悪侍従
永禄二年(1559年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 慶寿院
侍従が静かに座っています。落ち着いた佇まいです、先程の荒々しい振舞いからは想像出来ませぬ。今年十一歳だと聞きました。真に十一歳なのか。恐ろしい程に怜悧、明哲です。この子ならば後悔などというものはしないのかもしれませぬ。母親から嫌われたと聞きました。嫌われたのではない、その怜悧さ、明哲さを恐れられたのだと思います。養母は溺愛していると聞きますが養母は宮中に居ます。頼もしいと思ったのでしょう。
私が母親だったら侍従を如何思ったか……。義輝には不満、不安を感じつつ愛おしいと思う愚かな母親です。侍従が子共だったら安心しつつも避けたかも……。そう思うと侍従の母親の事を責める気持ちにはなれませぬ。母親にとって息子とは極めて厄介なもののようです。
「侍従殿、これから足利はどうなりましょう」
「……」
「思うところを言ってくれませぬか?」
侍従が沈痛な表情をしました。足利の行く末は暗い、そう思ってるいのでしょう。そして私の事を思って苦しんでいる。甥の言う通りです。情もある、悪くありませぬ。
「傀儡というのは難しいものでおじゃります。余程の大馬鹿か無欲の善人でなければ務まりませぬ。大馬鹿なら自分が傀儡という事に気付きませぬ。無欲の善人ならば自分が傀儡だと気付いても不満には思いますまい。それ以外なら傀儡という立場に我慢出来ず実権を取り返そうと致しましょう」
「……公方様は大馬鹿でも無欲の善人でも有りませぬ」
「そうですな、むしろそのお心は鋭過ぎる御方だと思います。足利と三好の軋轢はこれから強まりましょう」
軋轢が強まる……。つまりこの和睦は長続きしない?
「行きつくところは?」
「……」
「侍従殿」
促すと侍従が大きく息を吐きました。
「筑前守殿が居られる間はこのままの状況が続きましょう。あの方は自分に自信が有る。無茶な事はしますまい。無茶な事をするのは自分に自信のない者でおじゃります」
「筑前守殿が居られる間ですか、それは筑前守殿の死後は危ないと?」
「はい」
筑前守の死後……。侍従は三好家が混乱すると見ているのかもしれません。そこまでいかなくても弱い当主が立つと見ているのか……。
「筑前守殿が御存命の間に足利家の生き方をどうするかを決めるべきかと思いまする」
「傀儡に甘んじるか、武家の棟梁として生きるかという事ですね?」
「はい」
「あの子には大馬鹿になる事も無欲の善人になる事も出来ますまい」
「……麿もそう思います」
無茶な事が起きるという事です。無茶な事とは何でしょう? 戦? それとも……。
「侍従殿、有難うございました。感謝しますよ」
「畏れ入りまする」
侍従がホッとしているのが分かりました。これ以上問われる事を恐れていたのでしょう。
「私は、武家の棟梁の母として、あの子を助けて行こうと思いまする」
「……御武運をお祈り致しまする」
侍従が私の眼をジッと見ながら言いました。御武運、戦が起きるという事でしょう。或いはこれからが戦という事かもしれませぬ。
永禄二年(1559年) 三月上旬 丹波山中 黒野影久
部屋に十人の男と一人の女が集まった。一の組頭、小酒井秀介。二の組頭、正木弥八。三の組頭、村田伝兵衛。四の組頭、石井佐助。五の組頭、瀬川内蔵助。六の組頭、佐々八郎。七の組頭、望月主馬。八の組頭、佐田弥之助。九の組頭、梁田千兵衛。十の組頭、当麻葉月。そして棟梁の俺。この十一人が鞍馬忍者四百名を動かす。もっとも外で忍び働きが出来る者は半分に満たない百五十名程だ。内で集落の維持のために働く者七十名、老人、女子供、修行中の者八十名。そしてここには居らず村の外に有る拠点を維持するために働く者、五十名。行商等を行いながら諸国の情報を得るために動いているもの五十名……。
「尾張では織田弾正忠様が岩倉攻めをなされます。今頃は攻め掛かっておりましょうな」
「儲けたか?」
「はい、たんまりと。弾正忠様は気前の良い御方でございます」
葉月がにこやかに答えると一座から笑い声が上がった。
「して、如何なる」
一座が静まった。皆の視線が葉月に集まった。
「岩倉は籠城を選んだようにございます。なれど……」
「保たぬか」
「保ちますまい。今の時期から戦となれば百姓には負担でしょう。逃げ出す者も出るかもしれませぬ」
皆が頷いた。百姓にとって三月から五月は大事な時期だ。この時期に兵にとられるのは嫌がるだろう。士気も低い筈だ。
「今川は如何か?」
問い掛けると九の組頭、梁田千兵衛が僅かに頭を下げた。
「今川は近年三河への支配を強めております。それに反発した国人達が兵を挙げておりましたが昨年漸くそれを抑えました」
「うむ」
「その国人達が期待したのが織田の支援でござる。知多半島への進出は銭を奪い織田を攻めると同時に三河を安定させるという意味が有りますな。侍従様の申される通り、年内は三河の安定に力を入れましょうが早晩今川は動きましょう」
皆が顔を見合わせている。
「織田対今川か、常道で考えるなら今川の勝ちだが……」
「侍従様は織田が勝つと考えておられる」
「侍従様の策が当たればそうなるかもしれぬ」
「しかし上手く行くか……」
皆が困惑している。そうだな、織田は未だ国内に敵を抱えている状況だ。この状況で織田が勝つと見るのは無理がある。
「棟梁、如何なされます?」
「何をだ」
「織田様に加勢致しますのか?」
葉月が問い掛けてきた。皆の視線が俺に集まった。
「無用だ、侍従様はその必要は無い、そう言ったのであろう」
「はい」
「ならばそれを信じてみようではないか」
一座を見回すと皆が頷いた。
「浅井、六角の動きは如何か? 侍従様は大分気にされていたが」
七の組頭、望月主馬が頷いた。
「明年、浅井の嫡子猿若丸が元服致しまする。六角家の重臣平井加賀守の娘が六角左京大夫の娘として嫁ぐようです。六角、浅井の絆は強まりましょうな」
「そうか」
特に不穏な動きは無い。侍従様は気にしておられたが……。
「それより棟梁、妙な話を聞きましたぞ」
主馬が深刻そうな表情をしている。
「何だ?」
「高島郡で戦が起きるやもしれませぬ」
「……」
「高島と朽木の間がキナ臭うなり申した」
「……詳しく話せ」
永禄二年(1559年) 三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
集中、集中……。手打ちにならないように、腰を下ろして……。
“フン!”という気合と共に斧を振り下ろした。鈍い音がして斧が薪の半ばまで食い込んだ。斧をゆっくりと振り上げると薪も一緒に付いて来た。もう一度振り下ろす! パカーンという音がして薪が割れた。割れた薪を片付け次の薪を用意した。振りかぶって振り下ろす! 今回も薪の真ん中まで食い込んだ。二回目で割れた。なかなか一回で割れるようにはならない。まだまだ力が足りないのだ。振り下ろすスピードも。
公家が薪割なんてして如何するんだと周囲から言われているが斧は木刀よりも重いから腕、肩、背中の筋肉を鍛えるのに向いているのだ。薪割をやっている下男に頼んでやらせてもらっている。下男は仕事が楽になってラッキーと思っているだろう。薪を半分に割った後は鉈で更に細かくする。一日の内大体半刻程はこの作業に当てる。終わる頃には寒いこの時期でもかなりの汗をかく。あと少しで斧で割る作業は終わりだ。
摂津糸千代丸は俺に叩きのめされてからずっと自宅療養中らしい。糸千代丸を診察した医者は最初父親が折檻したと思ったようだ。摂津中務大輔に少し酷いのではないかと文句を言ったのだが事情を聴いた後は御命が有って重畳と言ったらしい。義輝や幕臣も少しやりすぎだと俺を非難したようだがこいつらは慶寿院に叱責されて沈黙した。かなり怒られたようだな。という事であの一件で俺を非難する人間は居ない。
養母は俺が摂津糸千代丸をぶちのめしたと聞いた時には一瞬だけ唖然とし、次の瞬間には俺を見ながら声を上げて笑い出した。あのね、俺殺されかかったんだけど……。何で怒ってくれないの? 心配は? 怒ったのは春齢だった。帝に泣きながら訴えたらしい。当然だが帝も激怒した。従五位下侍従の地位に有り帝の女婿の立場に有る者を殺そうとは何事かというわけだ。日野家の問題もあるしな、日野家等取り潰してしまえ! と怒鳴ったらしい。帝だって父親だ。娘の涙には弱いのだよ。
当然だがこの情報は室町にも届いた。摂津中務大輔は自分が腹を切るからそれで収めて欲しいと義輝に訴えたそうだが慶寿院がそれを止めた。そして義輝にお前が宮中に出向いて謝罪してこい。腹を切るならお前が切れ。その覚悟が無いなら征夷大将軍など辞任しろと言ったそうだ。義輝は宮中に出向いて帝に謝罪した。すべては自分の未熟さゆえに起きた事であり責めは自分が負うと言った。その場には俺も呼ばれた。帝から“どうするか”と問われたから既にけじめは付けてある。自分に対する謝罪は不要で後は帝の御心次第だと答えた。要するに間接的に帝の御顔を立てなさいよと義輝に言ったわけだ。
帝は二度とこのような事は許さない、どう防ぐか形に示せと義輝に命じた。そこで義輝は俺と春齢のために家を建ててくれるそうだ。そうする事で幕臣達に俺と春齢に敬意を払わせようという事らしい。不承不承だが帝もそれで納得した。腹を切られても困るしな。
この一件、侍従暗殺未遂事件と呼ばれているのだが幕府の権威を大きく低下させた。三好が動いた。以前の事だが義輝は三好修理大夫長慶を暗殺しようとしている。三好はその事を持ち出し幕臣達に人質を出すようにと迫った。義輝にではなく幕臣達にだ。幕臣達は嫌がったが慶寿院が人質を出せと命じた。多分、幕臣達が義輝を煽るのを止めさせるためだろう。
どうもね、今回の一件は義輝の統率力不足が原因じゃないかと思う。三好は俺を殺そうとしない。春齢との結婚が決まると修理大夫長慶は孫四郎長逸を抑えた。孫四郎も独断で動こうとはしない。つまり修理大夫の威令は三好家では非常に重いのだ。それに逆らう者は居ない。足利はそうじゃない。義輝が俺に謝っているのに殺そうとした。義輝の威令は軽いとしか思えない。多分義輝が弱いから誰もが自分が保護者だ、義輝を守らなければと思って動くせいだろう。この状況では統率力など無きに等しいだろう。
良し、斧は終わりだ。次は鉈だ。腰を下ろして薪に狙いをつける。振り下ろす! やはり一回では割れない。溜息が出た。気を取り直してもう一度! 二回目で割れた。次だ、薪を用意した。
まあ今回の一件で俺を非難する人間が居ないのは結構な事なのだが恐れる人間は増えた。相手は子供だが刃物を持って襲い掛かって来た相手を簡単に取り押さえてぶちのめした、とね。公方、慶寿院の命乞いが無ければ殺していただろうと評判らしい。なんか俺って血も涙もない人間のように思われている。迷っていたんだけどな。殺せたかな?
おかげで俺は飛鳥井の悪侍従、鬼侍従と呼ばれているらしい。この場合の悪って悪いという意味じゃない。性格、能力、行動が型破りで常識に当てはまらない事や強い事を現している。保元の乱で敗死した悪左府頼長の再来じゃないかと言う人間も居る。頼長は和歌や漢詩が苦手だったらしい。それで再来と言っているようだ。
薪割を終え部屋に戻って汗を拭っていると養母がやって来た。慌てて服を着た。あれ? 養母の後ろに葉月が居るぞ。
「もう汗は良いのですか」
と言いながら養母が座った。葉月も少し離れたところに座る。
「大丈夫でおじゃります、終わりました」
そう答えないと養母が拭き始めるからな。養母は楽しいらしいがあれはちょっと恥ずかしいんだ。ほら、今も不満そうな表情をしている。意外に世話好きなのだ。俺を養子に迎えたのもその所為かもしれない。
「葉月が内密に話したい事が有るそうです」
視線を向けると葉月が頷いた。
「傍に寄ってもよろしゅうございますか」
頷くとスッと寄って来た。流石忍者だ。身ごなしが違うな。養母も寄って来た。葉月がチラッと養母を見て俺を見た。良いのかと訊いている。頷くと葉月も頷いた。
「朽木と高島の間で戦が起きるやもしれませぬ」
朽木と高島? 良く分からなかった。養母は顔が強張っている。
「如何いう事だ? 朽木から仕掛けるわけは無いな。長門の叔父後はそんな事は好むまい。高島が仕掛けてくるのだろうが……」
九年前の戦いは高島が勝った。しかも九年が経っている。となればあの件が絡んでいるとは思えない。他の何かが高島を戦へと駆り立てたのだ。何が原因だ?
「銭でございます」
銭?
「公方様に献上した千五百貫」
「!」
あれか、あれが高島越中守の欲心を刺激したか。
「高島は苦しいのか?」
葉月が首を横に振った。
「そうは思いませぬ。高島は安曇川を押さえております。銭が無いとは思いませぬ。高島越中守は強欲、吝嗇、小心と言われております」
溜息が出た。養母もうんざりしたような表情をしている。強欲、吝嗇、小心って良いところが無いだろう。
「高島にとって朽木は心許せぬ相手にございます。その朽木が千五百貫もの銭を出すだけの力を蓄えた……」
なるほど、欲の他に恐怖か。最悪だな。
「朽木は知っているのか?」
「先ずはこちらにと」
また溜息が出そうになって抑えた。
「麿の所為だな」
養母が“侍従殿”と言った。俺の所為じゃないと言いたかったのだろうが首を振って止めた。
「朽木を豊かにするべく助言したのは麿です。それに足利を抑えたのも麿。御爺は苦しかった。だからその償いに千五百貫を献上した」
俺が居なければ起きなかった戦だ。何とかしなければならん。
「六角は頼れませぬか? 越中は六角に服属していましょう」
養母の提案に葉月が首を横に振った。
「六角が後押ししている形跡がございます」
“まさか”と養母が呟いた。俺もまさかと言いたい。六角はどちらかと言えば親足利の家なのだ。本来なら仲裁する立場だろう。
「朽木を押さえれば侍従様に対して強い立場を持てる。そういう狙いが有るのかもしれませぬ」
今度は俺が“まさか”と言った。俺ってそんなに重要人物なの?
その事を言うと養母が溜息を吐き葉月が変な目で俺を見た。そして“侍従様は宮中の実力者でございます”と言った。そうなの? 関白殿下を助けはしたよ。でも実力者? どうもピンと来ない。いや、今はそんな事よりもこの紛争をどうするかだ。六角は朽木を滅ぼす意思はないだろう。おそらくは高島をけしかけ戦をさせる、六角が調停に入って恩に着せる。そんなところの筈だ。そして高島には銭だ。
「六角が後ろに居るとなれば高島は退くまい。となれば戦は必至か……」
「幕府は頼れませぬか? 幕府にとっても朽木は大事な筈」
養母の言う通りだ。しかし……。
「無駄です、高島は退きますまい」
六角が後ろに居るとなれば高島は無視するだろう。そして幕府にはそれを咎める手段が無い。
「それにもし幕府の力で戦を避けられたとすれば幕府はその事を恩に着せ朽木を利用しようとする筈。これから先、足利と三好の軋轢は強まりましょう。朽木にとっては今は凌いでも先が危うくなる事になる」
養母が溜息を吐いた。厄介な事だ。朽木は小さ過ぎるし京に近過ぎる。おまけに足利に近い。生き残るのが難しい。史実じゃ生き残ったんだが並大抵の苦労じゃなかっただろう。
愚痴を言っても仕方ないな。勝たねばならん。そのためには地図が要る。葉月に高島から朽木までの大まかな地図を書いてくれと頼んだ。葉月がにっこり笑った。地図は既にあると言って懐から取り出した。どうやら葉月達も戦は必至と見たらしい。或いはここで俺の武将としての力量を図ろうというのかもしれない。
高島から朽木。朽木は朽木谷というように山の中に有る。朽木領に入るには狭い一本道を通らなければならない。用兵学上から見れば極めて危険だ。側面を突かれれば忽ち大混乱になるだろう。九年前の戦で高島越中が父を討ち取りながらも朽木領に攻め込まなかったのはこれを危険視したからだ。
「此処に兵を伏せられるか? 伏せられるなら誘い込めば勝てるな」
「伏せられますし勝てましょう。しかし如何やって誘い込みます? 難しゅうございますぞ」
「そうだな」
誘い込むにはそれなりの手立てが要る。さて、如何するか……。
昨日の続きです。
小夜はすっぽんぽんになったでしょうけど綾ママはならなかった。名前の無い御祖母さんもならなかったはずです。となると御爺も父親も夜着を脱がして喜んでいたという事になる。『なりませぬ』、『よいではないか』をやっていたわけです。基綱もやっているから『なりませぬ』、『よいではないか』は朽木家のお家芸なんだな。なんて事を考えて喜んでいたおバカな作者です。
次の更新はしばらくあきます。御彼岸、それから一周忌がありますのでその準備で実家に帰る日が続くせいです。
御理解頂きたいと思います。