大勝利
永禄二年(1559年) 四月下旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「関東へ下向されると」
「うむ。越後の長尾が上洛したのは知っていよう」
「はい、存じております」
謙信の二度目の上洛だ。ここ最近上洛する大名が多い。信長、謙信の他に美濃の斎藤義龍が上洛した。義龍は相伴衆に任じられているから信長よりも高く評価された事になる。三好側に付いたからな、引き戻そうと義輝も必死だ。もしかすると信長への評価が低かったのは美濃の義龍を刺激したくないという考えが有ったのかもしれない。
大名が御機嫌伺に来て義輝は大喜びだろうな。そんな話がチラホラ入ってくる。しかしな、俺の見るところ大名が続けざまに上洛したのはそれなりに理由があると見るべきだ。学説の中にも家格を上げるという目的もあるのだろうが幕府と三好の関係が如何いうものなのかを探ろうとしたという説もある。俺もそう思う。足利の体制がどの程度堅固でどの程度揺らいでいるかを確認したんじゃないかと思っている。そして自分がこの先どう動くべきなのかを考えた……。
「此度越後の長尾弾正少弼に山内上杉の家督と関東管領職が許される事になった。弾正は越後から関東に攻め込む。関東を平定しその兵力を以て上洛し天下に安寧を齎したいと考えておる。良い男よな。麿もそれに力を貸したい」
顔が上気しているし声が弾んでいる。なるほどなあ、謙信の男気に心を打たれたか。
もっとも男気だけじゃないぞ。長尾家は下剋上の家だ。そして謙信は末っ子だった。実力で越後を統一したんだがその分だけ国内の謙信に対する反発は強い。収まりが悪いんだ。そのせいで大分苦労している。家出もしたくらいだ。上杉家の家督相続と関東管領就任は国内を纏めるためだと思う。足利体制の権威を利用する事で自分の権威を高めようとしたのだ。つまり謙信は足利を支える事を選択した……。
「公方もそれを御存じなのでおじゃりますな」
「うむ、むしろ望んでいると言ってよい」
「左様でおじゃりましょうな」
三好を追っ払ってくれるのなら義輝は誰でも良いだろう。それこそ悪魔だって歓迎するに違いない。世の中が地獄になろうとな。
「殿下は関白の座に有りますが?」
殿下が視線を伏せた。
「分かっておる。本来なら帝の御側にいて帝をお助けするのが麿の役目。だがのう、京に居て大名達に助けを求めるだけではいかぬと思うのじゃ。それでは弱いままよ。麿自ら越後に赴き弾正を助ける。共に戦場にも出る。さすれば関白が弾正を助けている。弾正とはそれ程の男なのだと皆も理解しよう。少しでも助けたいのじゃ、そうする事で朝廷が無力ではないと皆に知らしめたいのじゃ」
まあそうだな。官位を与えるだけの存在と思われるよりは良い。しかしねえ、武家を助ける関白に酔っていませんか?
「関東の北条、甲斐の武田、簡単な相手ではおじゃりませぬぞ。関東の平定は容易では有りますまい」
「分かっておる。さればこそじゃ。麿も力を貸したいと思うのじゃ。侍従は反対か?」
「そうは申しませぬ。ですが殿下は足利の世に見切りをつけておいでなのかと思っておりました」
殿下が寂しそうな笑みを浮かべた。
「そなた、公方は武家の棟梁の器ではないと叔母に言ったそうじゃな」
「はい」
俺が正直に答えると殿下も頷かれた。
「麿も同じ思いじゃ。公方は武家の棟梁としては心が弱過ぎよう。不安定に過ぎる。だからこそ、傍には強く親身に公方を助ける人物が要ると思うのじゃ。その役目は三好修理大夫では無理でおじゃろう。互いに反発し天下は治まらぬ。そなたの言うた通りよ」
「だが弾正なら、そう思ったのじゃ。あの男、この乱世には珍しいほどに義理堅い人物よ。あの男なら公方と上手く行くかもしれぬ。天下を安寧に導く事が出来るかもしれぬ。そう思ったのじゃ」
もしかすると慶寿院に頼まれたかな? しかしなあ、それじゃ足利将軍の傀儡化、弱体化は進む一方だぞ。
「殿下のお考え、良く分かりました」
「そうか、分かってくれるか」
殿下が嬉しそうに笑った。分かったけど同意はしないよ。謙信による関東制圧は上手くいかない。足利の権威は地方でも崩れつつあるんだ。その現実を自分の眼で認識出来るだろう。それは無駄じゃない。
「侍従、協力して貰えぬかな?」
「協力でおじゃりますか?」
まさか俺にも関東へ行こうと言うんじゃないだろうな。それは無理だぞ。朽木と高島の戦がもう直ぐ始まる。高島越中は御爺が病気だと知って逸っているらしい。田植え前に兵を動かそうとしている。そろそろ御爺が死んだという噂が流れる筈だ。
「麿からも関東の情勢を伝える故京の情勢を逐一知らせて欲しいのじゃ」
「そのような事なれば易き事にございます」
ホッとしたよ。そんな事ならお安い御用だ。来年には桶狭間が起きる。東海地方の勢力図が変わるんだ。となれば関東から東海まで大きく動く。殿下も自らの眼で世の中の動きを見る事が出来るだろう。殿下の嬉しそうな顔を見ながら思った。
「それと父の相談相手になって欲しい」
「太閤殿下の?」
殿下が頷いた。
「そなたに会いたがっているのじゃ」
「分かりました」
気乗りしないな。殿下の父、近衛稙家はバリバリの親足利なんだ。俺と合うとは思えん。
「ところで松永弾正からの要請には如何答えましょう」
「そうよな。越後に行く前にそれを片付けねばなるまい」
殿下が渋い表情をした。そう、俺に厄介事ばかり押付けずに宿題は片付けてから行こうね。
松永弾正久秀の家臣に大饗長左衛門正虎という人物が居る。世尊寺流の書家で結構有名らしいのだがこの人物、実は楠木正成の末裔らしい。楠木正成の孫楠木正秀の子、つまり正成の曾孫が大饗正盛で大饗長左衛門正虎の先祖だという。なんで大饗の姓を名乗ったかだが楠木ってのは南朝の忠臣で北朝から見れば朝敵でしかない。しかも朝敵のままで許されていないんだよ。そして足利にとっても憎い敵だ。なんたって七回生まれ変わっても足利を討つと誓った一族だ。許せるわけがない。そんなわけで正盛以降の楠木氏は楠木の姓を憚って大饗を名乗った訳だ。
ところがだ。近年になって状況が変わって来た。天下の第一人者である三好は足利と敵対しているし三好氏自体、南朝方として活動した経歴を持つ。長左衛門はもしかしたら帝に頼んで楠木氏を許してくれるんじゃないかと考えた。そして主君の松永弾正に頼んだ。弾正は当然主君の三好修理大夫長慶に相談しただろう。修理大夫は良いよ、頼んでみたらと言った訳だ。そして弾正は正式に楠木氏の勅免を願い出た。
修理大夫と弾正の行動を何時までも昔の事に拘るべきじゃないと思ったからと取るのは間違いだ。楠木は朝敵なのだ。つまり帝の敵だ。そして征夷大将軍は朝敵を討つのが仕事だ。要するに足利は帝を守り朝敵を討つ存在なのだ。足利にとっては楠木を許すなどとんでもない事だろう。自分の存在意義を揺るがしかねない事態だ。修理大夫と弾正の狙いはそこだと思う。三好のとりなしで楠木を許す事で足利の存在意義を揺るがそうというのだろう。そして三好には朝敵を許させるだけの影響力が有るのだと示そうとしている。戦だけが戦争じゃないんだよ。
「帝は許しても良いとお考えのようだ」
「左様でおじゃりますか」
まあそうだろうな、帝の足利への不信は相当に酷い。ついでに言えば現状では楠木の脅威も南朝の脅威も無い。つまり共通の脅威が無いわけだ。それこそ足利が征夷大将軍である必要性など無いと考えているだろう。それにどこかで楠木を許した筈なんだ。多分此処だと思うんだが……。
「侍従は如何思うか?」
俺? 上の立場の人って直ぐに誰かの意見を聞きたがるんだから。どうせ俺が言ったからそれに賛成しますとか言うんだろうな。
「既に南朝は有りませぬし楠木も恐れる存在ではおじゃりませぬ。それに朝敵とはいえ楠木は節を曲げず最後まで南朝に忠節を尽くした者達にございます。そのような者達を何時までも朝敵に留め置くことは得策とは思えませぬ。これを許し温情を示す事でその心を解し朝廷に忠誠を誓わせる事が上策と思いまする」
殿下が満足そうに頷いた。
「帝もそのようにお考えじゃ。侍従、帝に奏上してもらえませぬか」
「麿がですか?」
「そうです。麿は関東へ下向します。侍従の立場を少しでも良くしなくてはなりませぬ」
立場を良くって官位かな? あんまり興味無いんだけど……。
永禄二年(1559年) 五月上旬 近江国高島郡朽木谷 日置行近
未だ来ない……。二町程坂をなだらかに下がると朽木へと続く道が有る。細く狭い道だ。更に二町程緩やかに坂を上ると新次郎殿が兵を伏せているのが分かった。互いに五十ずつの兵を従え地に伏せている。もう直ぐ、もう直ぐ来る筈だが……。
高島勢は四百を超えるらしい。殿は二百、半分にも及ばぬ。まともには戦えぬ。直ぐに崩れたと見せかけて逃げてくる。問題は高島勢が追ってくるかだ。御隠居様が亡くなられた、朽木は混乱していると噂を流した。この繁忙期に戦を起こしたという事は高島越中は逸っているという事だ。必ず攻め寄せて来る筈だ。
来ない、越中は退いたのか? それとも殿は身動き取れずにいるのか? 心の臓が激しく音を打つ。落ち着け、多少は戦わざるを得ないのだ。余りに簡単に退いては越中も怪しもう。思ったよりも善戦しているのやもしれぬ。隣で倅の左門がもぞもぞと身体を動かした。
「遅いですな」
「声を出すな」
「申し訳ありませぬ」
左門が面目無さそうに謝罪した。
まだまだ経験が足りぬわ。九年間、戦が無かった。そのおかげで朽木領は敗戦の痛手から回復し豊かになった。だが戦を知らぬ者達が増えた。戦場では経験がものを言う。朽木勢にはその点で不安が有る。
「父上」
左門が押し殺した声を出した。来た! 遠目に兵が逃げてくるのが見えた。
「来たようじゃ。儂の命が有るまで伏せておれと伝えよ」
左門が小声で周りの者に伝え始めた。……少しずつ近付いてくる。声も聞こえて来た。あれは朽木勢に間違いない。あの姿は追う姿ではない、逃げる姿よ。殿は? 殿は何処にいる? まだ見えぬ、まさかとは思うが……。落ち着け! 未だ先頭が見えただけではないか! 左門を頼りない等と言えぬわ。
徐々に見えてくる人数が増えて来た。殿は? 居た! 殿を務めておいでか。敵を引き付けようとの事であろうが危うい事をする。後で注意しなければならぬ。越中は? 分らん。だが追ってくる高島勢の姿も見えた。かなりの人数だ。越中が居ないとは思えぬ。上手く行きつつある。此処で思いっきり叩いて越中に朽木恐るべしと思わせねばならぬ。
徐々に近づく、そして朽木勢が眼の前を通っていく。もう少し、もう少しだ。殿が通り過ぎた。高島の先頭が来た。待て! まだ早い。百ほどの兵が通り過ぎるのを待って立ち上がった。
「立て! 射よ! 射るのだ!」
兵達が立ち上がり矢を射始めた。向こう側からも矢を射始めた。五十ずつ、都合百本の矢が高島勢を襲う。忽ち悲鳴が起こり混乱が生まれた。五十人程の高島勢が彼方此方で倒れている。
歓声が上がった。
「父上! やりましたぞ」
「射よ! 射るのだ!」
興奮する左門に答えずに射る様に命じるとまた矢が襲い掛かった! 更に兵が倒れ混乱が大きくなった。道には死体が溢れている。これで先に行った百の高島勢は簡単には戻れぬ。
少し後ろで戸惑っている高島勢を射るように命じた。矢が襲い掛かる、兵が倒れ混乱し、そして逃げ出した。追い打ちの矢が襲う、更に兵が倒れた。先に行った高島勢が戻って来た。死体の溢れた道の前で右往左往している。怯えている。罠に掛かったと知って怯えているのだ。その後ろから殿の率いる朽木勢が喊声を上げて迫った。敵が意を決して歩き出した。死体を踏みながら逃げていく。侍従様、朽木は勝ちましたぞ! お見事な策にござります!
「射よ! 逃がすな!」
矢が高島勢を襲う。敵は足元が悪く速く走れない。身体に何本もの矢を受けて倒れる兵も現れた。多分逃げる事は出来まい、皆殺しになるだろう。
「勝ちましたな、父上。大勝利ですぞ」
左門が声を弾ませた。
「ああ、勝ったな」
問題は越中よ。逃げたか、それとも死んだか……。
永禄二年(1559年) 五月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「勝ったか」
「はい、大勝利にございます。朽木谷に攻め寄せた高島勢は兵の半分を失い退却致しました」
葉月がにこやかに答えると養母が“ホウッ”と息を吐いた。その隣で春齢が“勝った”と嬉しそうに燥いだ。
「そなたはホンに凄い。戦も出来るのですね」
いや、あのね、そんなうっとりした眼で俺を見るのは止めてくれないかな。それは母親が十一歳の息子を見る眼じゃないぞ。危ないだろう。春齢が傍に居るんだから抑えて、ほら、葉月もおかしそうに笑っている。
「隘路に誘い込まれた軍が横腹を突かれて勝った例はおじゃりませぬ。それだけの事にございます。葉月、味方の損害は」
「殆どございませぬ」
「そうか」
上出来だな。兵の半数を失ったというと当分戦は出来ない。朽木は安泰だ。六角左京大夫も当てが外れただろう。
「高島越中も長門守様が自ら討ち取りましてございます」
「……」
「朽木勢は勢いに乗り清水山城に攻め寄せております。今頃は城を落としているやもしれませぬ。おっつけ報せが参りましょう」
春齢が燥ぎ今度は養母も嘆声を上げた。だが俺は喜べない。厄介な事になったかもしれん。追い払うだけで良かったんだ。それなのに……。
「如何なされました?」
葉月が訝し気に問い掛けて来た。養母も訝しんでいる。春齢は俺の顔を覗き込んだ。俺が喜んでいないと分かったらしい。
「拙い事になりました。勝ち過ぎたかもしれませぬ」
三人が“勝ち過ぎた?”と声を発し顔を見合わせた。




