災厄の臭い
永禄二年(1559年) 六月中旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「じゃんけん、ぽん」
良し! 勝った!
「あっち向いてホイ!」
右だ! ゲッ、この親父、天井を向きやがった。
「じゃんけん、ぽん」
負けた! どっちだ?
「あっち向いて……」
右? 左? えい、下だ!
「ホイ!」
「ほほほほほほ、麿の勝ちでおじゃるのう」
「……負けました」
「ほほほほほほ、そろそろ下を向く頃だと思った。侍従はなかなか手強い。楽しめましたぞ」
満足そうに笑っているのは関白殿下の父、太閤近衛稙家だ。この親父、強い! 俺も弱くはないんだが十回やって二勝八敗、圧倒的に負けた。もしかすると山科の大叔父よりも強いかもしれない。一度二人が戦う所を見てみたいものだ。宮中最強決定戦とか命名して大体的にやったら受けそうだな。
一息入れようという事になって太閤が侍女に白湯を用意させた。美味いわ、興奮したからな、喉が渇いた。関白殿下に太閤殿下の相談相手になってくれと言われてから今日で会うのは四回目だ。最初は気が進まなかった。何と言っても相手はバリバリの親足利だからな。俺に好意を持っているわけがない。そう思ったんだけどこの親父さん、面白いんだよ。
これまで四回、生臭い話はそれほど出ていない。良く朽木に滞在中の事を話すんだが安曇川で釣りをしたとか温泉に入ったとか楽しい話ばかりで如何見ても亡命生活をエンジョイしてきた。いやエンジョイし過ぎて来たとしか思えない。俺は朽木に居る頃は幼かったから安曇川で釣りも温泉にも入っていない。羨ましい話だよ。今度一緒に行くか、なんて話もしている。勿論、亡命じゃなく遊びでだ。
まあこちらの警戒心を解そうとしているんだと思う。今日も訪問するなりあっち向いてホイをやろうと言い出したからな。俺みたいな子供にそういう気遣いをしてくれるんだから嫌いにはなれない。関白殿下と三人で話す事もあるが政治情勢の他にも鷹狩、馬術、剣術の他に有職故実の事とか話題が豊富だ。特に有職故実、これが勉強になるんだ。さすが近衛家だなと思う。
「ところで、侍従が三好筑前守と会うと聞いたが真かな?」
「良くご存じでおじゃりますな。松永弾正殿から筑前守殿が麿に会いたがっていると聞きましたので会う事に致しました。三日後にございます」
“ほう、左様か”と太閤殿下が頷いた。ふむ、ようやくこっちの話になったか。
「良くご存じでと言うがなかなかの評判じゃ。京で知らぬ者は居らぬのではおじゃらぬかの。おそらくは箔付でおじゃろうが」
「はて、箔付でおじゃりますか?」
太閤殿下が笑い出した。
「侍従は宮中の実力者でおじゃるからの、次期三好家の当主がその実力者と親しいとなれば家中での評価も上がろうというもの。そうでおじゃろう」
「……」
「おそらくは修理大夫は筑前守にそろそろ家督を譲ろうと考えているのではないかと思う。そのためにもという事でおじゃろう」
「……なるほど」
言ってる事は分かるんだが俺が宮中の実力者っていうのがピンとこないわ。
「殿下は筑前守殿に会った事はおじゃりますか」
殿下が首を横に振った。
「いや、おじゃらぬ。修理大夫の自慢の息子とは聞いている」
「麿もそのように聞いておじゃります」
三好筑前守義長、三好修理大夫長慶の嫡男だ。つまり三好家の跡取り息子なんだが父親の修理大夫に劣らず智勇に優れた人物と将来を嘱望されている。三好家も将来は明るいと……。
「どのような人物か、後で教えてくれぬかな、侍従」
「それは構いませぬがやはり御気になりますか?」
問い掛けると太閤殿下が頷いた。
「いずれは三好家を率いるのじゃ、その為人は知っておきたい」
「分かりました」
まあ、無駄になる可能性が高いがな。三好家を継ぐのは修理大夫の実子じゃない、養子の義継だ。つまり筑前守義長はここ四、五年の内に死ぬ筈だ。もっとも歴史が変わる可能性も有る。無駄になる可能性は高いが無駄とは言い切れない。
「弾正は関白の事を何か言っていなかったかな?」
心配そうな表情だ。本当に知りたいのはこちらかな。
「関東下向の件が話題になりましたが余り気にしていないようでおじゃります」
「ふむ、三好は上手く行かぬと見ておるか」
「はい、そのようで」
太閤殿下が頷いた。余り落胆は無いな。まあ関白殿下も簡単ではないと分かっていた。太閤殿下も認識は同じなのだろう。
「関東が治まれば、そこから先は一息なのじゃが……」
「……」
太閤殿下が此方を見て軽く笑った。
「麿の娘が朝倉に嫁いでおる。加賀の一向一揆がおじゃるからの、単独では動くまいが関東を制した上杉が動けば朝倉も動く筈じゃ、さすれば浅井、六角、畠山も動く……」
壮大な話だな。あれ? 朝倉って細川晴元の娘を娶ってなかったっけ。御爺の文にそんな事が書いてあったと思ったが……。確認すると晴元の娘は女児を生んだ後、死んだらしい。その後添えに嫁いだのが太閤殿下の娘なのだそうだ。
なるほどなあ、幕府から見れば朝倉は親足利の有力大名か。義輝が頼りにする筈だな。関白殿下が関東に下向しようと考えるのも関東を制すれば後は難しくないと考えているからだろう。それに上洛軍に自分が居た方が朝倉を動かし易いと考えたのだ。しかしなあ、関東制圧は簡単じゃない。
「関東制圧は簡単ではおじゃりませぬぞ」
「分かっておる。関白は上杉が関東を制する可能性を十の内二か三で有ろうと言っていた。自分が協力する事で三か四まで上げたいとな」
成功率は三十~四十パーセントか。少し高いかな? いや、そんなところだろう。史実では失敗した。だが良いところまで行ったのも事実なのだ。
「それと、朝倉でおじゃりますが頼りにはなりませぬ」
「……」
「朝倉宗滴存命中の朝倉は確かに強大でありましたが宗滴死後の朝倉は全く振るいませぬ。かつての朝倉を基準に考えてはなりませぬ」
殿下が“なるほど”と言って頷いた。頼りにならない味方って本当に厄介なんだよ。気遣いだけが必要で役に立たない。疲れるだけだ。
「あら、お客様ですの」
声が聞こえた。部屋の入口に若い女性が居る。太閤が“また来たのか”と言った。口調が苦い。でも女は気にする様子も無く部屋に入って来て座った。興味深そうに俺を見ている。年の頃は十六から十七、目鼻立ちのはっきりした中々の美人だ。印象的なのは眼だな。活力に溢れている。太閤が溜息を吐いた。
「娘の毬じゃ、公方の許に嫁がせた」
ゲッ、義輝の正室かよ。世間一般には御台所と尊称される女性だ。
「飛鳥井基綱におじゃります」
名を名乗ると相手は“ウフフ”と笑った。また太閤が溜息を吐いた。正直怯んだ。危なそうな匂いがプンプンする女だ。
「悪侍従って言われているからどんな殿方かと思ったけど結構可愛いのね」
はあ? 可愛い?
「本当に糸千代丸を打ちのめしたの?」
覗き込んでくる毬を太閤殿下が“毬”と窘めた。でもね、効果無いんだ。相手は太閤を無視してこっちを見ている。
「けじめを付けただけでおじゃります」
毬が“ふーん”と言った。
「けじめなんて公家らしくないのね」
「好い加減にせぬか、毬! 済まぬのう、侍従。不愉快であろう」
「いえ、そのような事は……」
不愉快じゃないんだよ。でも厄介では有るな。
「公方に嫁がせたのでおじゃるが三日と空けずに帰って来る」
え、そうなの? 毬の顔を見ると“ウフ”と笑った。慌てて顔を背けた。
「少しは御台所として自覚を持たぬか」
「詰まらないんですもの」
あっけらかんとしている。思わず太閤を見た。苦りきった表情だ。毬が俺を見た。
「私ね、強い殿方が好きなの」
「……公方は新当流を学んで相当の腕前と聞きますが」
毬が首を横に振った。
「そういう強さじゃないわ。私が言っているのは心よ」
「……」
太閤は困った様な顔をしている。
「公方様は心の弱い人よ。何時も誰かに頼っているわ。そして誰かに慰められている」
軽蔑する様な口調だ。実際軽蔑しているのかもしれない。太閤が何か言おうとしかけて止めた。
「そういう殿方が好きだという女【ひと】も居るわ。春日局とか小侍従とか。まるで二人とも母親よ。でも私は御免だわ」
一人は乳母で一人は側室か。義輝が嘆き二人が慰める。眼に浮かぶな。
「だからと言って室町第を抜け出して良いという事にはなるまい。公方の心が弱いと思うならそなたが支えてはどうだ」
「公方様も私が居ない方が気が楽そうなの。私が実家に帰ると言っても誰も止めないもの。私と慶寿院様は煙たいらしいわ」
太閤が表情を曇らせた。政略結婚で嫁がせたが上手く行かない夫婦を作ってしまった。何処かで娘に詫びる気持ちが有るのかもしれない。しかしなあ、誰も止めないって拙いだろう。誰かが止めるべきなのに……。
「春日局が恨んでいるわよ、侍従殿の事を」
毬が面白そうな表情でこちらを見ている。
「日野家の所領が削られた事なら帝の思召しでおじゃります。麿は関係ありませぬ」
毬が“ウフフ”と笑った。頼むから笑うな、寒気がする。
「残念だけど誰もそう思ってはいないわ。侍従殿が帝に働きかけたと思っている」
自業自得だろう、馬鹿共が。俺のせいにするんじゃない。逆恨みも甚だしいわ。
「ねえ、今度室町第に遊びにいらっしゃいよ」
はあ? と思った。恨まれてるって言ったのは誰だ? なんで眼をキラキラさせている?
「麿が行っても誰も歓びませぬ」
「その通りだ。それに君子危うきに近寄らずとも言う」
太閤の言う通りだ。あの連中は信用出来ない。
「そんな事は無いわ。私と慶寿院様は歓迎するわよ。それに侍従殿には何も出来ないわ。次に何か有れば将軍職を解任されかねないもの」
妙な事を言う。太閤の顔を見たが太閤は訝しげな表情をしている。
「知ってるのよ、私。以前そういう話が有ったのでしょう?」
太閤をもう一度見ると首を横に振った。
「麿もその話は関白から聞いたが毬には話しておらぬ。毬、誰から聞いた?」
毬がちょっと困惑を見せた。
「誰って……、松永弾正よ。私の所に御機嫌伺いに来たの。この話は侍従殿も知ってるって……」
太閤と顔を見合わせた。太閤は深刻な表情をしている。同感だ、厄介な事になったかもしれない。
「それは何時の事でしょう?」
問い掛けると“あれは”と宙を見た。
「侍従殿が糸千代丸を打ちのめした後よ」
「三好修理大夫が幕臣から人質を取る前でおじゃりますか? それとも後?」
「後よ、うん、後」
「毬、公方には話したのか?」
「話したわ。幕臣達の前でね。皆真っ青になっていた。初耳だったみたいね」
多分、いい気味だとでも思ったんだろうな。
「いけなかった?」
恐る恐るといった感じで俺と太閤を見ている。溜息が出そうだ。太閤は溜息を吐いた。
「如何思う、侍従」
「それに答える前に今一つ御台所に伺いたい事がございます。人質を取られた後、公方と幕臣達は三好を討つと言っておられましたか?」
「言っていたわ。私の前では言わないけれど分かるのよ、そういうのって」
不愉快そうだな。ふむ、多分彼女が公方の部屋に行くと急に話を止めるとかわざとらしく笑うとか有るのだろう。もしかすると顔を背けられるのかもしれない。
「脅しでおじゃりましょうな」
太閤が頷いた。
「そうでおじゃろうの」
人質を取った以上、そう簡単に反三好運動なんて出来ない筈だ。だが義輝にはその辺りの認識が希薄なのだろう。反三好の言葉を吐き幕臣達は出来ないと分かっていてそれに迎合した。要するに遊びなのだ。
だが三好修理大夫にとっては面白くなかったのだろう。京に戻してやったのにふざけるな、朝廷の信任は足利では無く三好に有る。その辺りを義輝と幕臣達に思い知らせようとした。そんなところの筈だ。その事を言うと太閤が大きく頷いた。
「麿もそう思う。楠木の一件もそれでおじゃろう。では毬を使ったのは何故でおじゃろうな」
太閤がジッと俺を見た。おいおい、俺を試す気か。いや、計ろうとしているのか……。
「公方と御台所の不仲を知った上での事でおじゃりましょうな」
太閤がウンウンと頷いた。
「毬が公方に話すと思ったか」
「時期は分かりませぬが何時かは話すと思った筈。それもその時だけでは無く何度か話すのではないかと思ったのでおじゃりましょう。三好の者では無く近衛家から迎えた御台所が公方を脅す。警告としては十分でおじゃりましょう」
「そうじゃの」
「公方も幕臣達も面白くありますまい。そしてそれが理由で公方と御台所の仲がさらに悪化すれば足利と近衛の関係にも影響が出る、その辺りが狙いやもしれませぬ」
太閤が頷いた。毬は顔を強張らせている。
「関白の越後下向、三好は気にしていないように見えたがそうでもないのかもしれぬな」
太閤が呟いた。そうかもしれない。少なくとも面白くは思っていないのは事実だろう。
「毬よ、余り思慮の無い事をしてはならぬ。そなたはもう御台所と呼ばれる立場なのじゃ」
「何もせず大人しくしていろと?」
不満そうだな。口を尖らせている。
「そなただけの問題では無いのでおじゃるぞ」
駄目だな、不満そうな色は消えない。余程に義輝に対して、いや今の自分の立場に不満が有る。足利と近衛を結び付けるどころか地雷みたいな存在だ。
「太閤殿下、抑え付けるのが得策とは思えませぬが?」
「しかし」
「不満が溜まり過ぎれば抑えが利かなくなりましょう。そうなっては却って危険ではおじゃりませぬか」
太閤が渋い表情で“うむ”と頷いた。別に義輝に味方するわけじゃないが京で騒乱は困る。
「三好が公方の動向を気にしていると分かった以上、御台所には公方と幕臣達の動きに行き過ぎた部分が有った時は抑えて貰った方がよろしいのではおじゃりませぬか」
「しかしのう、毬にそれが出来るか……」
「出来るわよ」
毬が自信満々で答えたが太閤は顔を顰めた。信用が無いな、まあ俺も難しいと思う。如何見てもこの女はトラブルメーカーだ。この女に比べれば春齢なんて素直で可愛い女にしか見えない。
「他にも抑え役が要りますな。誰かが公方と御台所を抑える……」
毬が必要無いと文句を言ったが太閤は溜息を吐いた。
「そうでおじゃるの、……慶寿院に頼むしかないか」
まあ妥当な線だな。太閤が俺を見た。え、何? 何で笑うの?
「侍従にも抑え役を頼みたい」
「はあ?」
さっき君子危うきに近寄らずって言ったよね? 毬が眼を輝かせた。
「公方と御台所の二人では慶寿院も手に余ろう、そうは思わぬかな?」
「かもしれませんが麿よりも太閤殿下の方が適任ではおじゃりませぬか?」
子供の面倒は親が見るべきだろう。他人を捲き込むなよ。こいつは足利と近衛の問題だ。飛鳥井は関係無い。
「勿論麿も抑え役になる。その上での頼みじゃ」
「それが良いわ! 賛成!」
黙ってろ! このトラブルが! 眼を輝かせて喜ぶんじゃない!
「麿が室町第に行っては却って面倒な事になりかねませぬ。それに足利の為に動くなど御免でおじゃりますな」
太閤が頷いた。
「分かっている。足利の為では無く近衛の為じゃ。公方の前には出ずとも良い。毬の相談相手になって欲しい。麿と関白がそれを頼んだという事にする。公方にも幕臣達にもそう伝えよう。如何かな?」
「しかし」
「麿も既に五十を過ぎ六十に近い。あとどれだけ生きられるか……。関白が越後に下向している間に世を去る事もおじゃろう。関白も毬の事は心配していた。毬をしっかりとした人物に頼みたいのじゃ」
何でそんな縋る様な眼をするかなあ。大体俺は未だ十一歳だよ。トラブルメーカーの御守りとか勘弁して欲しいわ。でも近衛との関係を断つのは面白くない。……義輝の阿呆! お前が役に立たないから俺に負担が掛かる! 打倒三好よりも女房の面倒を見ろ! まあ俺だってこの女に関わるのは嫌だが……。
「月に一度で良ければ……」
「三日に一度よ!」
変な声が聞こえたが無視!
「月に三日では如何かな?」
「……」
「二日じゃ」
「それで良ければ」
太閤が“良し、決まりだ”と満足そうに頷いた。毬は不満そうな顔をしている。お前よりも俺の方が不満だ!
明日、コミカライズ四巻が発売されます。
巻末に収録されたSS『八門』は絶対に読んでほしいです。これを読むと六角家が何故観音寺崩れを引き起こしたかが良く分かると思います。