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凶兆




永禄三年(1560年) 五月上旬      山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍




 「では?」

 「うむ、父上も内心では関係改善を望んでいたのでおじゃろう、随分と話が弾んだようじゃ。余人を交えず一刻程も話していた」

 兄、飛鳥井権中納言雅教が上機嫌に答えた。父、権大納言飛鳥井雅綱は日野家の養子問題で朝廷から身を引いた。その事で右少将と父の関係はぎくしゃくしたものになった。右少将と父の関係が改善された事にホッとしているのだろう。

 「右少将が帰った後で父上の部屋に行ったのだがご機嫌でおじゃったぞ」

 「それはようございました」

 私が答えると兄が“うむ”と頷いた。


 「まあ飛鳥井家は麿が権中納言になった。それに孫二人も昇進し右少将は帝の信頼も厚い。今では宮中の実力者じゃ。日野家の事も資堯は跡目を継げなかったが所領の一部を貰って難波家を再興したのだから悪くない。あの当時は御不満だったが今となれば上々の結果と思われたようでおじゃるの。そのような事を仰られた」

 「それはようございました」

 互いに顔を見あって声を上げて笑った。


 「ところで二人は何を話し合っていたのでしょう? 右少将は大名と文を交わすのに父の力を借りたいと言っていましたが……」

 一刻程も話していた、父は上機嫌、如何も腑に落ちない。私の問いに兄が“ふむ”と鼻を鳴らした。

 「まあ文の事も有るは九州探題、今川の寿桂尼、治部大輔、息子の彦五郎等の為人を尋ねたと聞いている。それと、何と言ったかな、そう、松平じゃ。今川に人質になっている松平の跡取りの事を尋ねたとか」

 「松平……」

 何かが引っ掛かった。右少将は尾張へと向かっている。尾張では織田と今川の戦が迫っている。当然だが松平もそこに関係するだろう……。右少将は松平が戦の帰趨を左右すると考えているのだろうか?


 「如何したかな?」

 「いえ、……右少将が尾張に行っております」

 「そうじゃの、……帝が良く御許しになられたものよ」

 「六角、浅井、畠山の事がございます」

 兄が眼を剥いた。

 「まさかとは思うが話したのか?」

 「はい」


 兄が息を吐いた。帝は河内の情勢を不安視していた。三好と畠山の戦だけならともかく六角も絡むとなれば場合によっては戦火は京にまで及ぶのではないかと。だから右少将の予測を私が伝えるとホッと安堵の表情を浮かべられた。戦は起きるにしても夏以降、おそらくは秋から冬だ。


 「……あれはあくまで予測でおじゃろう」

 「間違っているとは思えませぬ。帝も頻りに頷いておられました。尾張へ行く事を許されたのも何か意味が有るのだろうと思われたから、そして直ぐには戦が起きぬと思われたからにございます」

 兄が訝し気な表情をした。


 「意味が有る? 戦は今川が勝って終わりでおじゃろう」

 「真にそう思われますか?」

 「……織田が勝つと?」

 兄が探るような視線で私を見ている。

 「分かりませぬ」

 織田が勝つのか、或いは勝たせるのか……。兄が“有り得ぬ”と首を激しく横に振った。


 「今川治部大輔は海道一の弓取りと皆が認める名将じゃ。動かす兵も今川の方が圧倒的に多い。倍以上は有ろう。一方の織田は大うつけと名高い男ではないか。昨年上洛したが公方も相手にしなかった」

 「その公方を右少将は認めておりませぬ」

 「……」

 「公方が認めなかった織田を右少将が如何見ているのか? 気になるところでございます」

 「……馬鹿な」

 兄が小声で呟いた。


 「六角も負けるやもしれませぬ」

 「……朝倉が兵を出すと?」

 「それは分かりませぬ。ですが右少将は朽木に六角には近付かぬようにと指示しております。色々と理由を言っておりましたが六角が負けると想定しているのではないかと思いました」

 兄が笑い出した。


 「そなたは考え過ぎじゃ。朝倉は兵を出すのに消極的だと聞いた。浅井だけで六角に勝てるわけが無かろう」

 「春齢も同意見にございます。右少将は六角が負けると見ていると」

 「……馬鹿な」

 兄がまた小声で呟いた。私も娘も右少将が何かを隠していると見ている。多分、右少将には六角が負けるという確信が有るのだろう。その根拠は桔梗屋が齎したのだ。


 「六角が敗れれば三好の勢威は強まりましょう。そう考えると右少将が地方の諸大名と誼を結ぼうとしているのも納得がいきます」

 「……逃げ場所を作っているという事か。そこまで切羽詰まっているという事か……」

 兄が呻くように言葉を出した。


 東海道で今川が敗れ畿内で六角が敗れる。もしそうなれば有力守護大名が敗れ下剋上で成り上がった家が勝つ事になる。つまり足利を、幕府を支えるべき家が勢威を落とすという事……。まさか、本当に足利の世の後の時代が来るのだろうか? 強張った表情の兄を見ながら私自身も心が震えるのを抑えられなかった。あの子は何を、何処まで見ているのだろう……。




永禄三年(1560年) 五月上旬      近江蒲生郡  平井丸  飛鳥井基綱




 「久しゅうおじゃりますな、加賀守殿」

 「これは右少将様」

 眼の前で驚いて眼を瞠っているのは六角家では六人衆と称される重臣の一人、平井加賀守だった。玄関先で俺をじろじろと見ている。まあ、仕方ないよね。なんと言っても山伏姿なんだから。でもね、一度してみたかったんだよ。この格好を。そのうち虚無僧姿もしてみよう。飛鳥井基綱七変化だな。なんか時代劇みたいで好きだわ。


 「上げてもらえますかな?」

 「それはもう、……しかしこちらで宜しいのでございますか? 本城の方へご案内致しますが」

 「いやいや、これから尾張へ行かなければなりませぬ。喉が渇きましたのでな、寄らせていただきました。白湯の一杯も頂ければ失礼させていただきます」

 「左様で……。ではどうぞ、こちらへ」

 屋敷内へと案内してくれた。それにしても白湯が飲みたくて訪ねたってちょっと苦しい理由だな。


 通されたのは六畳ほどの広さの部屋だった。多分客が来たときは此処に通すのだろう。直ぐに白湯が運ばれてきた。運んできたのは奥方だ。礼を言って一口飲んだ。うん、美味い。喉が渇いてのは本当だ。

 「尾張に行く途中とお聞きしましたが」

 「はい、戦見物に」

 加賀守が呆れたような表情をした。まあそうだよね、俺も酔狂だと思うんだから。


 「それにしてもお一人でございますか? 些か不用心では?」

 「供は連れておりますが用を申し付けました」

 加賀守が“左様でございますか”と頷いた。

 「本当に宜しいのでございますか? 右少将様がお見えになられたと聞けば主、左京大夫も喜びましょう」

 「先を急ぎますので……。それに左京大夫殿も何かと忙しいと思いましてな」

 俺の言葉に加賀守が“それは”と言葉を濁した。


 「次の戦は負けられませぬな」

 加賀守が“はい”とはっきりと頷いた。もっとも表情は暗い。

 「顔色が優れませぬな。お気になる事がお有りかな?」

 加賀守が躊躇いを見せてから口を開いた。

 「困った事に家中には浅井を侮る声が……」

 「……なるほど、後詰をしませんでしたからな」

 「はい」


 娘の事かと思ったが違ったな。侮りか……。兵数の差だけではなく後詰しなかった事も油断に繋がったのだろう。野良田の戦いは六角側に優勢な状況下で長政が乾坤一擲の突撃をかけて逆転勝利した。多分、六角側は長政が突撃してくるなど想像もしていなかったのだ。だから対処出来ずに崩れた。


 「高野瀬とは繋ぎを付けているのではおじゃりませぬか?」

 「まあ、それは」

 加賀守が曖昧にだが認めた。

 「感触は?」

 「悪くありませぬ」

 その事も侮りに繋がったのかもしれない。まさかな、浅井がそういう風に持って行ったとか有るのか? 考え過ぎだ、偶然だ……。


 六角は朝倉が浅井の背後に居る事を知っているのだろうか? 知らないとも思えないが確認するのは止めておこう。変に警戒されたくない。だが知っているとすれば朝倉が兵を出さない事も油断に繋がっただろう。

 「ところで、御息女は如何お過ごしかな?」

 加賀守が切なそうな表情になった。

 「娘は引き籠っております」

 「……」

 

 憐れだな。小夜には何の罪も無い。それなのに戦国の惨さに翻弄されている。以前、此処で会った時には天真爛漫な少女に見えた。猿夜叉丸と名乗っていた浅井長政も小夜を嫌っているようには見えなかった。似合いの二人だったな。だが乱世の惨さは二人が並んで歩く事を許さなかった……。確か、彼女はこの後歴史には出て来ない。消息不明だ。どんな一生を送ったのか……。再婚したのか、一人で過ごしたのか……。そして長政はお市を妻に迎えるが最後は腹を切って死ぬ。死ぬ間際、小夜を妻にして六角と協力していればと考えなかったのだろうか?


 「一日も早く御息女が以前の様に明るい笑みを取り戻す事をねがっております。小夜殿なら必ず良い縁がおじゃりましょう」

 加賀守が眼を瞬いた。

 「お気遣い、有難うございまする。娘も右少将様のお気遣いを知れば喜びましょう」

 少し声が湿っている。小夜だけじゃないな、父親の加賀守も大分参っている。ちょっと優しい言葉をかけただけでウルウルするなんて。


 「実は若殿より娘を側室にという話が出ておりましてな」

 「ほう、それは……」

 そう言うのが精一杯だった。若殿っていうのは観音寺騒動を起こして六角家を没落させた六角義治だ。とても目出度い話とは言えない。しかし話そのものは悪い話ではない。だが加賀守の顔には憂鬱そうな色が有る。加賀守はこの話を喜んではいない。


 「まともな結婚はもう出来まいと……」

 「!」

 唖然として加賀守の顔を見た。俺が信じていないと見たのだろう。加賀守が“真にござる”と言った。嗤っている。誰を? 義治か、それとも自分達をか。いや、真にござると言われても信じられずにいる俺か……。


 「そのお話、御息女はご存じか?」

 思わず小声になっていた。加賀守が頷いた。

 「受けてはなりませぬぞ」

 「……」

 「六人衆と呼ばれる重臣の一人の娘をそのように蔑むとは……。余りにも思慮、優しさに欠ける。そのような御仁の側室になっても御息女は幸せにはなれますまい。御息女だけではおじゃらぬ、平井家にも災いが及びましょう。決して受けてはなりませぬ」

 加賀守が寂し気に頷いた。思わず溜息が出た。六角義治、どうしようもない馬鹿だな。


 小夜を側室にというのは発想としては悪くないのだ。“小夜は俺が幸せにする、安心しろ”とでも言えば加賀守は喜んで小夜を差し出しただろうし義治のために粉骨砕身の働きをしただろう。他の重臣達も義治というのは良い男だ、支えてやろうじゃないかと心を一つにしただろう。それなのに……。


 “まともな結婚はもう出来まい”。これでは仕方がないから俺が貰ってやると言っているようなものだ。これで側室になったら結婚出来ないから側室になったと小夜は周囲から蔑まれる事になる。加賀守や小夜の面目など何も考えていない。他者に対して配慮も無ければ優しさも無い。見えてくるのは傲慢さだけだ。これでは家臣達の心が離れるだろう。


 「六角家も難しいところに来ました。先代、当代と人を得ましたが……」

 力の無い声だ。加賀守が参っているのは六角家の衰退を感じ取ったからかもしれない。六人衆の一人として六角家を支えてきた加賀守にとっては自分の一生が無駄になったように感じるのだろう。


 「……右衛門督殿は御幾つでおじゃりましたかな?」

 「今年、十六歳になります」

 十六歳、浅井長政と同い年か……。若いからとは庇えない。戦の仕方、兵の動かし方を学ぶのは元服後でも良い。だが優しさや他者への配慮は最初に身に着けるものだ。それが出来ていない。


 「未だお若い、御自身を磨く時はおじゃりましょう」

 「そうですな」

 加賀守の声は弱かった。多分、期待出来ないと見ているのだ。俺も義治には期待出来ない。此処に来て良く分かった。観音寺騒動の事を知らなくても六角家は駄目だと判断しただろう。


 平井丸を辞去して少し歩くと護衛役の戸越忠蔵幸貞、石動左門景光、柳井十太夫貞興、麻倉清次郎隆行が現れた。いずれも山伏姿だ。忠蔵達は一人の男を捕えていた。町人姿の未だ若い男だ。後ろ手に縛られている。鼻の横に黒子があった。口には竹の猿轡が噛ませてあった。

 「その男か?」

 俺の問いに忠蔵が“はっ”と頷いた。左門が男を座らせた。男は強い目で俺を睨んでいる。可愛くないな。


 「手古摺ったか?」

 「いいえ、こちらは四人、この男は一人。難しくは有りませぬ。これまでこちらが何もしなかった事で油断したようです」

 忠蔵が苦笑している。捕えられた男は三好の忍びだ。俺の後を追ってきたのだが俺が平井加賀守と会っている間に捕らえるようにと命じていた。ちょっと頼みたい事が有る。


 「三好の忍びだと聞いた。そうだな?」

 「……」

 男は俺を睨んだままだ。あのなあ、喋れないんだからせめて首を横に振るとか頷くとかしろよ。リアクション無しは感じ悪いぞ。

 「頼みが有るのだがな。受けてくれるのなら命は助ける」

 男が眼で笑った。嘲笑う様な眼だ。寝返れ、知っている事を話せとでも言われると思ったのだろう。


 「難しい事ではない。そなた達には頭が居るな? その頭にな、会いたいから麿の邸を訪ねて参れと伝えて欲しいのだ。如何かな?」

 「……」

 今度は妙な眼で俺を見ている。忠蔵達も同様だ。

 「猿轡を外してやろう。だから舌を噛むなよ。約束出来るか?」

 男がちょっと迷ってから頷いた。左門が一瞬俺を見てから猿轡を外すと男がフーッと息を吐いてから口を動かした。馬みたいな口の動かし方だ。可笑しかった。

 

 「如何かな? 頼めるか?」

 「……会って如何なされる」

 低くて渋い声だった。声だけなら中年の男だと思うだろう。

 「決まっておじゃろう、話をするのよ」

 「……妙なお人じゃな。……伝えても良いが頭領が邸を訪ねるとは約束出来ぬぞ。それでも良いのか?」

 お前、なんか困ってないか。それと変な眼で俺を見るのは止めろ。


 「そなたの役目は麿の伝言を伝える事、麿の前に頭領を連れてくる事ではない。たとえ頭領が来なくともそなたを嘘吐きとは責めぬよ」

 男が“それならば”と言って頷いた。

 「良し。縄を解く、そなたは京へ戻れ」

 男が困ったような顔をした。


 「麿はこれから尾張に行く。六月の初めには京に戻る。頭領にはそう報告すれば良かろう」

 「分かった」

 左門が刀を抜いて縄を斬ると十太夫が“我慢しろよ”と男に声を掛けた。そして腕を取って気合と共に肩の方に押し込んだ。“ボキッ”と音がして男が呻いた。なるほど、縄抜けしないように腕を外してから縛っていたのか。十太夫が反対側の腕を取って押し込むと又“ボキッ”と音がして男が呻いた。男が立ち上がった。顔を顰めながら肩を回したり腕を曲げたり伸ばしたりしている。


 「では頼むぞ」

 「約束は守る」

 男が力強く言った。まあ信じて良さそうだな。

 「一つ聞き忘れた」

 「……」

 「そなたの名は?」

 男がまた困ったような顔をした。こいつ、困ってばかりだな。


 「……長助、倉石長助だ」

 「そうか、長助か。気を付けて帰れよ」

 長助が歩き始めた。一度振り返って俺を見た。そして頭を下げると前を向いて歩きだす。結構礼儀正しい男だな。……あのなあ、そこで首を傾げるな! 失礼だろう!







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小夜さん貰ってやれよ!わあああ
[一言] 長助可愛いな。
[良い点] いつも楽しく拝読させて頂いております。 [気になる点] 誤字報告をと思い、こちらにて失礼します。 >礼を言って一口飲んだ。うん、美味い。喉が渇いてのは本当だ。 →渇いてた
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