桶狭間
永禄三年(1560年) 五月中旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 飛鳥井基綱
「驚いたぞ、まさか此処に来るとは思わなかった」
眼の前で信長が呆れたように首を横に振った。可笑しいよな、声を上げて笑うと信長も声を上げて笑った。
「嬉しかったかな」
「ああ、詰まらない戦評定の最中だったのでな。切り上げる口実が出来たわ」
「ならば麿は救いの神か」
「そんなところだ」
また二人で大笑いだ。そんな俺達を信長の正室、濃姫呆れたように見ている。細面のなかなかの美人だ。養母よりも少し若いだろう。ちょっと好みのタイプだ。
「殿、右少将様とは何時の間にそのように親しくなられたのです? 文の遣り取りをしているとは知っていましたが……」
「去年上洛した時だ。共に火鉢にあたって暖を取った仲よ」
「まあ」
目を瞠った表情が可愛い。
「餅でも焼けば良かったかな? 織田殿」
「ああ、それも良かったな」
また二人で笑った。
「まあ戦評定など開いても無駄でおじゃろうな」
「そうだな」
互いに頷きあった。織田家中に今川に通じる者が居ないとは限らない。今の信長は後年の信長じゃない。未だ弱く小さい存在なのだ。信長を見限って今川に通じようとする者が居てもおかしくは無い。
「此処へはお一人でいらっしゃったのでございますか?」
濃姫が訝しげな表情で訊ねてきた。
「供は四人連れてきました。今は外で今川の動きを見ておじゃりましょう」
信長が“ふーむ”と鼻を鳴らした。そして濃姫に“席を外せ”と言った。うん、後ろ姿も良い。ちょっと残念。
「勝てると思うか?」
「勝てるだけの手は打ったのでおじゃろう?」
「うむ」
「ならばあとは何時動くか、機を捉えるかでおじゃろう」
信長が“そうだな”と頷いた。史実通りなら信長が出陣するのは丸根、鷲津の砦が攻撃された時だ。二つの砦を落としたのは松平元康と朝比奈泰朝、朝比奈は今川の重臣中の重臣だ。
「今川の兵力は?」
「ざっと二万。武田、北条からも援軍が出ている」
苦い表情だ。武田と北条の援軍か、それぞれ二、三千は出しただろう。となると今川は一万五千程という事か。
「織田殿は?」
「俺が動かせるのは三千程だ」
「治部大輔一人を狙うのなら十分でおじゃろう」
信長が苦笑しながら“そうだな”と言った。
「今川の動きは?」
信長が眉を寄せた。美男だけに不機嫌そうに見えるのが難点だな。
「治部大輔が沓掛城に入った。もう五日程経とうな。今のところ今川に動きは無い。おそらくはこちらの動きを確認しながら攻撃の手筈を整えているのだろうと思う」
呟くような口調だ。不安が有るのだろう。
「となると織田殿に動きが無いのを如何見たか……」
「うむ」
戦評定もまともに開かない、開いても結論を出さない。それが今川に伝わっているなら織田は居竦んでいると見るだろう。その事を言うと信長も頷いた。油断してくれれば良いのだが……。
「今川の狙いは大高城に兵糧を入れ守る事でおじゃろう」
「うむ」
「となれば丸根、鷲津の砦が邪魔という事になる。今川は必ず二つの砦を攻める」
「そうだな」
信長が頷いている。兵糧を入れるのは丸根、鷲津の砦の所為で大高城が干上がったからだ。放置していてはまた同じ事になる。必ず攻め落とす筈だ。
「治部大輔が沓掛城を出ると思うか?」
俺が問うと信長が“出る”と力強く断言した。
「何時?」
「大高城が安全になった時だ。大高城に入り織田を打ち払ったと声高に宣言する。そうする事で周囲の国人衆を今川方に付けようとする筈だ」
「つまり、治部大輔が沓掛城を出るのは兵糧が入り丸根、鷲津の砦が落ちた後という事になる」
信長が“うむ”と頷いた。
「襲うのは沓掛城から大高城への移動の途中か」
「あの辺りは小山や丘が多い。見晴らしは良くない。奇襲が成功する可能性は低くない」
二人で顔を見合わせた。互いに頷く。史実ではそうなった。
「織田殿は何時動く?」
「丸根、鷲津に敵が攻めかかった時だ。ここを出て熱田神宮に行く。そこで兵を集め善照寺砦に行く。そして治部大輔が沓掛城を出たという報せを待つ」
やはり善照寺砦を選んだか。中島砦の方が今川勢に近い。だが善照寺砦の方が鎌倉街道を使って義元の本隊を襲うには都合が良い。
「では手越川の北だな」
「そうだ、良く見た」
今川方は手越川の南を主戦場と考えているが信長は裏をかいて北から義元の本体を襲おうと考えている。お互い松平の事は口にしない。だが松平からの使者が沓掛城に入ってからが勝負だ。信長の命を受けた男達が沓掛城の義元を見張り続ける事になる。
「何か見落としは有るか?」
不安そうな表情だ。打つべき手は打った。それでも勝算は決して高くない。その事が不安なのだろう。少しでも勝算を上げたいのだ。義元を討てなければ丸根、鷲津の兵は見殺しという事になる。そして大高城とその周辺は今川の勢力が増す。信長は押し込まれる事になる。
「戦の時には首は討ち捨てを命じる事だ」
信長が頷いた。
「そうだな、分捕りも禁止しよう」
「あとは天気でおじゃろう。天気が悪ければその分だけ敵に近付くのが容易になる」
「天気か、……運だな」
信長が顔を顰めた。そう、運だ。だが運を呼び込めるのも実力なのだ。信長には運を呼び込む実力がある。そう思うんだが……。
永禄三年(1560年) 五月中旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 織田信長
「殿、勝三郎にございまする。起きておられまするか?」
廊下から池田勝三郎の声が聞こえた。押し殺した声だ。
「如何した」
身体を起こすと戸が開いた。勝三郎が片膝を突いて畏まっている。
「今川勢が丸根、鷲津の砦に攻めかかりましたぞ。丸根には松平、鷲津には朝比奈、たった今報せが」
とうとうその時が来たのだと思った。
「御苦労。勝三郎、戦ぞ」
「はっ!」
勝三郎が下がった。一つ息を吐いて立ち上がった。俺はこの時を待っていたのだろうか、それとも恐れていたのだろうか……。分からぬ……。枕、寝具を蹴飛ばして隅にやった。これで良し……。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
舞う、これが最後の舞いかもしれぬ……。悩むな、ただ舞うのだ。
「一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
一度きりの人生よ。この一戦に全てを賭ける。今川治部大輔の首を獲る!
舞い終わって覚悟が付いた。もう一度息を吐いた。
「螺吹け! 具足寄越せ! 戦ぞ!」
声を張り上げると彼方此方から“戦ぞ!”という声が上がった。小姓達が具足を持ってきた。袴をはき小姓の助けを借りて具足を身に着けていると螺の音がした。これで皆が起きる。まともな戦評定をしていなかったのだ。多くの者が籠城だと見ていた筈、大騒ぎだろうと思うと可笑しかった。
お濃が現れた。表情が硬い、夜着の上に小袖を羽織っている。
「殿、御出陣でございますか?」
「お濃、湯漬けを持て」
「はい」
そそくさとお濃が去った。
具足を付け終わる頃にお濃が湯漬けをもって現れた。受け取って湯漬けをかき込む。二杯目を食べている時に右少将が現れた。無視して湯漬けをかき込む、だが右少将は不満そうな表情を見せなかった。黙って座って俺を見ている。相変わらず可愛げのない男よ。だがその事も可笑しく感じられた。
食べ終わると右少将が話しかけてきた。
「美味かったかな?」
「さて、腹を満たすのが忙しくてな、味わう暇など無かったわ」
右少将が笑い出した。
「困ったものよ、奥方の給仕でおじゃろうに」
お濃に視線を向けるとお濃は困ったような表情をしていた。
「これでは勝って帰るしかあるまい」
「そうだな」
「麿も待っているぞ、京でな」
「……ああ」
京か……。そうだ、俺はこんなところで負けるわけにはいかんのだ。
「出陣じゃ! 熱田神宮! 馬引け!」
勝つ、必ず勝つ!
永禄三年(1560年) 五月中旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 飛鳥井基綱
信長が出陣した。もう一眠りするかと思ったが城中は大騒ぎだ。とても眠れるとは思えない。如何したものかと思っていると濃姫が“右少将様”と声を掛けてきた。
「夫は、織田弾正忠信長は勝てましょうか?」
ジッと俺を見ている。公家だから戦は分からない、子供だから分からないと言っても良いんだが……。
「勝ち目はおじゃります。僅かだが有る。麿と織田殿はそれを見つけた。だが勝利をものに出来るかどうかは分かりませぬ。それほどまでに厳しい」
濃姫が思い詰めたような表情をしている。……桶狭間の戦いは軍事作戦としてみればそれほど珍しいものじゃない。敵の兵力を前線に引き付けておいてその隙に迂回して後方にある敵の本隊を撃破するというものだ。大高城も丸根、鷲津も今川軍を引き付ける餌に過ぎない。
問題は義元の兵力が多過ぎる事だ。余剰戦力が多いという事は何処に敵の兵が居るか分からないという事でもある。それらを避けつつ義元に接近しなければならない。義元の本隊に近付く前に他の部隊に見つかって戦になれば作戦は失敗だ。信長が手越川の北を利用しようとしているのはそのためだ。そういう意味では史実の信長はついていた。突然の悪天候で視界が利かなくなった。それを利用して義元に近付けた。
義元は決して愚将ではない、信長も同様だ。この二人が戦ったのに武将としての能力以外のところ、兵力の大小以外のところで勝敗が決まった。桶狭間の戦いはそういう不思議な要素の多い戦いだと思う。
「あとは織田殿の運次第でおじゃりますな。織田殿が勝つと信じられる事です」
濃姫が頷いた。
「麿も腹が空きました。朝餉をお願い出来ませぬか?」
「……」
「お濃殿、そなた様も朝餉を摂られた方が良い。今日は長い一日になる。腹が減っては戦えませぬぞ」
「……はい」
濃姫が頷いて立ち上がった。
永禄三年(1560年) 五月中旬 尾張国 愛知郡 鳴海村 善照寺砦 織田信長
未だ来ないか……。
「今何刻か」
問い掛けると“そろそろ午の刻かと”と答えがあった。もう午の刻か……。遅い、今川治部大輔は未だ沓掛城を出ないのか……。まさか、大高城には行かない? いや、そんな事は無い。丸根、鷲津を落とし大高城に兵糧を入れれば今川方の完勝と言って良い。治部大輔は必ず大高城で凱歌を上げる筈だ。
落ち着け、落ち着くのだ。逸ってはならぬ。機会は一度しかない。ここで今川治部大輔の首を取る。そうすれば今川は混乱する。跡取りの彦五郎は家を纏めるために当分兵を外に出す事は出来ぬ。その隙にこちらは尾張を完全に掌握すれば良い。治部大輔を討ち取った後なら俺の武名も上がっている筈、皆も俺に従う事を躊躇うまい。難しくは無い筈だ。
その後でなら今川が押し寄せても怖くは無い。互角以上に戦える。
「殿!」
声と共に簗田四郎左衛門が走り寄って来た。来たか!
「出たか?」
「はっ、今川治部大輔、兵五千と共に大高城の方向へ」
「御苦労!」
来た! ついに来た! 身体を無意識に震わせていた。武者震いとはこれか!
「皆聞けい!」
兵達の視線が俺に集まった。
「これより今川治部大輔と決戦いたす! 敵の兵力は五千ほど、目指すは治部大輔の首一つ! 遅れるな!」
どよめきが起こった。
「馬引けい!」
引かれてきた馬に乗る。馬腹を蹴って砦を飛び出すと鎌倉街道を目指した。
駆ける、ただ駆ける! 鎌倉街道を入るとそのまま東へと進む。しばらく駆けていると頬に冷たいものが当たった。雨? 思う間もなく土砂降りとなった。痛いと思う程に雨に頬を叩かれた。いや、雨ではない、雹だ! この五月に雹! これで今川の眼を晦ませる事が出来る!
「はははははは」
勝てる! 俺は勝てるぞ、右少将!
「天祐我に有り! この戦! 信長が貰った!」
馬腹を蹴った!