我、事に於いて後悔せず
永禄二年(1559年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 朽木成綱
「飛鳥井侍従様を御連れ致しました」
細川兵部大輔殿が部屋の手前の廊下で片膝を着いて言上すると眼に見えて部屋の空気が硬くなった。来たのか……。表情が動きそうになるのを必死に堪えた。私だけでは有るまい。右兵衛尉直綱、左衛門尉輝孝、二人の弟も同じ様に堪えているに違いない。兵部大輔殿が“侍従様、こちらへ”と案内すると甥が姿を現した。
立烏帽子に直垂姿だ。脇差を差している。あれが広橋内府を脅したという倶利伽羅の脇差か。甥が立ち止まり室内を見回した。十歳にしては体付きがしっかりしていると思った。直垂姿が良く似合う。薄い青の衣服に銀杏の葉の模様があしらってある。銀杏は飛鳥井の家紋だ。そこから入れたのだろう。あれから八年か。幼い頃の面影は無い。だがその所為で亡くなった兄に似ていると思った。
甥が何事も無いように部屋の中に入った。大したものだ、室内には二十人以上の人間が居る。その殆どが敵意を露わにしている。御大葬、御大典、改元、その全てで公方様は煮え湯を飲まされた。その全てに甥が絡んでいる。そして日野家の事、甥は広橋内府を脅し帝に日野家を潰せと進言したという。この場には春日局も居る。彼女も憎々しげに甥を見ている。その所為で我ら兄弟は微妙な立場にある。
甥が前に進み座った。私の位置からは背中しか見えない。思ったよりも肩幅が有ると思った。剣術を学んでいると聞いているが余程に鍛えているのだと思った。
「飛鳥井基綱にございまする。お召しにより参上仕りました」
「うむ。予が義輝である」
挨拶の後、二人がジッと見合った。
「ふむ、朽木の顔だな。長門守に良く似ておる」
「叔父甥の間柄でおじゃりますれば」
「そうよな」
「……」
「……」
会話が続かない。また見合った。
「殿下から聞いた」
「……」
「御大葬、御大典、改元、その全てでそなたが動いたと。足利を無視する形になったが已むを得なかったのだと。そなたは帝の為、朝廷の為に動いたのだと。決して足利憎しで動いたのではないと。三好に命を狙われる事も有ったのだと。それだけは分かって欲しいと言われた」
「……」
公方様の言葉が流れる。甥は微動だにしなかった。
「そなた、本当に予を恨んでおらぬのか? 予が長門守を朽木家の当主にと言ったばかりにそなたは朽木家を追われた」
空気が硬くなった。
「恨んでいような、無念であっただろう。予には分かる。予は武家の棟梁でありながらその地位を奪われつつある。予が無念と思うのだ、そなたが無念と思わぬ筈が無い。どのような仕打ちを受けようと予にそなたを責める資格は無い。済まぬ事をした。許せ」
公方様が頭を下げた。それを見て“公方様!”、“大樹!”と言う声が上がった。
「頭をお上げ下さい。それでは話が出来ませぬ」
公方様が頭を上げた。
「恨みましたし無念でもおじゃりました。余計な事をすると思いましたな」
“侍従様!”と咎める声が上がった。だが甥は意に介さなかった。
「朽木家の当主として生きようとしたその時に、朽木家の当主として生きる道を断たれたのです。何かをして失敗したのなら納得出来た。でもそうでは無かった。何もしていないのにその道を断たれた。理不尽以外の何物でも有りますまい」
静かな声だった。公方様が悲痛な表情を見せた。もう甥を咎める声は無い。皆押し黙って聞いている。
「あの時、祖父が自分が掛け合う。お前を当主にと頼んでみると言いました。迷いましたな。しかし朽木は負け戦の後で幕府との関係を損ないかねない事は避けねばならないと思い直しました。自分の我儘で朽木を、朽木の領民達を危険にさらす事は出来ないと。だから、当主は長門の叔父で良いと言いました。腸の煮えくり返る思いでおじゃりました」
あの時の事は覚えている。淡々としているように見えた。だがそうでは無かったのか。自分の無念を捻じ伏せて兄を当主にと言ったのか……。自分達が余計な事を言わなければ……。
「その後は京に戻りました。叔父の為と皆には言いましたが本心は違います、自分の為でおじゃります。自分の無念、恨みに囚われたくないと思ったのです。間近で当主として振舞う叔父を見れば如何してもそうなる。それよりも自分に何が出来るのか試したいと思った……」
「そうか……、そなたは強いな」
「そして公家になりました。妙な公家になりましたな。しかしこれも悪くありませぬ。当主の事はもう恨んでおりませぬ。貴方様に対して遺恨も無い。お気になされますな」
「そうか……、済まぬ」
甥の肩が動いた。一つ息を吐いたのだと分かった。
「もう宜しゅうございますか」
「今一つ訊きたい」
「……何でございましょう」
「そなたが朽木家の当主であれば如何した。予に忠誠を尽くしてくれたか?」
「……」
甥は答えない。暫くの間公方様と見合っていた。
「いいえ、麿は朽木のために生きたでしょう。朽木を守るために、朽木を豊かにするために、朽木を強くするために生きた筈です。そのために貴方様を利用する事は有っても貴方様の為に忠誠を尽くす事は有りませぬ」
“侍従様”、“御口が過ぎますぞ”という声が上がった。
「だから貴方様が長門の叔父を当主にしたのは正しかったのです。これ以上思い悩むのはお止め為されませ」
甥が“失礼致しまする”と言い一礼して立ち上がった。
永禄二年(1559年) 二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 飛鳥井基綱
義輝が俺を見ている。俺に詫びを、或いは俺を憐れんでいる眼だ。何考えているのかね。自分の方が憐れまれる立場だろうに……。気分悪いわ、さっさと帰ろう。踵を返して歩き始めた。両脇に控えた幕臣達が俺を見ている。どう見ても好意的な眼じゃない。叔父御達もやり辛いだろう。職場環境は最悪だな。俺なら転職を考えるところだ。
「死ね!」
廊下に出たところで声と共に何かがぶつかって来た。慌てて避けるとそいつがつんのめりそうになるのを堪えて身を翻した。子供? 俺より小さいガキだ。そのガキが両手で短刀を持っている。眼には敵意一杯だ。このガキ、俺を殺そうとしたのか?
「何の真似だ。麿を飛鳥井侍従基綱と知っての狼藉か」
なんか時代劇みたいだな。そう思うと可笑しかった。
「煩い! 死ね!」
また突っかかって来た。いかんな、相手を見ていない。闇雲に突進しているだけだ。握りから見て右利きだろう。左に躱して脇腹に膝を入れた。“ぎゃっ”と言って崩れ落ちた。転がり落ちた短刀を拾った。ガキの背中に膝を乗せ左手で髪の毛を掴む。首を上げさせると短刀を喉に当てた。
「何事!」
「これは!」
どやどやと幕臣達が現れた。遅いよ。俺が睨むと困惑した表情を見せた。
「いきなり襲われました。麿を此処へ呼んだのは殺す為ですか。暗殺は足利のお家芸でおじゃりましたな。子供同士の争いで片付ける算段かな」
哂うと“無礼な”という声が聞えたからガキの頭を引き上げ短刀を強く当てた。ガキが呻いた。
「それ以上寄るな、離れろ。容赦せぬぞ」
「……」
幕臣達が後ずさった。うん、凄味が出たな。でもどうする? 殺せるのか? 人を殺した事なんて無いんだけど……。
「何者だ? 誰に頼まれた?」
「摂津糸千代丸だ。殺せ!」
摂津? ざわめきが起きた。“摂津”、“中務大輔殿”という声が聞える。なるほど、そんな幕臣が居たな。だとすると子供、義輝の小姓か。
「もう一度だけ聞く、誰に頼まれた?」
「誰にも頼まれておらぬ!」
“お待ちを!”と切迫した声が上がって幕臣達をかき分けて一人の初老の男が姿を現した。
「糸千代丸! どういう事じゃ、これは」
「父上」
こいつが父親か。随分歳が行っているな。謁見の場に座っていた。結構上座に座っていたな。なるほど、名前を聞いて慌てて前に出て来たか。男がいきなり平伏した。
「某は摂津中務大輔、その者の父にございまする。倅の無礼、万死に値しまするが某にとっては唯一の男子、お許し頂ければそのご恩、決して忘れませぬ。何卒」
「予からも頼む。糸千代丸を助けてやってくれぬか」
いつの間にか義輝も来ていた。しかしね、人にものを頼むのに頭の上からって何だよ。こいつ、全然分かってないな。
「何の騒ぎです、これは」
また誰か来た。今度は女だ。うんざりしていると“慶寿院様”という声が上がって幕臣達がバラバラっと散った。庭に降りている者も居る。摂津中務大輔も庭に降りた。あらあら、結構大物だな。義輝が“母上”と言った。現れたのは初老だが威厳のある女性だった。後ろには二人の若い女性が居た。身形からして付き人だろう。
慶寿院が俺を見て義輝を見た。
「公方様、これは何の騒ぎです」
「それが……」
義輝が言い辛そうに話し始めた。俺が飛鳥井基綱で呼んで話をしたら帰りに糸千代丸が俺を殺そうとした。今助けてくれと頼んでいるところだと。話し終わると慶寿院が溜息を吐いた。そして俺の前に座った。
「侍従殿、私は慶寿院と言います。公方の母です。真に申し訳ありませぬ。御腹立ちとは思いますが見ればその者、未だ幼い。許してやってくれませぬか。この通りです」
慶寿院が頭を下げると“慶寿院様!”という声が上がった。義輝よりも母ちゃんの方がしっかりしてるな。庭では摂津中務大輔が“何卒”って頭を下げている。うんざりしてきた。さっさと殺しておけば良かった。でも殺せたかな?
「分かりました、命は助けましょう。但し、けじめは付けさせて頂きまする」
慶寿院が“けじめ?”と言ったが無視して短刀を渡した。恐々と受け取る。その時になって袖の一部が裂けているのに気付いた。ゾッとした。初めて恐怖が湧いた、そしてガキに対する憎悪を感じた。このガキのせいで死ぬところだった。何故命乞いするのだ? 俺が死んだら如何するつもりだったのだ?
ガキの背中から降りて引きずり上げた。俺を敵意に満ちた眼で見ている。可愛くなかった。
「聞いたな、命は助けてやる。だがけじめは付ける。手荒いぞ」
ガキが初めて怯えを見せた。もう遅い。腹に膝をぶち込んだ。“ぐうっ”と呻いてくの字になるガキの後頭部を力任せに叩いた。崩れ落ちたガキの腕を固めて髪の毛を掴む。床に思いっきり叩きつけた! 悲鳴が上がった! 一回、二回、三回、ガキが嫌がる度に腕を決め悲鳴を上げさせてから頭を床に容赦なく叩きつけた。女の悲鳴が聞こえた。慶寿院だろう。
五回まで叩きつけてガキを引き摺り上げた。鼻が潰れ顔中血だらけだ。ぐったりしている。歯も折れてるかもしれない。しかし生きている。ガキを庭に蹴り落した。偶然だが摂津中務大輔の傍に落ちた。中務大輔がガキを介抱し始めた。
「中務大輔殿、御子息に伝えて頂きたい。次は容赦せぬと。どなた様の御口添えが有ろうと必ず殺すと」
中務大輔が俺を見ている。無言で頭を下げた。不満は有るだろう。だが生きているのだ。不満を口にする資格は無い。
周りを見た。幕臣達が不満そうな表情を見せている。どうしようもないほどに怒りを感じた。阿保共を睨みつけたまま左手を脇差に添えた。親指を鍔にかける。何時でも鯉口を切れるようにした。幕臣達が眼に見えて緊張を露わにした。
「御持て成し忝のうございまする。麿はこれにて失礼させて頂きまする」
立ち去ろうとすると慶寿院が“侍従殿”と声をかけて来た。
「有難うございました。礼をさせていただけませぬか」
「……」
社交辞令じゃない。眼に懇願するような色が有った。迷ったが“分かりました”と答えた。このままでは無事に帰れる保証はないし一体何を話したいのかという興味も有った。もしかすると険悪な雰囲気を察して声をかけたのかもしれない。“さ、こちらへ”と慶寿院が歩き出した。
慶寿院が案内したのは謁見の間からかなり離れた場所だった。部屋もそれほど大きくは無い。多分彼女の隠居部屋として使われているのだろう。
「侍従殿は強いのですね」
「相手は未だ幼うございます。剣の使い方も知りませぬ」
「いえいえ、心です。普通なら相手は子供と許しましょう。ですがけじめと言って厳しく当たられた」
「一つ間違えば麿が死んでおりました。当然の事かと」
慶寿院が頷いた。
剣術の修行をしていて良かった。咄嗟の時に身体が自然と動いた。そうじゃなければ殺されていたかもしれない。それに又一郎先生の動きに比べれば糸千代丸の動きは明らかに遅かった。最初の一撃を交わした後は容易かった。これからも剣術の稽古はしっかり励もう。
「甥から侍従殿の事は聞いております」
「左様で」
「若年ながら思慮深く信頼出来る人物だと」
「……」
甥と言うのは関白殿下の事だ。足利家は代々日野家から正室を迎えていた。しかし前将軍足利義晴は近衛家から正室を迎えた。それが眼の前に居る慶寿院だ。彼女は義晴との間に男子を二人儲けた。一人は義輝、もう一人は奈良で坊主になっている。後の義昭だ。義輝も近衛家から正室を迎える。日野家は断絶中だし三好家が九条家と縁を結んでいる。そして九条家の次期当主は養子縁組をした二条晴良の息子だ。近衛家と結んで三好家に対抗しようという事なんだろう。殿下は必ずしも親足利ではないんだけどな。なるほど、義輝が日野家の再興に拘るのは近衛家に不満が有るからかもしれない。日野家ならもっと足利のために動いてくれたとでも思ったか。
「侍従殿から見て公方様は如何見えました?」
「……」
「思った事を言っていただけませぬか」
視線が切ない。余程に義輝の事を案じていると分かった。無碍には出来んな。俺の悪い癖だ。縋られると無碍に出来なくなる。
「言葉を飾らずに申し上げまする」
慶寿院が頷いた。
「武家の棟梁としては些か心が弱いかと」
また頷いた。
「麿を朽木家の当主から外した事を後悔されておられましたな。良い事とは思えませぬ。一旦事を起こした以上、後悔するものではおじゃりませぬ。後悔とは過去を見て悔やむもの。他人の上に立つのであれば常に前を見なければなりますまい。過去に失敗が有るのであればそれを次に如何生かすかが肝要。麿はそのように思います」
後悔と反省は違うのだ。前へ進もうとするなら後悔ではなく反省にすべきだ。その辺りの違いを義輝は理解しているのか。謁見で思ったのはそれだ。御爺の文にもよく泣くと書かれてあった。感受性が鋭すぎるのだろう。ただ嘆き、悲しみ、悔やむ。将軍よりも詩人の方が向いていそうだ。芸術家タイプだよ。統治者、武将に必要な冷徹さは義輝からは見えてこない。勿論人間はそんなに強くない、後悔しない人間などいないだろう。それを否定するつもりはない。俺だって後悔するさ。でもな、それに引き摺られる事はしないようにしている。義輝は引き摺られている、後悔する自分に酔っているようにしか見えない。
そして幕臣達はそんな義輝を慰める。義輝は慰められる事に慣れ幕臣達は義輝を慰める事に慣れてしまったのではないか。その事を言うと慶寿院“ホウッ”と息を吐いた。
「侍従殿は鋭い。私が漠然と感じていた事をはっきりと口にされた」
「感じ易いのですな、優しさもお持ちなのでしょう。人としての魅力が有るのだと思います。だから周囲に人が居る。あの方のために何かしたいと思う。ですがそれは武家の棟梁として人を引き付けているわけではないと思います。言い難い事ではありますが或る意味、武家の棟梁に最もふさわしく無い御方がその地位に付かれた」
糸千代丸は自分の意思で俺を襲ったと言った。多分本当だろう。義輝が嘆き悲しんでいる。それに同情しその原因である俺を排除しようとした、そんなところだろう。義輝の後悔が糸千代丸を暴走させた。義輝が前を向いていれば糸千代丸の暴走は無かった筈だ。その一事で義輝には人の上に立つ資格は無い。
コミカライズの第三巻が明日発売されます。早いところではもう書店に並んでいるようです。自分も上野駅で購入しました。コミカライズに挿入されたSS『初夜』を五回は読みました。読む度にジンと来ています。自慢ではなく良く書けたなと。
三巻が婚儀まで行くと聞いたので書いたのですが自分は男女の恋愛シーンは極度に苦手なので大分困惑しました。先ず第一にエロは無し、第二に政略結婚で初対面なのだから甘やかさは無し、第三に小夜は再婚なので引け目を出し新九郎への思いも出す、第四に少しずつ歩み寄る二人を出す。そんな事を何度も念じながら書きました。
何度か小夜をすっぽんぽんにしようかとも考えました。嫁というのは外から来る人間ですから身に寸鉄も帯びていないという事を示すために服を脱いで裸になる。そんな風習も有るようです。これ、永井路子先生の山霧(大河ドラマ毛利元就の原作です)に出てくるシーンです。書こうと思って止めました。朽木家って二代にわたって公家の娘を妻にしています。絶対そんな事していない。綾ママが全裸になって宜しくお願いしますなんて言うわけない。だから朽木家にはそんな風習は無かっただろうと。という事で寝室とは別の部屋で基綱を待つという設定になりました。寝室に行ってから小夜さんは全部脱いだ、基綱はびっくりした。或いは興奮して襲いかかったと思って読んで頂ければと思います。
最後に、明日も更新しますよ!