頭中将
永禄三年(1560年) 七月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
常御所から養母の部屋へと向かうと声が聞こえてきた。
「やはり三好は強うおじゃりますな」
「はい、修理大夫があっというまに畠山を破りました」
「大和でも戦が起こったそうですがこちらも三好側が優勢だとか」
「まあこれで京に戦が飛び火する事はなさそうでおじゃりますな」
”ほほほほほ”と笑う声が幾つも重なって聞こえた。三人の公家が扇子で口元を抑えながら笑っている。左少弁勧修寺晴豊、右中弁甘露寺経元殿、左少将中山親綱。
勧修寺晴豊が俺に気付いた、他の二人に何か言うと二人も俺を見た。そして三人で軽く目礼してくる。俺も軽く頭を下げた。俺が通り過ぎるまで三人とも無言だ。通り過ぎるとまた声が聞こえた。
「畠山も案外でおじゃりましたな」
「真に、戦は早く終わるかもしれませぬ」
「そうでおじゃりますな」
俺って嫌われてるのかな?
更に歩くと二人の公家が居た。未だ若い、右近衛少将正親町季秀と侍従庭田重具の兄弟だった。俺より一つか二つ歳上の筈だ。二人は庭田権中納言の息子なのだが弟の方が正親町家に養子に行った。正親町家の当主はもう亡くなっているから右近衛少将が正親町家の当主という事になる。当然だが庭田権中納言が後見している。不愉快だな、俺を見ると露骨に顔を顰めて背けた。こいつらは間違いなく俺を嫌っているな。傍を通り過ぎようとすると舌打ちが二つ聞こえた。足を止めた、無言で二人を睨み付けると二人の顔が強張るのが分かった。
「何か御不満でおじゃりますかな?」
二人が”別に”、”何の事だ”ともごもごと口籠もりながら言った。
「舌打ちが聞こえましたぞ」
「……」
「気に入らぬのならはっきり気に入らぬと申されては如何でおじゃりますかな。麿は少しも構いませぬぞ」
「……」
二人は顔を見合わせている。お前らなあ、この程度でおたつくなら舌打ちなんかするなよ。
「如何なされました?」
声が聞こえた、女の声だ。三人近付いてくる。先頭は新大典侍で後ろの二人は女官だった。こちらに近付いてくる。うんざりした。新大典侍は万里小路家出身の女で帝の子を三人産んでいる。そのうち一人は男子で名前は誠仁、このまま行けば次の帝だ。但し、史実では早死にしたため帝にはなっていない。
「揉め事でございますか?」
言葉は心配そうに聞こえるが口調は違う。明らかに面白がっている。正親町右少将と庭田侍従に向こうに行けと顎をしゃくった。二人とも不満そうな表情を見せたが大人しく立ち去った。揉めていると取られるのを恐れたらしい。或いはこの女が苦手なのか。
「あらまあ、違いましたの?」
傍に寄られてはっきりと分かった。目が残念そうな色をたたえている。
「御心配をお掛けしたようでおじゃりますな。ですが見ての通りにおじゃります。何事も有りませぬ。では」
軽く頭を下げて通り過ぎようとしたが相手が“右少将殿”と声を掛けてきた。
「目々典侍殿の許へ行かれるのですか?」
「はい」
「随分と仲が宜しいのですね」
「養母ですから」
答えると新大典侍が意味有り気な笑みを顔に浮かべた。
「三位宰相様の許に嫁がれた御母上はお元気ですか?」
「はい」
「お訪ねになっているのですか?」
「いいえ、昨年の暮れに子が産まれました。大変だと思いますので訪ねておりませぬ」
“まあ”と声を上げると新大典侍が可笑しそうに笑った。二人の女官も可笑しそうにしている。嫌な連中だ。俺と実母が不仲だというのは誰もが知る事実だ、わざわざ話題にしたのは俺に対する嫌がらせだろう。
「御気が済みましたかな?」
「……」
笑い声が止んだ。バツが悪そうにしている。子供相手に大人げない事をしたと思ったのだろう。
「では先を急ぎますので」
軽く会釈をして先に進む。
悔しそうな顔をしているかもしれないな。この女は養母に、俺に、飛鳥井一族に強い敵対心を持っている。飛鳥井一族が帝の信任を得ている事が面白くないのだ。万里小路出身の彼女としては信任を受けるのは万里小路家だと言いたいのだろう。理由は帝の母親も万里小路出身の女だからだ。要するに外戚として信任を得て権力を振るうのは万里小路であり飛鳥井は引っ込んでいろ。そう言いたいのだと思う。外戚として権力を振るうなんて何時の話だ? 頭の中は源氏物語の世界らしいな。
養母の部屋に行くと養母と春齢が嬉しそうに迎えてくれた。
「待っていたのですよ」
「兄様遅い」
いや、そんな遅くないと思うけどね。大体時計だって無いんだから。
「常御所で帝の御下問に答えていましたので……」
二人が納得したような表情を見せた。
「三好と畠山の事ですか?」
「はい」
三好と畠山の戦がついに始まった。六月の末、三好勢が河内に攻め込んだ。七月に入ると修理大夫は玉櫛で畠山を破り弟の豊前守が太田、若林に攻め込んでいる。大和方面でも松永弾正が安見美作守に味方した勢力を叩き始めた。戦は河内、大和の二方向で行われているが三好勢は両方面で優勢に進めている。公家達が京で戦が起きる可能性は少ないと喜ぶのはもっともなのだ。
「御下問の内容は?」
「この後の事でおじゃります」
「それで?」
「三好が勝てば畠山は紀伊に押しやられましょう。五畿内は三好の制する所となります。そう答えました」
つまり三好の覇権がより一層強まるわけだ。そして足利はより圧迫感を感じる筈。
「畿内は安定しますか?」
養母が訊ねてきた。安定するか、つまり義輝がそれを受け入れられるかという事だろう。その事は帝も訊ねてきた。無理だ、義輝は必ず三好を倒そうとする。俺は首を横に振ることで答えた。帝にも同じ答え方をした。
「それを防ぐ方法は?」
「おじゃりませぬ」
養母が溜息を吐いた。春齢は今ひとつ分からないのだろう。腑に落ちないと言った表情をしている。それでも騒がないのは立派だ。
三好修理大夫の死後、永禄の変が起こり足利義輝は弑される。永禄の変は永禄八年に起こったから今から五年後だ。この世界でも起こるかどうかは分からない。だが三好と足利の関係はこれからより先鋭化して行くという事なのだと思う。義輝が心を入れ替えて親三好の将軍にならない限りとてもではないが安定などしない。そしてその可能性は皆無だ。
「六角と浅井はそれぞれ戦の準備を進めておじゃります。その帰趨も畿内の情勢に影響しましょう。それに若狭の事もおじゃります。戦の火種は尽きませぬ」
養母と春齢が顔を見合わせた。養母が“困った事ですね”と言う。同感だ、困った事だがどうしようもない。この話は止めだな。
「先程、此処に来る途中で正親町右少将と庭田侍従に会いました。二人とも麿を嫌っているようです。顔を背けて舌打ちしました」
養母がクスクス笑い出した。何で? 春齢も不思議そうな表情をしている。
「養母上?」
「ああ、御免なさいね」
いや、笑いながら謝られてもね。
「あの二人が右少将殿を嫌うのはそれなりの理由が有っての事です」
「それは?」
「そなたに頭中将を取られるのではないかと恐れているのですよ」
「はあ」
思わず声が出た。頭中将? 源氏物語で有名だが頭中将というのは蔵人頭と近衛中将を兼任した人間に対する通称だ。これまでに何人も居る。
蔵人頭は通常二人任命される。武官から一人、文官から一人だ。文官の場合は大弁、中弁を兼任して頭弁と呼ばれる。武官である頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、文官である頭弁は帝と太政官の間で政務に関する連絡を担当するとされる。まあどちらも帝の側近だな、出世間違いなしだ。
「庭田家は代々頭中将に任じられて来た家ですからね。正親町家もそれは同様です。そなたの事を競争相手と見ているのです」
「なるほど」
そういう事か。同年代だからな、競争相手と見ているわけだ。
「右少将殿が頭中将に任じられれば飛鳥井家からは初めての事です。なにしろ蔵人にも任じられた事が無いのですから」
養母の言葉に春齢が“凄い”と言って目を輝かせた。いやね、俺が初めてって……、飛鳥井家って和歌、書道、蹴鞠は有名だが宮中政治家としてはパッとしない家なんだな。
大体蔵人にも任じられないというのは能力は関係ない。飛鳥井家が外様で羽林の家格だからだ。公家社会では外様、内々という区別が有る。天皇との親疎によって区別されるんだが蔵人は帝の側近だから基本的に内々の者が任じられる。そして弁官、つまり名家の出身者が任じられるのだ。飛鳥井家の者が蔵人に任じられる事は先ず無い。
そういう意味では頭中将というのはイレギュラーな存在だと思う。蔵人にならずに突然蔵人頭に任じられるのだ。職掌が頭弁に比べれば明らかに内向きである事も蔵人を経験してない事が理由だろう。源氏物語では頭中将が有名だが現実には頭弁の方が重視される傾向にある。まあ出世コースである事は事実だ。だからこそ正親町右少将と庭田侍従が俺を疎むのだろう。
養母の考えでは飛鳥井家から蔵人頭が出るという事は飛鳥井家も内々に変わる候補の家という事らしい。内々に変われば色々と待遇面で優遇されるそうだ。
「しかし随分と気が早いのではおじゃりませぬか?」
中将なんて未だ先の事だろうし蔵人頭となればさらに先の筈だ。ちょっと腑に落ちない。あら、養母が首を横に振っている。
「違うのでおじゃりますか?」
「ええ、帝は右少将殿を早い時期に頭中将にと考えているようです」
「……」
目が点だよ。俺じゃないよ、春齢がだ。まあ俺も似たようなものだろうけど。
「畿内が落ち着きませぬ。帝は不安に思っておられます。右少将殿、そなたは鋭い。帝はそなたを傍に置いておきたいのです」
なるほど、足利と三好の対立はこれから激化するからな。しかしなあ、だからと言って俺を相談相手にって……。俺は未だ数えで十二歳だよ。溜息が出そうだ。
「兄様、凄い。頼りにされてる」
「それにそなたは春齢を妻に迎えますからね。それなりの待遇をしなければ……」
うん、まあそれは有るだろうな。帝の面目にも関わる。春齢が嬉しそうにしている。未来の夫が出世する、やっぱり嬉しいのかな?
「葦の運上がどの程度の物になるのか、それ次第では来年の除目で頭中将にという事も有るでしょうね」
今度は本当に溜息が出た。俺が溜息を吐くと養母が可笑しそうに笑った。いや、笑い事じゃないよ。十三歳で近衛中将って摂関家並みの出世の早さなんだけど……、待てよ……。
「養母上、その御話を知っているのは養母上だけでおじゃりますか?」
問い掛けると養母が首を横に振った。
「私以外にも何人かに漏らしているようですよ。いきなり頭中将にしたいと言っても混乱しますから」
なるほど、地均しか……。反発する者も居るだろうな。
「先程ですが正親町右少将と庭田侍従に会った後、新大典侍殿に会いました」
あ、養母の顔が引き締まった。なるほどなあ、養母にとってはライバルだからな。
「持明院に嫁いだ母と会っているのかと問い掛けてきました」
「そんな事を言ったのですか」
語尾がきつい。目も吊り上がっている。春齢もちょっと引いてるぞ。
「お怒りになられましたか?」
恐る恐る聞くと“当然でしょう”と語気を荒げた。
「そなたと姉上の事はそなたの所為では有りませぬ。そなたは父親を失い朽木の家を追われたのです。そなたが無力な子供なら姉上に甘えたでしょう。母子の情も深まったと思います。でもそなたは無力では無かった、自らの力で立とうとした。その事が姉上には理解出来ず受け入れられなかったのです。そなたに非が有るわけでは有りませぬ」
うん、そうだな。でも実母に非が有るわけでも無い。むしろ養母が俺を受け入れたのが不思議だ。自分の息子じゃ無いから受け入れられたんじゃないか、そんな風に思う事もある。養母が溜息を吐いた。
「姉上にも困ったもの」
「養母上」
養母が俺を見た。困っているのは養母の方じゃないか、そんな想いを持った。
「時々姉上から文が来ます。右少将殿の事も訊ねてくるのです。直接文を書いてはどうかと勧めているのですが……」
実母からは文は来ない。実母に子が生まれた事、男子で若王丸と名付けられた事は夫の持明院宰相からの文で知った。お祝いも贈った。……まあ、それは良いのだ。俺は気にしていない。
「養母上、新大典侍殿は頭中将の件、知っていたとは思いませぬか?」
養母が少し考えてから”そうかもしれませぬ”と言った。
「麿は知っていたから話しかけて来たのだと思います。頭弁は万里小路輔房殿、今年任じられたばかりでおじゃります。麿が頭中将に任じられれば比較されるのではないか、帝の御信任が益々飛鳥井に向かうのではないか、そう思ったのかもしれませぬ」
養母が溜息を吐いた。春齢も溜息を吐いた。新大典侍は俺が万里小路輔房の競争相手になると思ったのだろう。だから嫌がらせをしたのだ。
「そうですね、殿上管領頭の事もあります。新大典侍は不安に思ったのかもしれませぬ」
「殿上管領頭ですか? しかしあれは頭弁が……」
「分かりませぬよ」
養母が意味ありげに笑った。ちょっと怖いな。養母はやる気満々だ。新大典侍の顔を潰してやりたいらしい。
殿上管領頭とは清涼殿南廂の殿上間における雑事の責任者の事をいう。この殿上間なのだが会議室または控室の用を為すのだが此処に入るには資格が要る。基本的に従三位以上の位階にある人間は権利を持つ。また四位でも参議の職にある者も入れる。つまりこれが公卿と呼ばれている。律令では国政を扱う最高幹部なわけだ。
それ以外の四位、五位の人間を貴族と呼ぶのだがこの貴族の中で帝から殿上間に入る事を許される事を昇殿と言い、これを殿上人と言う。殿上管領頭とはこの殿上人の首座なのだ。まあ早い話が雑用係のトップだな。二人の蔵人頭の内、一人が務める。貫首【かんじゅ】と呼ばれる事もある。そしてもう一人の蔵人頭を傍頭と呼ぶ。管領頭は位階の上下に関わらず大体において頭弁が務めている。理由は言うまでもないだろう……。しかし、まさかね。
「そなたも言いましたが畿内が安定するとは思えませぬ。となれば帝のそなたへの御信任は更に厚くなりましょう」
「……」
うーん。しかしねえ、朝廷は前例重視だよ。殿上管領頭にするのは簡単じゃないと思うけど……。それに雑用係はあんまり好きじゃないんだよな。出世にも興味ないし。
すみません、一日遅れました。