五畿内
永禄二年(1559年) 八月上旬 山城国葛野郡 桔梗屋 飛鳥井基綱
「鍋や釜、それに食器、他にも夜具、姿見など色々と用意しております」
「済まぬな。掛かりはどのくらいになるかな?」
“ほほほほほほ”と巨乳が揺れた。これは眼福、いや眼の毒だわ。俺も“ほほほほほほ”と笑いたくなった。
「それには及びませぬ」
「そうはいかぬ。桔梗屋は商人であろう。きちんと銭は請求せねば」
また葉月が笑った。俺も笑いたくなった。
「侍従様は律義な。……分かりました、後程詳細な掛かりを内裏の方へお届けします」
「うむ、頼む」
「ところで、御雇いになる方は?」
「うむ」
そうなんだな、一応二百貫ある。石高なら四百石くらいだ。武家なら十人から十二人程の兵力を出す事になるが……。
「戦に行くわけではないからな。供侍は四人程で良いと考えている。ただ腕が立って信頼出来る者が必要だ。他に家の中を頼める人間を六人から八人程。これには当然だが女も要る」
葉月が頷いた。
「左様でございますね。御本家から人をお出しして頂いては如何でございます?」
葉月の言葉に苦笑いが出た。
「まあ難しいだろう。難波家を継いだ叔父も飛鳥井の本家からは人を貰えなかったと聞いている。今の公家に他所に出せる程の人を雇う余裕は無い」
「では朽木家は?」
思わず顔を顰めた。
「朽木家は避けたい。麿と朽木家に強い繋がりが有ると幕府に知られるのは面白くないのでな」
葉月が“そうでございますね”と言った。俺の所為で左兵衛尉の叔父御達も辛い思いをしているだろう。俺と朽木が密接に繋がっているとなれば今以上に辛い思いをする筈だ。
「ならば私達から人を入れませぬか?」
「何人かは頼もうと思っていた。……全部か?」
葉月が“はい”と頷いた。
「邸を持つとなれば必ず侍従様の動向を探ろうとする者が現れましょう。忍び込むか、或いは内通者を作ろうとするか。或いは暗殺という事もございます。安易に人を雇うのは危険にございます」
なるほどな、確かにそれは有るな。しかし暗殺か……。うむ、三好孫四郎の事も有る。用心は必要だ。
「分かった。そちらに頼もう。だが若い女は駄目だぞ。春齢が煩いからな」
「まあ」
“ホホホホホホ”と葉月が口元を抑えて笑い出した。いや、冗談じゃないんだよ、焼餅が凄いんだ。会った事は無い筈なのに毬の事を目鼻立ちのはっきりした美人だって知っているんだから。それに俺が養母を褒めた事にも目くじらを立てる。あのなあ、母親を褒めるのは当然だろう。と言いたいんだが本人は何で自分の名前を出さないんだとおかんむりだ。
「ところで松永様は大和に攻め入るそうでございますね」
「そう聞いている。大和は分裂しているから攻め易いと見たのだろうな」
「ですが大和は興福寺の勢力が強く治め辛いのではございませぬか?」
葉月が首を傾げている。ちょっと可愛いな。
「その事は弾正も三好修理大夫も分かっているだろう。だがな、葉月。三好修理大夫は五畿内を治めているのは三好家だと言いたいのだと麿は思う」
葉月が“なるほど”と頷いた。
義輝が京に居る、だからこそ三好は五畿内を自分の力で支配したがっている。義輝が京に居るから五畿内が安定しているのではない、三好が居るから安定しているのだと言いたいのだ。幸い大和は分裂し争っている。此処に攻め込んで安定させれば五畿内が安定しているのは義輝の力では無い、三好の力によるものだと示す事が出来る。そして武家の棟梁は義輝では無い、三好修理大夫だと示す事が出来るのだ。それは義輝の権威を、足利の権威を貶める事になる。
「となればいずれは河内もという事になります。河内は畠山様の勢力下にございますが……」
「だから大和なのだ。大和の北部を押さえなければ河内で優位に立てない、河内を得ても安定しないと見たのだと思う」
葉月がジッと俺を見た。
「……畠山様との関係が悪化しますが?」
「三好にとって何かと気を使わなければならない畠山は六角と共に邪魔だ。大和の北部が有れば摂津、大和、和泉の三方向から河内を牽制出来る。大和制圧後は徐々に河内へと勢力を伸ばすだろう」
「……」
三好の勢力は既に山城、丹波、和泉、摂津、阿波、淡路、讃岐、播磨に及ぶ。五畿内の内山城、和泉、摂津は勢力下に有る。勢力下に無いのは大和と河内だ。五畿内を安定させてこそ天下人、三好修理大夫長慶は天下人を目指しているのだ。
「それにな、興福寺は藤原氏の氏寺だ。興福寺の別当は一乗院門跡と大乗院門跡が交互につくらしいが一乗院は近衛、鷹司の子弟が、大乗院は九条、二条、一条の子弟が門主となる」
「つまり、五摂家を押さえようと?」
驚いた様だな、声が高い。
「無いとは言えまい。……一乗院の門跡は覚慶というのだが公方の弟だ」
「……」
「近衛の血を引いているし近衛家の猶子となって一乗院に入った。そちらを押さえて公方を牽制しようというのかもしれん」
「なるほど」
「まあ色々と狙いは有るだろうな。それにあそこは豊かだ。そういう意味でも欲しい土地だ」
“左様でございますね”と葉月が頷いた。
色々な意味で大和は大事な土地だ。そういう面から考えると松永弾正久秀が大和制圧を命じられたのはそれだけの信頼と実績が有るからという事になる。親族でもなく譜代でもない事を考えれば三好家内部における弾正の存在は大きい。織田政権で言えば秀吉、光秀のような立場だろう。後年、三好三人衆と敵対するのはその辺りも有るからかもしれない。嫉まれたのだろうな。
永禄二年(1559年) 八月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 飛鳥井基綱
「良く来てくれました、侍従殿」
「いえ、御台所への御機嫌伺いは太閤殿下との約束、そのように慶寿院様に礼を言われるような事ではおじゃりませぬ」
俺が答えると慶寿院がニコリともせずに頷いた。あのね、もう少し愛想を良くしても良いんじゃないのかな。
室町第へ御機嫌伺いに来たらいきなり慶寿院の所に連れて行かれた。そしてその場には毬と春日狐、いや春日局も居る。二人とも神妙な表情だ。この前の騒動を怒っているのかな? でもね、あれは悪いのは毬と春日局だ。俺は関係無い。大体この件は太閤殿下、関白殿下も余り気にしていない。俺が報告したら関白殿下は俺と一緒に“ああ怖や、室町第には鬼が出る。おお怖や、室町第には鬼が出る”と歌い太閤殿下はそれを聞いて膝を叩いて喜んでいた。二人とも笑い話にしか思っていない。
「先日の一件、この二人には厳しく注意しました」
「左様で……」
二人を見たが能面のように無表情だ。胃が痛くなってきたな。
「盗み聞きをするのも御台所に敬意を払わぬのも許す事は出来ませぬ」
「……」
「そして御台所として自覚の足りぬ行動も許せませぬ」
もう一度二人を見た。大人しく座っている。余程に怒られたらしい。
「それもこれも公方に自覚が足りぬからです。公方にもその事を厳しく言いました」
うん、じゃあ終わりだ。もう帰っても良い? そう聞けたらなあ……。
「ですが公方の心に届いたとは思えませぬ。公方の頭の中に有るのは越後の長尾の事だけです。長尾が関東を制すればその兵を使って三好を討つ……。それだけで浮かれています」
「左様でございますか」
冷笑が出ないようにするのが難しいわ。武力が無いのは仕方ない、でも他力本願で有頂天になるなよ。
「笑止、と思っておられるようですね、侍従殿」
慶寿院がジッと俺を見ている。
「そのような事は……」
「良いのです、私も簡単ではないと思っています。しかし公方とその周りはそうでは有りませぬ。もう関東制圧は成ったも同然と思っています」
少し寂しそうだな。頼り無いと思っているのだろう。
「御台所、公方を此処へ呼んでください」
毬が躊躇っていると春日局が“私が”と言って立とうとした。
「控えなさい、春日。私は御台所に言っているのです」
大声ではないのだが冷たく押さえつけるような口調だった。春日局が顔を強張らせてノロノロと腰を下ろすと毬がそそくさと席を立った。怖いわ、人を支配する事に慣れている声だ。こんな母親は持ちたくない。義輝は母親を無視しているんじゃなくて逃げているんじゃないかと思った。慶寿院がまたジッと俺を見た。
「公方に侍従殿の思うところを話しては貰えませぬか?」
「……麿は足利は好みませぬ。公方も」
「分かっています。……この室町第には公方に厳しい事をいう者がおりませぬ。兄や関白殿下が言っても公方はそれを真摯に受け止めようとしませぬ」
春日局は大人しく座っている。面白くない話の筈だが大人しくしているという事は余程に慶寿院が怖いのだと思った。
「公方に現実を見せろと?」
「そうです。兄に聞きました。侍従殿は決して楽観視していない。自分達よりも遥かに厳しく見ている。長尾の上洛は我らが思うよりも難しいのかもしれぬと」
空気が重いな。この重さは慶寿院の義輝への想いの強さだと思った。しかし現実を見せろか……。そんな簡単な事じゃないんだが……。
「……人は現実を見るのでは有りませぬ。見たいと思う現実を見るのでおじゃります」
「……」
無言、反応無し、やり辛いわ。
「例えば、ここに一輪の花がおじゃります。これを美しいと見るか、一輪しかなく寂しいと見るかはその人次第。麿がどれほど厳しい事を言っても本人がその厳しさから眼を背ければ意味はおじゃりますまい」
忠告を無視して滅びる奴なんて幾らでもいる。そいつらには忠告者の見えたリスクが見えなかったのだ。そして願望だけに眼を向けた。美しく華やかな願望だけに……。
「失礼致しまする」
声と共に襖が開いて義輝が入って来た。その後ろから毬が、更にその後ろから男が入って来た。誰だ? 慶寿院の表情が厳しくなった。
「美作守、そなたは呼んでおりませぬ。下がりなさい」
美作守と呼ばれた男が立ち止まった。義輝が“母上”と言うと慶寿院が厳しい眼で義輝を睨んだ。
「公方様、美作守に下がる様に貴方様から命じてください」
「……美作守、ここは良い。下がっておれ」
「はっ」
義輝の愛妾、小侍従の父親が進士美作守晴舎だったな。婿が心配か? 美作守にとっては近衛家出身の正妻と母親は敵なのだろうな。義輝が弱いから皆が義輝を心配している。自分こそが義輝の事を一番思っていると思うのだ。その事が勢力争いになっている。
美作守が立ち去り義輝が座り毬が座った。空気が重いわ。
「侍従殿、貴方の見る現実を公方にも見せてください」
幕府は滅ぶと思った。俺に頼むという事は幕府内部には義輝に現実を見せる人間が居ないという事だ。本当の意味で義輝を、幕府を思う人間が居なくなっている……。
「……公方、長尾の関東制圧も間近とお喜びと慶寿院様より伺いました。慶寿院様はその事を案じておられる。麿にそう簡単にはいかぬと諭して欲しいと頼まれました」
義輝の顔が歪んだ。面白くないのだ。
「如何なされます? 聞きたくない、聞く必要は無いとお考えなら席を立たれませ。麿は少しも構いませぬ。麿も貴方様のため、幕府のために無駄な時間など使いたくはおじゃりませぬ」
「……いや、聞こう」
「分かりました。ならばお話し致しましょう。ですがその前に……」
席を立って襖を開けた。美作守が控えていた。狼狽している。慶寿院の表情が厳しくなった。
「そこな春日局殿といい、室町第では盗み聞きが流行っているようでおじゃりますな」
「……」
「それもこれも公方、貴方様が弱いからでおじゃります」
「何を言う」
不満そうだな、だがお前には不満に思う資格は無い。
「貴方様が強ければ誰も心配など致しませぬ。麿と御台所が話をしても、貴方様が慶寿院様に呼ばれても不安に等思いますまい。慶寿院様が貴方様を案じるのもそれ故の事、違いますかな?」
「……」
「貴方様は弱い、頼り無いのです。だから室町第は混乱するのです。それが現実でおじゃります。その事を先ずは自覚なされた方が良い」
義輝の顔が歪んだ。
「美作守殿、お入りなされ」
美作守が驚いたように俺を見ている。
「この室町第には思慮の足りぬ愚か者が多い。後々何を話したかと変に邪推されては迷惑でおじゃります」
嗤うと美作守が顔を強張らせた。侮辱されたと思ったか? だがな、それが事実だろう。糸千代丸は俺を殺そうとしたのだ。
早く入れと促すと美作守がノロノロと中に入って座った。襖は閉めなかった。隠さねばならない事等何もない。
「長尾の関東制圧、上洛はもう成ったも同然とお考えのようですが麿は難しいと思います」
「そんな事は無い。予は上杉に数々の許しを与えた。関東では多くの者がそれに驚き太刀を献上する者も居ると聞く。そうであろう、美作守」
「その通りにございます」
義輝も美作守も自信満々だな。
数々の許しか、俗にいう上杉の七免許だ。白傘袋、毛氈鞍覆、裏書御免、塗輿御免、菊桐の紋章、朱塗柄の傘、屋形号。このうち白傘袋と毛氈鞍覆は長尾景虎を越後守護に認めた時に許したものだから十年ほど前に与えたものだ。今回の上洛で与えたのが裏書御免、塗輿御免、桐の紋章、朱塗柄の傘、屋形号。それに関東管領上杉憲政の進退を任せる事、つまり上杉家の家督と関東管領職を継ぐ事を認めた事と信濃国の諸将に対し意見を加えるべしという信濃出兵の名分を与えた事だ。
裏書御免と言うのは書状を包む封紙の裏側に記す官職名や名字を省略出来る事でこいつは三管領・相伴衆、足利一族のみに許された特権だ。塗輿御免は、網代輿に乗る資格で、これも同レベルの特権。桐の紋章も足利家が天皇より貰った紋だからそれを与えるのは特別な大名だけだ。そして朱塗柄の傘、こいつも武勇に優れた大名にだけ許されるもの、屋形号も幕府が信頼する大名に与えるもの、まあ権威と待遇の大盤振る舞いだな。関東管領というよりも関東公方に匹敵する扱いだろう。
しかしな、その足利の権威その物が揺らいでいるんだ。その事に気付いていない、いや気付いていないとは思えない。そこから眼を背けている。そしてそれ以上に義輝と幕臣達には見えていない物が有る……。長尾の関東制圧、上洛が上手く行かないのはそれが理由だ。
麒麟は来ないけど羽林は来ました!
思ったよりも文章が書けました。という事でアップします!




