぬのですが……」
疑問を口にすると殿下がニヤッと笑った。だから悪い顔をするなって。
「頭弁が頼りにならぬらしいの」
「……」
「頭弁は万里小路が務めているのだが今年任じられたばかりじゃ、それに年も若い。未だ二十歳になるまい。万里小路の人間という事で優遇を受けているが……」
殿下が”ホウッ”と息を吐いた。
「弁としての経験も必ずしも豊富というわけではない。確か左少弁の勧修寺とは一つか二つしか違わぬ筈だ。だが片方は頭弁、片方は左少弁。如何見てもおかしかろう」
「……」
「右中弁を務めている甘露寺だがこの男が弁の中では一番だと聞く。歳も二十代の半ば、経験も豊富で下の面倒も良く見ているようでおじゃるの」
「なるほど」
甘露寺か、勧修寺と一緒に居たな。なるほど、ゴリ押しして出世させたが頭弁になって実力不足が露呈したという事か。そして帝は俺を頭中将にと考えた。新大典侍が焦る筈だな。
「凄いじゃない。頭中将なんて」
「面倒なだけでおじゃります」
「室町第に戻ったら皆に言わないと。きっと顔を顰めるわね」
嬉しそうに言うな! お前は御台所だろう。立場を弁えろよ。そう言えたらな……。寿も可笑しそうに笑っている。溜息が出た。俺の周りって変な奴ばかり居る。
「飛鳥井家は外様でおじゃりますが?」
「内々にすればよい」
そんな簡単に出来るのかね?
「しかし反対する者が多いのではおじゃりませぬか? 飛鳥井家からは頭中将が出たことは無いと聞きました」
この時代は先例重視だ。それはポストも同じだ。反発は多い筈だ。太閤殿下が首を横に振った。
「そなたは春齢姫を娶るのじゃからのう、誰も反対は出来ぬよ」
「新大典侍もでおじゃりますか?」
太閤殿下が頷いた。
「そんな事をすれば自分の甥だけに特別扱いを望むのかと叱責されよう。当然だがその叱責は頭弁にも及ぶ」
なるほど、確かにそうだわ。現代に例えれば頭弁はオーナー社長の甥、俺は娘婿という事か。そりゃ間違いなく出世するわ。となると頭中将は十分に有る話という事だな……。
永禄三年(1560年) 七月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「安見美作守が大窪にて三好修理大夫に敗れました」
重蔵の報告に思わず”ほう”と声が出た。流石だな、七月の上旬に玉櫛で畠山を破り下旬には大窪で安見を破る。向かうところ敵無し、そんな感じだ。流石、畿内の覇者だな。
「畠山、安見は高屋城で籠城するようにございます」
「なるほど」
今日の重蔵は武家姿だ。平凡な顔立ちだが身体は逞しいから良く似合う。実際に戦ったら強いのだろう。
「根来、粉河寺の後詰めを待っているのでございましょう」
「それと丹波か」
重蔵が”はい”と頷いた。畠山の敗勢は決まった。自力では押し返せないという事だ。
「細川の使者が波多野、香西の許を頻繁に訪ねております。そして波多野、香西はそれに応えるようで」
やる気か。丹波は松永弾正の弟、内藤備前守が押さえていると思ったが盤石とは言えないようだ。やはり細川の影響力が強い土地らしい。それにしても細川晴元、復権を諦められないようだ。余程に三好が憎いらしい。
「三好の丹波支配も今一つ安定せぬな」
「はい」
「となると戦の行方は高屋城への後詰めが成功するか、失敗するかで決まるという事だな?」
「はい」
後詰めが失敗すれば戦は終わるだろう。だが成功するようだと戦は長引く。ふむ……。
「重蔵、後詰めは何時出る?」
「早くて十月といったところかと」
「十月。……そうか、穫り入れが終わった後か」
問い掛けると重蔵が頷いた。なるほど、波多野、香西は状況を楽観視していない。負ければ直ぐに戦は終わる。だが勝てば戦は長引くと見ている。穫り入れを優先するのは戦が長引いても戦えるようにという事だろう。兵糧の確保だ。となると六角が戦を夏に行うのは勝てる、戦は直ぐ終わると見ているからという事になるが……。
「重蔵」
「はい」
「波多野、香西は六角の参戦を望んでいると思うか?」
重蔵が苦笑を浮かべた。
「それは望んでおりましょう」
そうだな、望んでいるだろう。六角と浅井なら六角が勝つと見ている筈だ。
だが勝っても戦後処理が有る。浅井との関係を如何するかは簡単には片付くとは思えない。となると大規模な出兵は無理だ。しかし牽制程度の小勢なら大津辺りに出すことは可能かもしれない。出せば三好もそれを無視は出来ない。多少なりとも抑えの兵を出すだろう。
ふむ、波多野、香西が穫り入れを優先するのはそれを期待しての事かもしれない……。となると畠山が細川を使ったのは波多野、香西への働きかけだけじゃ無い、六角への働きかけも期待しての事という事になる。六角と細川は縁戚なのだ。重蔵にその事を話すと”なるほど”と頷いた。
「となりますと六角と浅井の戦、両者とも肥田城に集まりつつ有りますが……」
重蔵が俺を見た。
「短期決戦だな、戦は直ぐ終わる」
六角が野良田で敗れたのは焦りが有ったからなのかもしれないな。じっくり長期戦で行けば勝てたのかも……。春先の水攻めも短期決戦を狙っての事なのだろう。
「重蔵、六角と浅井の戦、しっかりと見届けてくれよ」
「はっ」
史実通り浅井が勝つか、それとも実力で六角が勝つか。どちらが勝つかで畿内の戦にも影響が出る。さて、どうなるか……。
永禄三年(1560年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「浅井が勝ったか……」
兄が呟いた。語尾に畏怖が有ると思った。娘の春齢も神妙な表情で控えている。
「まさか本当に勝つとは……」
兄の声からは畏怖が消えない。……六角と浅井の戦は野良田という肥田城の近くで行われた。大方の予想に反して勝ったのは浅井……。六角は優勢に戦を進めていたが浅井新九郎に本陣に斬り込まれて敗走した。兄が私を見た。
「そなたは右少将が浅井が勝つと見ていると言っていたが……」
「見立て通りになりました」
「……」
「皆様の反応は?」
「驚いておる。五月に織田が今川に勝った。そして今度は浅井が六角に勝つ。どちらも名門が成り上がりに敗れた。皆口には出さぬが名門の時代が終わりつつある、そう感じていよう」
そして河内では畠山が三好に敗れつつある。また一つ名門が敗れる……。
「帝は如何か?」
兄が躊躇いを見せながら訊ねてきた。
「驚いておられました。まさか、本当に敗れるとはと……」
帝には内密に右少将が六角が敗れると見ているとお伝えしていた。それでも報せを聞いた時、帝は驚いておられた。そして”足利の後の時代か”と呟かれた。
足利の時代が終わるとお感じになられたのだろう。昔の事を思い出す。あれは帝が即位される前の事だった。右少将が私の養子になる前の事、未だ十年と経っていない。あの時は考え過ぎかと思わぬでも無かった。だが今はそれが現実になりつつ有ると思わざるを得ない。帝もそう思われたのだろう。そして三好修理大夫もそう思った筈。その事がこれから如何影響するのか……。そして足利は……。
「帝からは改めて右少将を頭中将にしたいと」
「お言葉が有ったか」
「はい」
兄が腕を組んで唸った。表向きは春齢の夫だからという事になるだろう。だが実際は御自身の懐刀として身近に置きたいのだ。帝は右少将の天下を見る目を必要としている。天下の動きが激しくなると見ている。
「動くのう、動く。天下が動く時、朝廷も動くか……」
兄の呻くような声が耳を打った。