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永禄三年(1560年) 六月下旬      山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路  飛鳥井邸 目々典侍




 「この部屋を私に?」

 思わず声が弾んだ。右少将が“はい”と答えた。部屋の中に入った。周囲を見渡す。調度品は無いが寒々とした雰囲気は感じられない。陽当たりが良く部屋の中にまで陽が差し込んでいるからだろう。


 邸を見て欲しいと言われて来てみたが予想以上の邸だ。これなら春齢も喜ぶだろう。それにしてもこの部屋を私に? 右少将の心遣いが嬉しい。右少将に視線を向けると私を見て微笑んだ。


 「養母上、如何でおじゃりますか? この部屋は」

 「ええ、とても気に入りました」

 右少将が顔を嬉しそうに綻ばせた。右少将の後ろには家僕の山川九兵衛が慎ましく控えている。四十になるだろうか、落ち着いた雰囲気の男だ。桔梗屋から人を入れたと聞いた。となればこの者も忍びの者なのだろう。


 「調度品の類は来年、春齢姫をこの邸に迎え入れる時に一緒に揃えようかと思っております」

 「何時頃こちらに迎えるのです?」

 「今は三月から四月を考えております。その頃なら暖かくなりますから……」

 三月から四月、陽気も良い、娘も喜ぶだろう。でも……。


 「費えが大変なのでは有りませぬか?」

 問い掛けると右少将が首を横に振った。

 「御心配なさいますな、無理は致しませぬ」

 「それなら良いのですけど……」

 運上に頼るのだろうか、一体どのくらい入るのだろう……。 

 

 「春齢の部屋は何処なのです? あの()からも部屋を見てきて欲しいと頼まれているのです」

 「こちらです」

 案内してくれたのは二つ離れた部屋だった。この部屋も陽当たりが良かった。これなら娘も気に入るだろう。その事を言うと右少将が嬉しそうな表情を見せた。


 「養母上にそう言って頂けて安心しました。自分の部屋よりも養母上の部屋の方が良い、養母上ばかり大事にすると文句を言われては敵いませぬ」

 「まあ」

 可笑しくて声を上げて笑った。右少将も笑っている。山川九兵衛も慎ましく笑っている。一頻り笑った後、右少将が“養母上”と声を掛けてきた。


 「お座り頂けませぬか?」

 「如何したのです?」

 「そろそろ養母上に某の心積もりをお話ししておこうと思いまして」

 右少将は生真面目な表情をしている。“分かりました”と言って座った。九兵衛が外そうとすると右少将が九兵衛にも座る様にと言って自らも座った。


 「桶狭間で今川治部大輔を織田弾正忠が討ち取りました。この事で織田弾正忠の武名は跳ね上がった。この後、尾張は織田弾正忠の下に纏まりましょう」

 「そうですね」

 同意すると右少将が頷いた。

 「尾張一国で約五十万石、あそこは海が有り湊がおじゃります。銭が有るのです。たちまち近隣を圧倒しましょう。そして織田が次に狙うのは美濃です」

 美濃? 確か……。


 「右少将殿、織田弾正忠の奥方は美濃の……」

 言いかけると右少将が頷いた。

 「斉藤山城守の娘です。そして美濃の国主は一色治部大輔、父親である山城守を殺した男です。織田弾正忠は仇討ちを名分に攻め込むでしょう」

 「……勝てますか? 稲葉山城は難攻不落と聞いています」

 右少将が微かに笑った。

 「さあ、どうなるか……。しかし美濃を切り獲れば京への道が見えてきます。それだけの力量は有る」

 京への道……。つまり織田を上洛させる? それを考えている?


 「しかし今川がそれを許しますか? 治部大輔の仇を討とうとするのではありませぬか? そうなれば織田は美濃攻めどころではありますまい」

 私の問いに右少将がまた笑った。

 「今川は治部大輔が討ち死にした事で混乱しています。立て直すのは簡単ではおじゃりませぬ。そして治部大輔の討ち死にを好機と見て長尾が関東に攻め込むでしょう。北条は相当に追い込まれる事になります」

 「……」

 右少将の顔からは笑みが消えない。


 「養母上」

 「はい」

 「今川はそれを放置出来ませぬ。北条を助けようとする筈です」

 「……」

 「混乱している今川にとっては簡単な事ではおじゃりませぬが北条を助ける事で三国同盟の中でしっかりとした立場を得られると考える筈です。三国同盟が安定していれば今川は安全だと。いや、それ以上に長尾が関東を制すれば次は武田、今川が潰されかねぬと考えるかもしれませぬな。つまり、今川の目は当分東を注視する事になる。西に兵を出す余裕はおじゃりませぬ」

 「……」

 声が出ない、右少将は長尾の関東制覇は成功しないと見ていた。だがそれを止めようとはしなかった。黙って見ていただけだった。長尾の関東遠征を利用しようとしているのだろうか……。一体何時からそんな事を考えていたのか……。九兵衛も顔を強張らせている。


 「右少将殿」

 「はい」

 「織田が勝ったのは運ですか? それとも必然ですか?」

 右少将が私を見た。口元が綻んだ。

 「運が有ったのは間違いおじゃりませぬ。そうでもなければ雹が降る筈もない。ですが運だけではおじゃりませぬ。織田殿は勝つために努力をしました。織田殿の武略無しには勝利は有り得ませぬ」

 「……そなたも織田の勝利に関わったのですね」

 「……はい、少しですが」

 右少将の声が耳に響いた。思わず息を吐いた。この子は全てを想定していたのだと分かった。


 「京への道ですか」

 「はい。尾張、美濃、合わせれば百万石を超えましょう。動かす兵力は三万を超える事になります」

 「ですが近江には六角が居ますよ」

 「六角は長く有りませぬ」

 「!」

 息が止まった。まじまじと右少将を見た。右少将はジッとこちらを見ている。震えるような怖さが有った。


 「それは、どういう事です」

 やっとの事で出した声は掠れていた。

 「跡取りの右衛門督ですが、あの男では家は保てませぬ。早晩六角家は転びましょうな」

 「……浅井との戦で負けると?」

 右少将が首を横に振った。


 「それは分かりませぬ。ですが六角は転ぶと思います。そして一度転んでしまえば二度と立ち直れないでしょう」

 六角が転ぶ……、二度と立ち直れない……。強大な六角が……。でも右少将は六角は浅井に負けると見ている、少なくとも私と娘はそう思った。転ぶのかもしれない……。実感が湧いた。


 「そうなれば織田は尾張、美濃の他に南近江も手に入れる事になる。ざっと百五十万石、兵は四万を超えましょう。十分過ぎる程の戦力におじゃります」

 「三好と戦うと?」

 「さあ、どうなるか……」

 右少将が首を傾げている。


 「協力するやもしれませぬな。その辺りは何とも言えませぬ。しかし新しい勢力が誕生するのです。当然ですが天下も変わりましょう」

 天下が変わる……。唖然としていると右少将が顔を綻ばせた。

 「まだまだ先の事です。それに麿が示したのは可能性の一つでしかおじゃりませぬ。そういう未来も有り得るという事におじゃります。帝にもそのようにお伝え下さい」

 「内密に、ですね」

 右少将が頷いた。


 「はい、内密にお願いします。春齢にはいずれ麿から話します。ですので母上からは何も……」

 「分かりました。話しませぬ」

 宮中で話せば外に漏れかねない、それを恐れている。だがこんな話が外に漏れればそれこそ三好孫四郎は右少将を殺そうとするだろう。修理大夫が止めても殺すに違いない。まさか、織田が三好に代わる武家の棟梁になる?


 「九兵衛」

 「はっ」

 九兵衛が畏まった。

 「今の話は重蔵には話してある。だがそなたからもう一度伝えておいてくれ」

 「はっ」

 「それと邸の中の者にもな」

 「承知しました、確と」

 右少将が満足そうに頷いた。未だ十二歳、身体も年相応のものだ。だがその知略は間違いなく天下を動かすだろう。この子は羽ばたき始めたのだと思った。




永禄三年(1560年) 七月上旬            山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏   源春齢



 「右少将におじゃります。養母上、宜しゅうございますか?」

 兄様がやってきた。母様が”どうぞ”と答えると兄様が姿を現した。笑顔で部屋の中に入って座った。

 「今日は少し遅いのではありませぬか?」

 うん、今日は少し遅い。私もやきもきしたけど母様もやきもきした筈。何度も遅いと言っていたから。兄様がちょっと困ったような表情を見せた。


 「帝にご挨拶をした時に邸の事でお話がおじゃりました。思いの外に話が弾みまして……」 

 「まあ、そうですか。先日邸の事をお伝えしましたからね。陽当たりの良い部屋を頂いたとお伝えすると喜んでおられました」

 「左様でおじゃりましたか」

 私も行きたかったな……。あ、母様の機嫌が直ってる。


 「他にも御下問がありましたので遅くなりました」

 御下問? 父様から? 母様も不思議そうな顔をしている。

 「六角と浅井の話でした。戦になるかとの御下問がありましたので夏が終わるまでに有ると思うと答えました。実際六角は戦の準備を進めているようです。戦が始まるのも直でしょう」

 うん、三好と畠山の争いに六角が加わるのは無理よね。でもこれって前から兄様が言ってる事なんだけど……。

 「帝も御不安なのでしょうね」

 母様の言葉に兄様が頷いた。うーん、そうよね。この京が焼かれたら私どうなるんだろう……。いや、それより大事な事が有るわ。


 「兄様」

 「何でしょう」

 「兄様は勾当内侍と親しいの?」

 「はあ? 特別に親しいとは思いませんが……」

 兄様が首を傾げている。

 「でも長橋で二人きりで長い時間話してたって小萩が言ってたわ。勾当内侍は人払いをしたのでしょう」

 母様が頷いた。母様も気にしているのよね。


 兄様が困ったような表情をした。うん、大丈夫。疚しい時って兄様は目を逸らすけど今回は無い。危ないのは織田の濃姫よ。母様も危ないって言っている。尾張へは二度と行かせない。

 「先日、少し勾当内侍の仕事を手伝ったのです。長橋ではその礼を言われました」

 「それだけですか?」

 母様が訊ねるとまた兄様が”いえ”と言って首を横に振った。


 「それは口実でおじゃりましょう。本当は義兄の高倉右衛門督殿の事を話したかったのだと思います」

 高倉右衛門督? 母様を見た。母様も不思議そうな顔をしている。

 「それはどういう事なのです?」

 「公方が朽木に逼塞した時の事ですが三好修理大夫が公方に付いていった者の知行を没収すると言った事を養母上は覚えておられませぬか?」

 「ええ、そういう事が有りました」

 私は知らない。公方が朽木に逃げた時? 私幾つだろう? 四歳? 五歳かしら。


 「あの時、途中まで公方に付いて行きながら修理大夫の脅しに京へと戻ったのが高倉右衛門督殿です」

 はあ? 母様と顔を見合わせた。母様も驚いている。

 「そう言えばそういう事が有りました」

 「その後、公方は京に戻りました。当然ですが右衛門督殿は拙い立場になった。日野家の養子問題で勾当内侍が広橋家に与したのは高倉家の立場を少しでも良くしようと思っての事でおじゃりましょう」

 「ですがあの件は……」

 兄様が”ええ”と頷いた。


 「あの件は日野家の所領を削る形で決着しました。公方にとっては不満だったと思います。当然ですが高倉家に対する感情は悪化したでしょう。高倉家は役に立たない、そういう想いを強くした筈です」

 「……」

 「そして今、室町第では長尾が関東を制覇し京へ上洛するという話が出ている。右衛門督殿は不安になったのでしょう。長尾が上洛して三好を打ち払えば自分はどうなるのかと……。麿の邸に何度か来ました」

 「右少将の邸を右衛門督殿が訪ねていると兄から聞いていましたが……、そこまで追い詰められていたのですか」

 母様が溜息を吐いた。


 「日野家の跡目問題では随分と揉めました。今手の平を返したように振る舞うのは外聞が悪い。麿に不快感をもたれる恐れもあります。勾当内侍は高倉家の苦しい立場を分かって欲しいと頼んできたのです」

 そういう事なんだ。

 「それで、何と答えたのです?」

 「自分に対する気遣いは無用だと答えました。右衛門督殿にもそう伝えて欲しいと」

 うん、兄様って頼られると弱いのよね。


 「それと運上の事も有ります。勾当内侍は宮中で行われる儀式、行事の準備、費えの管理もしなければなりませぬ。どの程度運上が入るのかは気になるところでしょう。そういう意味でも麿との関係を改善したいと思っていたようです」

 「そうでしたか。宮中ではそなたと勾当内侍が親しいと噂になっています。心配したのですよ」

 兄様が笑い出した。


 「勾当内侍はわざとそういう噂が立つように仕向けたのでしょう。宮中でも右衛門督殿の立場を危ぶむ者が居るようです。安易に近付けぬと。孤立を恐れているのだと思います」

 そうだったんだ。


 「大人しそうな方なのですけどね。少し飛鳥井の伯母上に似ているかな。でもなかなか強かな方だ」

 兄様楽しそう。褒めてるの? ちょっと不満。 

 「兄様、近衛の姫ってどんな方? 朝倉家から戻られた方だけど」

 「ああ、寿殿の事かな?」

 「そう」

 兄様が笑い声を上げた。なんで笑うの?


 「凄い美人です。あんな美人を離縁するのだから朝倉左衛門督は醜女(しこめ)が好きなのでしょう。勿体無い」

 勿体無いって何よ! でも疚しい所は無いみたい。

 「まあ近衛家の方々も結婚には恵まれませぬな。太閤殿下も心を痛めておられるようです」

 それは可哀そうだと思うけど……。あんまり近衛家には行って欲しくないのよね……。兄様ほだされそうで心配よ……。




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― 新着の感想 ―
[一言] 武家編の基綱の女性関係はハーレムより種馬でしょう、小夜と雪乃以外大抵政治的や人道的に側室を取ることだ
[一言] 3巻購入させていただきました。 既に報告されているかもしれませんが念のため誤字報告です。 P113、23行目 >今川が家を建て直せば自然とその目は東の織田へ 西の織田へ
[気になる点] >「そろそろ養母上に某の心積もりをお話ししておこうと思いまして」 一人称が『某』ここで武家の血が出たのか それとも『麿』の校正抜けでしょうか とても気になります たった一文字ですが、主…
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