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弘治三年(1557年)  十一月中旬      山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍




 「驚いたの」

 「はい」

 兄と二人、部屋で白湯を飲んでいる。十一月になると流石に寒い。暖かい白湯が身体を温めてくれる。

 「百貫か」

 「はい。三好、六角がそれぞれに」

 兄がホウッと息を吐いた。そして“有り得ぬ事よ”と呟いた。


 確かに有り得ぬ事では有る。この半月ばかりの間に三好家、六角家が侍従に所領を進呈してきた。名目は春齢との婚約祝い。合わせて二百貫。三好が進呈すると遅れてはならじとばかりに六角家が進呈してきた。押領が珍しくない今、大名が侍従に所領を進呈するとは……。


 尤も侍従は醒めている。帝に進呈する事で禁裏御料としその代官を春齢とした。自分の所領なら取り上げ易い、そう臭わす事で圧力をかけられるが禁裏御料となれば、そして春齢が代官となれば簡単には取り上げ難い。それが理由だった。侍従は簡単には三好、六角の意のままにはならぬと言っている。帝も侍従の意の有る所を十分に理解している。


 「婚約への祝いと言っておじゃるが……」

 「口実でございましょう。内実は侍従と繋がりを持ちたいという事だと思います」

 兄が頷いた。表情が渋い。兄はこれまで正面から私を見ようとしない。顔を伏せながら頷くかボソボソと話すだけだ。


 「麿もそう思う。となれば三好、六角は侍従を宮中の実力者と認めたという事になる。御大葬、御大典での動きを重く見たという事よ。敵に回したくないという事でおじゃろうな」

 「はい」

 「侍従は未だ十歳にならぬのだが……」

 「もはや誰も侍従を子供とは見ませぬ」

 養子を認めているのは三好、六角だけでは無い。宮中にも関白殿下を始めとして少なからず居る。


 「萬里小路が大分侍従の事を気にしておる」

 「……」

 「分かるであろう?」

 「はい」

 萬里小路は先帝、帝と二代に亘って外戚の地位を占めた。帝にとっては最も信頼出来る家と言って良い。だが侍従の働きによって帝の飛鳥井への信任が強まりつつあるのも事実。萬里小路にとっては面白くは有るまい。


 「広橋もじゃ」 

 「例の件でございますか?」

 兄が“うむ”と頷いた。

 「連中が手を組むやもしれぬ、そうなれば厄介よ。気を付けた方が良い。侍従だけでは無い、女王様、そなたもじゃ」

 「左様でございますね。改元の事もございます、気を付けましょう」

 兄が顔を上げた。顔を顰めている。


 「それを口にしてはならぬ。秘中の秘じゃ」

 「申し訳ありませぬ」

 帝は公方を武家の棟梁と認めていない。そして三好から条件無しで御大葬、御大典の献金を引き出した侍従を高く評価している。改元の事でも帝は関白と侍従を傍に呼んで相談していた。宮中に於いて侍従の重みは日に日に増している。確かに兄の言う通りだ。身辺に注意しなければ……。


 「朽木には何と?」 

 「分かりませぬ。文を出したようでは有りますが……」

 「民部少輔殿と言えど公方を抑える事は出来まい。必ず戦になる。一つ間違えば朽木も攻められよう。一体どのように収めるつもりなのか……」

 兄が溜息を吐いた。

 「見殺しにするとは思えませぬ。侍従は心優しい男にございます」

 「そうでおじゃるの。そうでなければ女王様を妻にとは言うまい。昇進を望んだ筈じゃ」

 漸く兄の顔が綻んだ。


 「女王様は如何御過ごしか?」 

 「喜んでおります。今まで以上に侍従の傍に居たがるようになりました」

 兄が眼を瞠り“ホホホホホホ”と笑い声を上げた。

 「年が明ければ皇族の籍を抜ける事になりますが気にならぬようです」

 「それは良い。侍従は?」

 「春齢に自分の待遇の事で帝に我儘を言ってはならぬと。他にも妻として心得て欲しい事を教えております」

 また兄が笑い声を上げた。


 「侍従は才は有るが野心や欲とは無縁のようじゃ。あの若さであの才ともなれば皆が畏れようが野心と欲が無ければ一安心というものよ。後は皆がそれを知ってくれればの」

 「はい」

 少しずつ、少しずつあの子が周りを動かしてゆく。いいえ、そうではない。皆があの子を必要としてゆく。未だ九歳、十年、十五年後は……。




永禄元年(1558年)  十二月上旬      近江高島郡朽木谷  朽木城  飛鳥井基綱




 眼の前に朽木城が有った。懐かしいと素直に思えた。此処を去ったのは二歳の時だが俺はこの城に十分過ぎる程に愛着を持っていたらしい。不思議なものだ。夢にも見た事が無いというのに……。

 「竹若丸様!」

 俺を呼んだのは日置五郎衛門だった。相変わらずのゲジゲジ眉毛だ。変わっていないと思ったが良く見れば眉毛に少し白いものが見える。八年の歳月は決して短くなかったのだと思った。


 「五郎衛門か、久しいな」

 「竹若丸様、御立派になられて……。いや、もう竹若丸様では有りませぬな、侍従様とお呼びせねば」

 「竹若丸でも構わぬぞ、五郎衛門」

 五郎衛門は眼を拭う素振りを見せた。困った奴、久しぶりの再会なのに湿っぽくするな。


 「御隠居様、殿がお待ちでございます。さあ、中へ」

 「うむ」

 五郎衛門の案内で城の中に入った。次から次へと人が現れた。五郎衛門の息子の左門、宮川新次郎、新次郎の息子の又兵衛、荒川平九郎、田沢又兵衛、守山弥兵衛、長沼新三郎……。皆それぞれに歳をとった。


 大広間では御爺、長門の叔父、大叔父の蔵人、蔵人の息子の主殿が俺を待っていた。俺が座る、五郎衛門達も座る。挨拶を交わし援助の礼も言った。少しの間沈黙が有った。

 「早いものよ、十歳になったか。眉と眼が宮内少輔に似ておる」

 御爺が俺の顔を見ながらしみじみとした口調で言った。皆が頷いている。そうだな、俺は母にも養母にも飛鳥井の伯父にも似ていない。間違いなく顔は朽木の顔だ。


 「しかし、外に出てよいのか?」

 御爺が心配そうに訊ねてきた。

 「大丈夫だ。三好筑前守が孫四郎を抑えた。孫四郎も俺を殺せば三好家にとって厄介な事になると理解している。当分は大丈夫だろう」

 不思議だった。口調が昔に戻っていた。懐かしい顔を見て昔に戻ったのか……。

 「当分か」

 「先は分からぬ」

 「そうだな」

 次に危ないのは三好筑前守が死んだときだろう。だがまだ先の筈だ。


 「女王様との婚約が効きましたか?」

 大叔父が問い掛けて来た。

 「そうだと思う」

 春齢は臣籍に降って源春齢になった。もっとも変わったのは名前だけで生活が変わったわけではない。何の不満もないようだ。


 「婚儀は何時かな?」

 「三年後だ、御爺」

 十三で結婚だ。この世界だと特に早くは無いが元の世界だと有り得ない事だ。ちょっと違和感がある。

 「そうか、ならば何としても出席せねばの。それにしても儂の孫が帝の女婿か、如何にも信じられぬの」

 御爺が皆を見まわすと皆が頷いた。

 「俺も信じられぬ」

 ドッと笑い声が起きた。いや、本当だよ。とても信じられない。


 「朽木は豊かになったな。此処に来る途中だが領民の表情が明るかった」

 「侍従様の御陰にございます」

 「そんな事は無い。確かに俺は幾つか助言した。それによって朽木の産物が増えたのは確かだろう。だが叔父上が領民を粗雑に扱えば領民の顔は暗かった筈だ。領民の表情が明るいのは叔父上が良い領主だからだ」

 シンとした。長門の叔父が眼を瞬かせている。領主としてやり辛かったのだろうな。


 「竹若、いや侍従。公方様はどうなるかの」

 皆の視線が俺に集まった。

 「さあ、如何なるか。京には戻ったが傀儡だろう。帝は公方を武家の棟梁と認めていない。そして三好筑前守は公方を信じていない」

 「……」

 「本人がそれに耐えられるかどうか」

 彼方此方から溜息が聞えた。


 「挨拶に行ったのか?」

 「いいや、行かぬ。飛鳥井家の者は誰もな。御大葬、御大典の事も改元の事も俺と関白殿下が動いた事を皆が知っている。公方も京に戻ったのだから知っているだろう。俺が行っても喜ぶまい」

 「……」

 御爺が寂しそうにしている。俺が足利のために動いてくれれば、そう思っているのかもしれない。しかしなあ、京で足利のために動くというのは危険過ぎる。飛鳥井も朽木も。


 「叔父御達には済まぬ事をした。さぞかし公方、幕臣達に嫌味を言われただろう。御爺も疑われたのではないか?」

 御爺が笑った。

 「心配は要らぬ。儂とその方が緊密に連絡を取り合っているのは秘中の秘よ。幕臣達は誰も知らぬわ。桔梗屋が仲立ちをしているとは気付くまい」

 「それは良かった」

 本当に良かった。公方の周囲には三好の手の者が居る。俺と朽木の連絡手段を気付かれたくない。


 工夫しているんだよ、時候の挨拶や何気ない手紙は伯父に頼んで出している。極秘の情報は葉月に頼んで届けて貰っている。足利と三好の攻防はこれからも続く。困った事に朽木も飛鳥井もそれに捲き込まれ易い立場なんだ。緊密に協力して行かなければ両方とも滅びかねない。そして義輝は必ず将軍としての実権を取り返そうとする筈だ。その事を言うと皆が頷いた。


 ……改元が行われたのが今年の二月の末だった。新たな元号は永禄。群書治要という唐代の書籍の一部に有る『能保世持家、永全福禄者也』から取られた。意味は家を保持して永く福禄を全う出来た者という事だ。日本史では結構重要な元号になるのだが改元は朝廷と三好筑前守の間で決定された。そして義輝には報せなかった。


 偶然でもなければ忘却したのでもない。帝は義輝を武家の棟梁として、いや正確には統治者として認めなかったのだ。京に居るより地方に亡命している事の多い将軍なんてうんざりだったのだろう。何度も役に立たないと帝が吐き捨てるのを俺は聞いている。義輝が改元の事を知ったのは五月になってからだった。


 本来なら改元は朝廷と公方の間で決めるものだし改元したのなら公表する前に公方に報せるべきものだ。それを無視された事で義輝は面目を失した。そして激怒、いや恐怖した。このままでは皆から忘れ去られてしまう。自分の存在を皆に知らしめるには兵を挙げるしかないと……。


 義輝は兵を挙げ六角左京大夫義賢がそれに協力した。当初は互角に戦っていたが次第に三好側が優勢になった。六角左京大夫義賢が武力による三好打倒は不可能と判断し和睦へと方針を転換したため義輝も已むを得ず和睦を受け入れた。まあ義輝も本気で三好打倒が可能だとは思っていなかっただろう。兵を挙げ一時的にしろ互角に戦った事で自分の健在ぶりをアピール出来た、最低限の目的を達成したと思った筈だ。和睦を結ぶといそいそと京に戻って来た。

 

 でもね、義輝は知らないだろうけどそういう風に持って行ったんだよ。三好に改元の事を相談した後、今年になってからだが六角と畠山に朝廷から使者を出して改元の事、非は義輝に有るという事を何度も伝えた。そして御大典が有るから戦は避けてくれとね。戦になれば義輝は朝敵になるぞとも伝えた。畠山は了承してくれた。問題は六角だった。義輝は直ぐ傍に居るからな、支援を求められれば無視出来ないと悩んでいた。勝てるという確証もなかった。正直に言えば義輝の存在は迷惑だっただろう。俺も何度か近江に行ったから六角の立場は良く分かった。


 という事で朝廷が三好の後押しをした。実は美濃の斎藤新九郎高政が治部大輔への任官を三好長慶を通して願っていた。この男、後の一色義龍だ。高政が義輝ではなく三好長慶を頼ったのは斎藤氏が下克上の家で新九郎高政が父親の道三を殺したからだろう。高政は義輝が自分に好意を持たないと考えたのだ。そして三好長慶なら六角を牽制出来る自分を高く買うだろうと計算した。


 なかなか強かな男だ。こいつを利用した。朝廷が高政を改元の二日前に治部大輔へ補任したのだ。これで六角は腰が砕けた。そして三好長慶は面目を保った。当然だが朝廷に感謝した。この件でも義輝は激怒したらしい。官位の申請は武家の棟梁である将軍が行うものだ。それを無視されたと。


 時系列的に言えば官位の件で激怒して元号の件で確信したわけだ。朝廷は自分を無視していると……。しかしね、五月に改元の事を知ったという事はそれまで六角も畠山も義輝に何も言わなかった事になる。義輝も薄々六角、畠山の冷たさを気付いていただろう。兵を挙げたのはその辺りも関係していると思う。六角、畠山がどの程度自分を支持してくれるか試したのだろう。


 御爺も辛かっただろうな。御爺には葉月を使って改元の事、六角、三好との調整の事を伝えた。五月になるまで知ることが出来なかったという事には衝撃を受けたようだ。朽木は軍費として一千五百貫を義輝に提供したらしい。義輝は泣いて感謝したのだとか。御爺にとっては罪滅ぼしのようなものかもしれない。


 後は朝廷が書いたシナリオ通りに動いた。適当に戦って和睦。義輝にしてみれば六角が義輝のために戦ったという事実が有れば良いんだから適当なところで終わらせようと六角、三好を説得したのだ。六角も三好もすんなり納得したし感謝された。三好にしてみれば先ずは天下を安定させる事が最優先課題だったのだろう。朝廷はそこまでで手を引いた。和睦の条件は三好と六角で纏めた。義輝には事後承諾だ。これをみても義輝に力が無い事が分かる。


 「明年には三好筑前守は相伴衆に任じられる」

 また溜息が聞えた。そうだな、三好家は数年前までは陪臣だったのだ。それが幕府でも最高の身分になった。溜息も出るだろう。

 「そして公方は知るまいが従四位下、修理大夫に任じられる」

 今度も溜息だ。でも今度の方が大きい。六角左京大夫義賢だって従五位下だ。父親の管領代が従四位下だから官位の上では長慶は管領クラスと朝廷は判断したという事になる。


 「公方様は傀儡か」

 御爺が痛ましそうな表情をしている。

 「政所執事の伊勢伊勢守が三好筑前守に協力している。筑前守は幕府を押さえた。公方が京に戻れたのも筑前守には幕府を動かすのは自分だという自信があるからだ。公方もその事を知ることになるだろう」

 我慢出来んだろうな、その事が永禄の変へと繋がる。三好筑前守は天下人になったと思っているかもしれん、天下は三好の物だと。だが乱世はこれからが本番だ。三好の天下は崩れ織田が台頭する時が来る。先ずは桶狭間だな



 


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[一言] 御爺また余計なことを……
[一言] >朝廷が高政を改元の二日前に治部大輔へ補任したのだ。これで六角は腰が砕けた。 混乱し、腰砕けになる六角家中の様子を外伝で拝見したいものです
[気になる点] 桶狭間などの少数の兵が多数の兵を破る戦い、それも首級を上げるのは乱数要素高すぎて何か関与したら再現しなさそうですが……前提にするんでしょうか?
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