武家の子
永禄二年(1559年) 一月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「さて、困りましたの」
本当に困っているのかな? そんな口調で困ったと言ったのは太閤二条晴良だった。関白近衛前嗣が不愉快そうにしている。お前少しは当事者意識を持てよ、そう思ったのかもしれない。俺も不愉快だ。何で此処に俺が居るの? 俺は従五位下侍従のぺーぺーだよ。常御所で、帝の御前で関白、太閤なんて偉い人と一緒に居るなんておかしいじゃないか。俺は春齢と『あっち向いてホイ』で遊んでいたんだぞ。それを無理矢理攫いやがって。
この時代、じゃんけんというものが無い。という事で三年程前に俺がじゃんけんと『あっち向いてホイ』を春齢に教えた。そして春齢はそれを女官達に教えた。今ではじゃんけんと『あっち向いてホイ』は爆発的に広まっている。大叔父の山科言継もこれが大好きで地方の大名家に行ってはこれで大名達と遊んでいる。時々朝廷への献金を賭けて行う事も有るらしい。そして勝つ! 強いんだよ、あの爺さん。朝廷は『あっち向いてホイ』を重要な遊戯として認めつつある。そのうち大叔父は『あっち向いてホイ』の宗家とかになりそうだ。次はオセロだな。春齢も囲碁に比べれば簡単に出来て喜ぶだろう。
この場には左大臣西園寺公朝、右大臣花山院家輔、内大臣広橋兼秀、そして祖父の権大納言飛鳥井雅綱もいる。左大臣と右大臣は神妙な表情だが内大臣は時々俺と祖父をきつい眼で見る。五十を過ぎた爺が子供を睨むなんて大人げないぞ。でも祖父も結構きつい眼で内大臣を見ているからお互い様か。まあ分らないでもない。宮中では日野家の跡目相続を巡って鎬を削る争いが起きているのだ。不本意だがその渦中に俺も居る。
事の発端は日野家の当主であった権大納言日野晴光が死んだ事だ。三十代後半で死んだというからまだ若かった。子供は一人いたのだが晴光よりも先に死んだため日野家は後継ぎのいない状態になった。これが今から四年前の天文二十四年に起きた。それから四年間、日野家は後継ぎを巡って混乱し当主の居ない状態が続いている。江戸時代の大名家だったら取り潰しだな。
現在日野家の後継者候補は二人いる。一人は広橋兼保、つまり内大臣広橋兼秀の孫だ。もう一人は飛鳥井資堯、これは祖父飛鳥井雅綱の息子だから俺にとっては叔父にあたる。名前を見れば分かるが雅の字が無い。まあ祖父も期待していなかったという事なのだろう。妾腹の出で飛鳥井の邸には居なかったから会った事もないという叔父だ。本来なら寺に送られるところだ。
「日野家は広橋家にとっては本家筋、本家が途絶えた以上分家の広橋家から養子を迎えるのはおかしな事ではおじゃりませぬ。それに飛鳥井家は羽林の家格、名家の日野家に養子を入れるには些か不適格ではおじゃりませぬかな?」
まあそういう見方は当然ある。分家から本家を継ぐのは自然だし養子縁組は同じ家格の方がスムーズに行き易い。内大臣の言う通り羽林は武官で名家は文官だ。進むコースは全然違う。羽林は近衛少将から近衛中将、参議、そして中納言だが名家は弁官から参議、中納言へと進む。飛鳥井の人間に文官としての素養が有るのかという事だな。あらら、飛鳥井の爺さん顔が真っ赤だな。咳払いまでした。
「権大納言殿が亡くなられた時、兼保殿は未だ赤子でおじゃりましたな。そして広橋家には兼保殿以外に男児が居なかった。となれば誰もが兼保殿は広橋家の嫡男、跡取りと見ましょう。それゆえ当家の資堯を養子にという話でおじゃりました。それを昨年次男が生まれたからと言って兼保殿を日野家の養子にとは……。随分と人も無げなやり様でおじゃりますな」
今度は内大臣が顔を朱に染めた。
そうなんだ、当初広橋家は兼保を日野家にとは言っていなかった。兼保は権大納言日野晴光が死んだ年に生まれている。ちゃんと育つかどうかも分からないのに養子になんか出せる筈がない。広橋家が兼保を推し始めたのは去年になってからだ。つまり後から割り込んできたという事になる。祖父がふざけるなと言うのももっともなのだ。
何故広橋家が去年になってから兼保を推し始めたか? 次男が生まれたという事も有るが足利義輝の京への帰還も絡んでいる。日野家は烏丸家、広橋家、飛鳥井家、勧修寺家、上冷泉家、高倉家、正親町三条家と共に昵懇衆なのだ。そしてかつては代々に亘って御台所を出した親足利の家でもある。義輝にとっては大事な家だ。そして義輝の乳母、春日局は死んだ日野権大納言晴光の妻だった。
この女が義輝に働きかけて日野家に飛鳥井なんてとんでもない、広橋家の兼保をと泣きついだわけだ。そして義輝は大いに張り切って広橋に兼保を日野家の養子にしろと命じた。公家の当主が死ぬと面倒なんだよ。家督そのものは帝が承認し領地は将軍が保証する事になる。義輝には家督の決定権が無い。やきもきしているだろう。
あ、今度は広橋の爺さんが大事なのは最も適切な人を養子に選ぶべきだと言った。飛鳥井の爺さんが五歳の子供が適切な人材なのかと嘲笑した。広橋の爺さんが“なにを!”と声を荒げて飛鳥井の爺さんが身構えた。二条太閤が“まあまあ落ち着いて”と広橋の爺さんと飛鳥井の爺さんを宥めた。何で止めるかなあ、トコトンやらせればいいのに。
同じ昵懇衆なのだから何もそんなに飛鳥井を嫌わなくてもと思うんだが実は飛鳥井資堯を日野家の養子にと推しているのは三好筑前守長慶なんだな。なんで三好筑前守が飛鳥井資堯を推したのか? どうもね、飛鳥井家というのは昵懇衆なのだが将軍に必ずしも忠勤を励んでいるというわけではないらしい。
俺の件が有って距離を置いているのかと思ったがそれ以前から、祖父の雅綱の頃から同じ昵懇衆からは足利への忠勤が足りないと非難されるような事も有ったようだ。三好筑前守にとっては取り込み易いと思ったのかもしれない。道理で義輝が親足利の日野家を三好と組んだ飛鳥井家に渡すわけにはいかないと息巻くわけだよ。京に戻って将軍としての存在感を示すためにも譲れないと周囲に言っているらしい。面倒な奴だな。
ということでだ、日野家の養子問題は広橋(足利)対飛鳥井(三好)という両者引くに引けない戦いになっている。そして義輝は昵懇衆に広橋を応援しろと命じた。積極的に応じたのが高倉家だ。高倉家と広橋家は縁戚関係にある。それに権大納言高倉永家の養女は朝廷に出仕して勾当内侍になっている。勾当内侍というのは宮中における事務方のトップだ。帝と宮中内外との取次を担当している。広橋にとっては強力な味方だな。
そこに養母と飛鳥井の勢力伸長を面白く思わない萬里小路出身の新大典侍が加勢した。このあたり、俺が嫌われているのか飛鳥井が嫌われているのか、ちょっと知りたいな。そして俺の実母が嫁いだ持明院家の娘が新内侍として出仕している。こいつは当然飛鳥井の味方だ。公家だけじゃなくて女官達も参戦して仁義無き戦いが始まった訳だ。
飛鳥井にとって不本意なのは三好からはあまり援護射撃が無い事だ。義輝の顔を潰し過ぎても拙いんじゃないという判断も有るのだろうが広橋の娘が松永弾正に嫁いでいるんだな。この広橋の娘だが前関白一条兼冬の妻で兼冬の死後、弾正に嫁いだ。その頃は日野家の問題がこんな大事になるとは思わなかった筈だ。この女も日野家の家督を兼保にと弾正にプッシュしているらしい。あのなあ、お前は広橋と三好を繋げるために嫁いだんだろう。なんで三好を混乱させるような事をする。弾正も困っているという噂がチラホラ聞こえているぞ。筑前守にとっては重臣の妻が騒いでいるんだ、無視は出来ない。飛鳥井は大ピンチだ。という事で祖父は俺を此処に連れ出した。勘弁してほしいよ……。
永禄二年(1559年) 一月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 近衛前嗣
「権大納言殿、御控えなされよ。公家の家督相続は帝御一人の専権事項にございますぞ。武家と組んでそれを欲しいままにしようとは僭越ではおじゃりませぬかな」
「妙な事を仰られる。武家と組んで横車を押そうとしているのは内府ではおじゃりませぬかな」
また睨み合った。困ったものよ。二条太閤、西園寺左府、花山院右府は白けたような表情だ。どちらでも良いと思っているのだろう。
厄介な問題よ。公方は必至よ、後に引くまい。それに比べれば三好筑前守はそれほどこの問題を重視していないフシが有る。来月には従四位下修理大夫に昇進する。此処で公方に譲っても構わないと考えているのかもしれない。となればここは公方の顔を立てるという手もある。
その場合、問題は飛鳥井よ。御大葬、御大典で侍従が良く働いた。これは春齢女王の降嫁で恩賞を与えたから良い。しかし改元でも働いてもらった。そして三好、六角が侍従に進呈した所領は禁裏御料となっている。これを無視は出来ぬ。飛鳥井はともかく侍従の顔は潰せぬ。権大納言もそれを考えてこの場に侍従を連れて来たのであろう。つまり権大納言は劣勢だと認識している……。もっとも侍従本人は関心が無さそうだ。二条太閤達と同様、どちらでも良いと思っているのだろう。あまり強欲な人物ではないのだ。
もう一つの問題は帝よ。一体如何お考えなのか。そのあたりが聞こえてこない。表情を消しておられるが……。
「麿は正しい形にしようとしているだけの事、疚しい事はおじゃりませぬ。武家と組んで私腹を肥やしているのは飛鳥井家ではおじゃりませぬか」
「何を仰られる!」
「三好、六角から所領を得ておりましょう。違いましたかな? 朽木家からも相当な財を得ている筈」
内府が露骨に嘲笑した。西園寺左府、花山院右府が頷く。二百貫か、皆面白くは有るまい。そして朽木家、小身だが豊かだ。公方にも相当な銭を献じたと聞く。
「三好、六角からの所領は禁裏御料となっております。飛鳥井家は私しておりませぬ。そして朽木家からの財は麿が今後の暮らしに不自由せぬように毎年幾ばくかの財を渡すという飛鳥井家に戻る時の約束でおじゃりました。飛鳥井家が武家と組んで私腹を肥やすなどという事はおじゃりませぬ。内府、取り消して頂きましょう」
静かな声だった。だが座の空気が固まった。侍従が強い視線で内府を見ている。内府が顔を強張らせた。誰かが音を立てて唾を飲んだ。
「出来ませぬか?」
侍従が“フフフ”と笑った。侍従は侍衛の任を持つために脇差を帯びている。その脇差に侍従がゆっくりと左手を添えた。
「子どもと見て甘く見ましたか? 麿は武家の出でしてな。謂われ無き侮辱を受けた時は躊躇わずに相手を討ち果たせと教えられております。まして御前にございます、許せませぬ」
「ま、麿は内大臣でおじゃるぞ!」
悲鳴のような声だった。腰が逃げている。これでは威圧にならない。侍従がまた“フフフ”と笑った。
「内大臣になると命が二つになりますのか?」
「……」
「そうでないなら取り消すか、念仏を唱えるか、選ばれませ」
「……念仏」
今度は声が震えている。周りも蒼白だ。帝も。
「この脇差には俱利伽羅竜が彫って有りましてな。以前からこの竜に血を吸わせてみたいと思っておりました。血を吸った竜がどうなるのか、……フフフ、感謝致しますぞ、内府」
「じ、侍従」
「選びませぬか、ならば参りますぞ」
侍従が右手を柄にかけた。腰を浮かせ片膝を立てた。
「そこまでじゃ、侍従」
侍従が動きを止めた。だが右手は柄にかけたままだ。無言で内府を睨んでいる。そして内府は露骨にホッとしたような表情を見せていた。
「内府、取り消されよ」
「……」
「次は麿も止めませぬぞ!」
「と、取り消しまする。御前にも拘らず詰まらぬ事を言いました。御許しを」
慌てて内府が取り消し帝に謝罪した。それを見て侍従が座り直した。漸く座の空気が和らいだ。
「畏れながら言上仕りまする」
侍従が身体を帝に向け畏まった。
「うむ、申せ」
「はっ、日野家の跡目でございますが臣はこれを許さず日野家を取り潰すべきかと思いまする」
座が騒めいた。皆が顔を見合わせている。
「本来ならば我ら公家は帝の御為、朝廷の為、日ノ本の為に心を一つにして仕えねばならぬ立場におじゃります。なれどそれを忘れたが為に此度のような事になりました。これは公家だけでなく女官達も同様でおじゃります。このままでは朝廷は有って無きが如し、帝を敬う者も誰一人として居ない状況になりましょう。さればこれを正し綱紀を引き締めねばなりませぬ。臣は日野家を取り潰し一の罰を以って百の戒めと為すべきかと思いまする。何卒御賢察を願いまする」
侍従が平伏すると帝が頷くのが見えた。また座が凍り付いた。
「二条は如何思うか?」
帝の問いに二条太閤が“はっ”と畏まった。
「侍従の意見は尤もながら日野家を取り潰すのは如何なものかと……」
二条の意見に左府、右府、内府、権大納言が頷いた。侍従が二条太閤に視線を向けた。“二条様”と声をかけると眼に見えて太閤が怯むのが見えた。
「二条様は昨今の朝廷の乱れを看過なされますのか?」
「そうは言わぬ。ただ取り潰しは行き過ぎではないかと申しておる」
「なるほど、朝廷の乱れを看過は出来ぬとお考えなのですな。ならば代案を出すべきかと思いまする。代案無しでは帝も御困りでしょう。そうは思われませぬか?」
「……」
二条太閤が狼狽している。厳しいわ、事無かれでは済まさぬと迫った。帝も二条太閤を見ている。気付いたのだろう、二条太閤の顔が強張った。
侍従が西園寺左府に視線を向けると左府は露骨に視線を避けた。花山院右府も同様だ。視線を合わさぬように彷徨わせている。
「関白殿下は如何思われますや?」
皆の視線が麿に集まった。やれやれよ。
「そうですな、日野家の跡目は取り潰しも視野に入れた上で検討すべきかと思いますぞ」
内府、権大納言の顔が強張った。予想外の事態であろう。
「良く分かった。関白の申す通りよ。昨今の風紀の紊乱、些か目に余る。日野家の跡目は取り潰しも視野に入れて検討しよう。皆ご苦労であった、下がれ」
皆が平伏した。そして退出しようとすると“近衛は残れ”とのお言葉が有ったので座に留まった。帝と二人だけになると帝が“寄れ”と手招きをされたので遠慮せずに寄った。帝が顔を綻ばせた。
「胸がすく思いよ」
「はっ」
「公方も筑前めも勝手な事ばかりする。真、胸がすく思いよ」
帝が軽やかな笑い声を上げられた。なるほど、表には出さなかったが不愉快で有られたのだ。
「武家は怖いのう。真、広橋を斬るかと思ったぞ」
「臣も思いました」
「二条も西園寺も花山院も頼りにならぬ。侍従に迫られても皆視線を逸らすばかりであった」
「真に」
「そなたは違ったの」
帝が面白そうにこちらを見ている。
「侍従の申す事、もっともと思いました」
帝が頷かれた。
「日野家の事、如何なされます」
帝がジッとこちらを見た。
「潰す事は拙かろう」
「では跡目は?」
「……横車では有る。だが広橋の方が収まりが良かろう」
飛鳥井を入れては落ち着かぬか。かもしれぬ。
「では飛鳥井は?」
帝が“そうよな”と仰られて小首を傾げられた。
「難波家を再興させては如何か?」
なるほど、難波家は飛鳥井家の本家筋、広橋には本家筋の日野家を継がせ飛鳥井には難波家を再興させるか。
「良きお考えかと思いまするが難波家の所領は如何なされます」
「日野家の所領の一部を難波家の物としよう」
「公方が認めますまい」
帝が視線を強めた。
「日野家の跡目相続を認めるのは難波家の再興を見届けた後じゃ。それ無しでは認めぬ」
なるほど、日野家の相続は認めるが公方の好き勝手にはさせぬか。頭を一つ叩いておこうという事か。
「……ならば今暫くは日野家を潰すべきかと御悩みなされた方が宜しゅうございます。難波家の再興も暫くは伏せられたほうが」
帝が眼を瞠られ“ホホホホホホ”とお笑いになられた。
「公方の肝を冷やすか」
「はい」
また帝がお笑いになられた。潰すという噂が流れれば公方も頭を冷やそう。その分だけ譲歩を強いやすくなる。