毒喰わば
永禄二年(1559年) 五月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「それは如何いう事です、侍従殿」
侍従が沈痛な表情を見せている。勝ち過ぎたとはどういう事なのか……。
「高島を滅ぼせば朽木は二万石程の所領を持つ事になりましょう。その兵力は約六百」
六百という言葉が響いた。
「京の直ぐ傍に六百の兵を動かす親足利の領主が居る事になります。しかも勢力を拡大しているのです。半分の兵三百でも三好は朽木を危険視しました。六百となれば三好が如何思うか……」
「……」
先程まで有った喜びは綺麗に消えていた。侍従の不安が分かった。
「それに……」
「それに?」
先を促すと侍従が一つ息を吐いた。
「足利が如何思うか……」
葉月と顔を見合わせた。葉月も深刻な表情をしている。娘の春齢は今一つ理解出来ないのだろう、訝しげな表情をしたままだ。
「今直ぐ止める事は出来ませぬか?」
葉月が首を横に振って“間に合いますまい”と言った。
「麿もそう思います、越中が討ち死にしているとなれば高島勢の混乱は酷い筈、間に合いますまい。それに、止めても止まりますまい」
「そなたが止めてもですか?」
侍従が渋い表情で頷いた。
「高島は朽木にとって憎い敵なのです。前回は朽木が滅びかけました。此処で高島を滅ぼさなければ次は朽木が危ういと皆が思う筈、高島を滅ぼす機会をみすみす逃す事など……」
侍従が首を横に振った。確かに難しいかもしれない。滅びたくなければ滅ぼすしかない。その事は平家が示している。詰まらぬ温情を掛けた事が平家の滅亡に繋がった。
「いや、こうなった以上むしろ高島は滅ぼした方が良いな」
ボソッとした口調だった。侍従は視線を伏せて考えている。娘が“兄様”と声を掛けたが応えない。無言で右手に持った扇子で左の掌をタン、タンと打つ。その風情に娘が怯えた様な表情で私を見たが首を横に振る事で抑えた。十も叩いた後、侍従が大きく息を吐いて“やらねばならぬか”と言った。私達を見た、暗い眼をしている。
「葉月、叔父御の元へ行ってくれ」
「はい」
「清水山城を落としたなら必ず高島一族は皆殺しにせよと伝えて欲しい。女子供、赤子に至るまで。草の根別けても捜し出して殺せ、決して仏心を出すなとな」
「侍従殿!」
「兄様!」
「生き残りが六角を頼れば、六角がそれを利用しようとすれば厄介な事になる」
止めようとした言葉を慌てて飲み込んだ。娘も同様なのだろう、無言だ。
「侍従様は六角がそれを名目に朽木に圧力をかけるとお考えでございますか?」
侍従が“フッ”と笑った。
「高島の後ろには六角が居たのでおじゃろう? となれば生き残った者は必ず六角を頼る。六角にとっては十分過ぎるほどの名目でおじゃろうな」
「……」
「毒喰わば皿までという言葉もある。叔父御は朽木の当主だ、腹を括ってもらおう。そこまでやらねば朽木は守れぬ。付け込む隙を与えてはならぬのだ」
冷たい声だった。乱世を自らの力で生きようとする男の声だと思った。
「これから直ぐに向かいまする」
「明日、誰か一人寄越してくれ。御爺の元に文を届けてもらう」
「分かりました。ではこれにて」
葉月が立ち上がった。送っていくと言って後に続いた。娘は付いて来なかった。多分、侍従にあれこれ聞くのだろう。
「如何思いました?」
「頼もしい限りでございます。勝ち戦でも眼を曇らせる事が無い。それにあの声の冷たさ、心が震えました」
葉月の声が弾んでいた。
「私も心が震えました」
葉月が私を見て嫣然と笑った。分かったのだろうか? あの声で耳元で囁かれてみたいと思ったと。あの冷たい声がどれほど甘美に聞こえるか……。
甥で有り養子であり未来の娘婿でもある。でも成長するにつけ一人の男としても私を惹き付け始めた。あの子なら自分を頼る者を危うい目に遭わせる事はあるまい。安心して頼れるだろう。娘の事を思うとホッとすると同時に妬ましくもなる。
「眼が離せませぬなあ、先が楽しみにございます」
葉月が“ほほほほほほ”と笑った。私も笑った。あの子には戦の才も有る。帝にもお伝えしなければ……。それに眼が離せない。楽しみだ。
永禄二年(1559年) 五月上旬 近江高島郡朽木谷 朽木城 朽木惟綱
兄が京からの文を読んでいる。表情が厳しい。読み終わると大きく息を吐いた。
「侍従様からは何と?」
「長門守に清水山城を落としたら高島一族は皆殺しにするようにと伝えたそうじゃ」
「皆殺しでございますか?」
驚いて問うと兄が頷いた。暗い眼で私を見ている。
「六角に利用されぬように禍根を絶てという事よ」
「なるほど」
「高島は宮内少輔の仇じゃ。今回の戦は不当にも高島が攻めて来た。朽木は宮内少輔の仇を討ったという事で終わらせねばならぬ。さすれば六角も口を挟めぬ。そのためにな、……殺さねばならぬ」
「……乱世とはいえ、惨い事でございますな」
兄が頷いた。
「朽木と高島だけの戦なら見逃す事も出来ようが裏に六角が居る、やらざるを得ぬ」
「……六角は如何動きましょう」
兄が“分らぬの”と言って首を傾げた。
「予想外の結末じゃ、六角も迷うのではないかの」
となると益々逃す事は出来ぬな。六角に縋られてはならぬ。殺さねばなるまい。その事を言うと兄が頷いた。
「侍従が早急に居を清水山城に移せと言ってきた」
「清水山城に? はて?」
「京から少しでも離れろという事よ」
兄がじっとこちらを見ている。
「危険という事でございますか」
「そうであろうの、幕府は朽木を利用しようとし三好は朽木を危険視しよう。清水山城に移れば安全というわけではあるまいが此処に居るよりは三好を刺激するまい。そう考えているようじゃ」
臆病と笑う事は出来ぬ。領地が増えたといっても精々二万石なのだ。三好とはとてもではないが戦えぬ。細心の用心が要る。
「厄介でございますな、幕府は以前にも増して朽木を頼りましょう」
兄が沈痛な表情をしている。公方様に献じた千五百貫の事を考えているのかもしれない。
「当分戦は出来ぬ。此度の戦で高島勢を大分殺した。高島領から兵を徴するのは難しいだろう。無理に集めれば百姓が逃げかねぬ。公方様にはそれを伝え自重して頂く事になろう」
「それも侍従様が?」
兄が“うむ”と頷いた。
「高島郡も厄介じゃ。これまで高島七頭は同程度の勢力で有ったが高島が滅んで朽木が頭一つ抜け出した。残りの五頭、平井、永田、横山、田中、山崎がそれを如何思うか……」
「朽木を危険視しましょうな。六角を頼るか、五頭が纏まって朽木に対抗しようとするか、そんなところでしょう」
兄が渋い表情で頷いた。
「そうであろうの。侍従は当分は辞を低くして親睦を深めろと言っておる。清水山城に移れと言うのはそれも考えての事であろう。ここに居るよりも五頭の動きが分かる筈じゃ」
なるほど、清水山城に移れというのは高島五頭の問題も有るからか。
「もし、高島五頭が戦を仕掛けてきたら如何なされます」
「……」
「高島から兵を徴せぬとなれば兵が足りませぬ、到底戦えませぬぞ」
兄が一つ息を吐いた。
「その時は銭で兵を雇えとの事じゃ」
「銭で!」
思わず声が高くなった。兄が顔を顰めた。慌てて“申し訳ありませぬ”と謝罪した。しかし銭で兵を雇う?
「朽木の百姓兵と銭で雇った兵で凌ぐ。そして新たに得た領地を朽木同様に発展させる。澄み酒、綿糸、石鹸、歯磨き、清水山でも椎茸を作る事に成ろう。それに……」
「それに?」
「関を廃する」
「関を?」
問い返すと兄が頷いた。
「高島の領地を得た事で安曇川を使って淡海乃海に荷を運び易くなった。関を廃すれば商人が今以上に集まろう。その分だけ銭を得易くなる。兵も雇い易くなるという事よ」
思わず溜息を吐くと兄が笑い声を上げた。
「関を廃す、銭で兵を雇う、妙な事を考えるわ。だが間違いなく効果は有る」
「左様でございますな。何より今を凌げましょう」
兄が“うむ”と頷いた。
「いずれは朽木の兵は全てを銭で雇った兵にせよと文には書いてあった。費えは掛かるが一年何時でも戦えるし百姓を集める手間もかからぬ。その分だけ動きは速い、敵の機先を制する事が出来るとな」
「なるほど」
兄が私を見てにやりと笑った。
「危機では有るが克服すれば朽木は大きくなれよう」
「左様でございますな」
「見てみたいの」
「と申されますと?」
「銭で雇った朽木の兵が高島五頭を攻め潰すところよ。清水山城に移れというのはそのためでもあろう。あっという間じゃぞ、平井、永田、横山、田中、山崎、兵が集まらぬうちに攻め潰せよう」
「その日が来ましょうか?」
兄がまたにやりと笑った。
「先の事は分からぬからな。宮内少輔を失った九年前には朽木が高島を喰う日が来るとは思わなかった。だがその日が来た」
「……」
「蔵人よ、またその日が来る。それを信じて準備をしようではないか」
「先ずは引っ越しでございますな」
「うむ」
次にその日が来るのは何時になるのか? 十年、いや十五年後か。その日が来る、それを信じて生きなければなるまい。
永禄二年(1559年) 五月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「まさか高島を滅ぼすとはの」
兄が首を横に振っている。
「驚かれましたか?」
「驚いたわ。朽木はこれで二万石か」
「はい」
兄がフーッと息を吐いた。兄に高島一族皆殺しの件、清水山城への移転の件を話すと首を横に振った。
「公方は大分喜んでいると聞いているが……」
「朽木にとっては迷惑しかありませぬ。公方が朽木に期待する程三好の朽木を見る眼は厳しくなります」
「そうでおじゃるの」
高島一族は皆殺しにされた。六月になる前には清水山城へ居を移すと返事も来た。公方は知るまいが今回の戦の勝利で朽木家に対する侍従の影響力は更に強まった。
「戦が出来るどころではないの、斬れ味が良過ぎるわ。三好筑前守が怯えるわけよ」
「帝に全てお伝えしました」
兄が眼を剥いた。
「ただ勝ったなら時期を待ちました。ですがあそこまでとなれば隠してはおけませぬ。勿論、他言は無用にとお願いしております」
「帝は何と?」
「驚いておられました」
帝は頻りと“武家の血か”と呟かれ首を振られた。
「関白殿下は知らぬのだな?」
「知りませぬ、知れば越後へと伴いましょう」
兄が“そうよな”と言った。
「侍従は行きたがらぬか?」
「そのような事は」
首を振って否定すると兄が“無いか”と言った。
「となると殿下の越後下向は上手く行かぬという事かの」
「かもしれませぬ」
三好も殿下の越後下向に余り関心を示さない。殿下の越後下向の目的が関東の兵を率いての上洛に有るという事は三好も知っているだろう。妨害が無いという事は上手く行かないと見ているからに違いない。越後の長尾は甲斐の武田と戦っている。この上関東の北条と戦って関東を制する事等無理だと見ているのだ。
「侍従が今関心を示しているのは尾張です」
「尾張?」
兄が訝しげな声を出した。
「はい、尾張の織田弾正忠信長。先日、籠城している敵を滅ぼしたのだとか。侍従が祝いの文を出しておりました」
兄が“ほう”と声を上げた。
「織田弾正忠信長か、……そう言えば父上が山科権中納言殿を伴って尾張に行かれた事が有る。三十年程前になるかの。その時訪ねたのが織田備後守信秀じゃ。随分と朝廷に献金してくれたが亡くなってもうそろそろ十年になる」
「覚えております」
「弾正忠はその息子であろう、ウツケで有名であった。到底家を保てまいと言われていたが……」
兄が感慨深そうに言った。
ウツケか……。侍従が関心を持っているとなるとただのウツケとも思えない。それに十年もこの乱世で生きている。織田弾正忠信長、一体どんな男なのか……。
お久しぶりです、イスラーフィールです。
御報せが有ります。本日5/2の読売新聞の朝刊に淡海乃海の広告が掲載されました。多くの人に見ていただければと思っています。
事前に告知出来れば良かったのですけどね、掲載されるとは聞いていたのですけど何時というのは分かりませんでした。今日掲載されたと聞きましたので用意していた『毒喰わば』の更新に合わせて御報せします。
次の更新は出来れば連休中に行いたいと考えています。今、八巻用の原稿作成で忙しいのですが何とか頑張りたいと思います。




