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弘治三年(1557年)  八月下旬      山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱




 「困りましたの」

 「……」

 扇子で口元を隠して息を吐いているのは関白左大臣近衛前嗣だった。三年前に右大臣から関白左大臣に昇進した。十九歳で宮中の第一人者になったのだ。現在二十二歳。この男、後の近衛前久なのだから凄い、遂に朝廷もエースを出したかと言いたいんだが実は前任者が急死したから関白になったというオチが付く。


 前任者は一条兼冬というのだがこの男、関白になって一年ほどで死んでしまった。余程に年寄りなのかと言うとそうではない。二十五歳で関白になって二十六歳で死んだ。この男が長生きしていれば眼の前の男は右大臣のままだっただろう。戦国の巨人、近衛前久は存在しなかったかもしれない。そう思うと歴史って不思議だわ。歴史が人を作るのか、人が歴史を作るのか、こればかりは永遠の謎だな。


 前嗣は二年前には従一位に昇叙した。従一位関白左大臣だ、位人臣を極めたのだがこの時、足利家からの偏諱『晴』の字を捨て晴嗣から前嗣に名を変えている。つまりそれほどまでに京における三好の勢威は強まり足利の勢威は弱まっているのだ。前嗣でさえそこまでやらなければ京では生きていけないと思う程に足利の勢威は弱まっている。


 俺が元服して飛鳥井基綱、従五位下、侍従に任じられてから四年経ったが朽木に逼塞した義藤は逼塞したままだ。俺も宮中に籠ったままだから似たような境遇だな。唯一義藤がやった事は三年前に名前を義藤から義輝に変えた事ぐらいだ。しかしね、公家の中には未だ義藤だと思っている人間もいる。それぐらい存在感が無いし動きが無い。いや動けない。三好の勢いはそれ程までに強いと言える。


 「困りましたの」

 「真に」

 相槌を打つと今度は頷いた。少し嬉しそうだな、どうやら自分の苦衷を分かって欲しいという事だったらしい。なるほど、察してチャンか。面倒臭い奴だな。口が有るんだから口を使え! 困ったと言えば良いじゃないか。あ、言ってたな。俺の察しが悪いだけか。


 何が困っているかと言うと金が無い事だ。朝廷に金が無いのはいつもの事だ。驚くような事ではない。しかし近々に金が必要になる状況が発生するだろう。しかもその金は相当な額だ。それで困っている。

 「如何程かかりましょうか?」

 「そうでおじゃるの。記録によれば……、御大喪に一千貫、御大典に二千貫と言ったところでおじゃりましょうな。まあ御大典はともかく御大葬は……」

 関白殿下が溜息を吐いた。


 「遅らせる事は出来ませぬ」

 「そうでおじゃりますの」

 御大喪、つまり葬式の事だ。先々代の帝の時は酷い事になったらしい。崩御の後四十日以上放置されたままだったという。当然だが遺体は酷く損傷していたらしい。らしいというのも皆がその事については話したがらないからだ。公家は皆が日記を書くが都合の悪い事は書かない癖がある。多分殆ど記録が無いんだろう。酷い事になったという言い伝えだけが残ったのではないかと思っている。


 「後如何程?」

 小声で問い掛けると殿下が沈痛な表情で首を横に振った。長くないと見ているのだろう。……帝が死にかけている。以前から病気がちだったのだが今月の半ば頃から寝込むようになった。ここ最近は自力では起き上がれない程になっていると聞く。亡くなれば御大葬で一千貫、これは近々に必要だ。葬式というのは結婚式とは違う、待った無しだ。式は後でとは行かない。発生すれば必要になるのは先ず金だ。これ無しでは何も動かない。


 御大葬の後は御大典、つまり新天皇の即位式だ。一年間は喪に服すから来年という事になる。もっとも御大典なんて此処数代まともに行われた事は無い。二十年以上経ってから漸く儀式を行ったなんて例もある。だから先ず必要なのは御大葬の一千貫だ。だがその一千貫が出せない。


 「侍従、少しでも良い、飛鳥井家で出せませぬか?」

 縋るような眼で見て来た。朽木家で出せないかと言っている。公家社会では飛鳥井家は裕福で有名なのだ。朽木は利益の一割を俺に出す事になっているのだが年々その利益は大きくなりつつある。今では年に百五十貫を越える程になるだろう。


 多分公家達はそこまでは分からないと思う。だが朽木からは相当な額、年に五十貫程は俺に渡っていると見ている筈だ。そしてその何分の一かは飛鳥井に流れていると見ている。十貫ぐらいかな、だがそれだって公家にとっては大金なのだ。実際には養母と飛鳥井に二十貫ずつ渡している。他にも持明院、山科、葉室と色々と渡すところがある。俺の手元に残るのはそれほど多くは無い。それでもなんとか百八十貫程貯まった。現代で言えば二千万を超えるだろう。


 「殿下、幕府は、公方は頼れませぬか?」

 逆に問い掛けると殿下が恨めしそうな表情で俺を見た。

 「それが出来るなら……」

 溜息を吐いた。そう、そこが問題なんだ。本来御大葬、御大典、譲位等にかかる費用は幕府が出す事になっている。しかし応仁の乱以降、混乱に次ぐ混乱、戦乱の勃発で幕府財政は滅茶苦茶だ。とてもではないがそんな金は無い。おまけに此処近年は将軍が京に居ない事の方が多い。金など有るわけがない。朝廷から見れば足利など無責任な役立たずでしかない。殿下が晴の字を捨てるのも道理だよ。


 「ならば朽木も出せますまい。公方はそんな銭があるなら三好を討つために使えと言う筈でおじゃります」

 また殿下が溜息を吐いた。あんまり溜息を吐くなよ、こっちだって切なくなるだろう。それにしても自然とおじゃりますが出るようになった。もう立派な公家だな。

 「困りましたな」

 「真に」

 振出しに戻る、そんな感じだ。しかしなあ、廟堂の第一人者が夜中に九歳の男の子の部屋で溜息を吐くって……。いや、他に愚痴をこぼせる相手がいないんだろうな。金が無いって本当に辛いわ。


 俺と殿下は四年前の将軍解任事件の一件以来親しくしている。俺は吉岡流剣術を学んでいるのだが殿下も一緒に学んでいる。弓術も同様だ。吉田六左衛門という日置流の名人に宮中に来てもらって一緒に習っている。馬術は殿下から教わるといった塩梅なのだ。公家に生まれるより武家に生まれた方が良かったんじゃないかと思えるところも嫌いじゃない。割とカラッとしていて粘着質なところが無いんだ。何とか力になりたいんだが……。


 結局結論は出ず殿下は帰っていった。内大臣以上の地位に有る者は万一に備えて輪番で宮中に泊まっている。宮中に泊まると言っていたから今夜はそれのようだ。直ぐに養母が入って来た。様子を窺っていたらしい。ちなみに俺の部屋は養母の部屋の隣だ。時々俺の部屋に泊まっていく事もある。理由は一つ、馬鹿な女官が俺にちょっかいを出さないようにだ。カネの有る男は子供でも、いや子供の方が危ないらしい。

 「如何でした」

 「銭が無いという話で終始しました」

 「困った事」

 養母が息を吐いた。


 「薬師達は何とか御容態を快方にと手を尽くしているようですが……」

 要するに死なれちゃ困るんで必死に延命治療をしているという事だ。殿下も薬師達の尻を叩いていると言っていた。この時期だからな、遺体が傷むのは早い。それを避けたいという思いがある。金の工面が出来ない今、回復させるのが無理ならせめて寒くなるまで何とかしてくれという事だ。だがな、薬師達にしてみれば堪ったものじゃない。いつまで頑張るんだとぼやいているだろう。さっさと金の用意をしろと罵っているに違いない。金が無いってのは本当に辛いわ。


 「殿下は朽木を当てにしているようでおじゃりますな」

 「……でしょうね、可能ですか?」

 「難しいでしょう」

 金は出せる。一千貫なら出せる筈だ。役立たずの穀潰しが五十人近く居るが六角、畠山、朝倉等からの援助もある。御大典は無理だが御大葬は何とかなるだろう。だが殿下にも言ったが公方がそれを認めない筈だ。その事を言うと養母が唇を噛み締めた。


 「侍従殿、何とかなりませぬか?」

 縋るような眼だ。分かるよ、分かる。後を継ぐのは方仁親王だ。妻としては夫を助けたいと思うのは当然だろう。多分、親王も朽木に期待しているのだろう。俺も養母を助けたい。何と言っても俺を本当に大事にしてくれる。春齢よりも俺の方を可愛がっているんじゃないかと思う時もある。しかしだ……。


 「養母上、朽木に頼み込んで一千貫を出して貰う。難しいとは思いますが無理とは言いませぬ」

 「では?」

 養母の表情が明るい。胸が痛くなった。

 「問題は出して貰った後です」

 「後? 御大典の事ですか?」

 「そうでは有りませぬ。三好は朽木を攻め潰しますぞ。そして我らを殺す」

 養母が固まった。じっと俺を見ている。


 「朽木は足利の忠義の家です。朽木が御大葬の費えを用立てれば当然ですがそれは公方の命によるものと人は見ましょう。我らが動いたとも見る筈です。そして皆が公方は頼りになると思う筈。三好が公方を朽木に留めているのは京における公方の存在感を消すためでおじゃります。ですが御大葬の費えを朽木が用立てれば公方の存在感が増す事になる。三好にとって到底許せる事ではおじゃりませぬ。まして京の直ぐ傍に公方のために一千貫の銭を出す者が居るとなれば……。それをさせる者が朝廷に居るとなれば……」

 「……」

 養母の視線が泳いでいる。俺の言う通りだと思ったのだろう。


 「そうなれば六角、畠山も如何動くか……。畿内で大きな戦が起きかねませぬ。それを防ぐには三好と公方の和睦まで含めた形を作らなければ……」

 難しいとは言わなかった。現状では無理だ。それに御大葬は突発的に起きる。和睦を結ぶような時間は無い。


 「では無理ですか」

 悲しそうな声だった。

 「朽木を頼るのは無理です」

 「……」

 「……他に手が無いとは申しませぬ。ただ覚悟が要ります」

 「覚悟……」

 「その覚悟を親王様、関白殿下にして頂く事になります。養母上にもしていただきます。当然麿も。そうでなければこの手は使えませぬ」

 養母がジッと俺を見ている。


 「覚悟をすれば御大葬は無事に執り行われるのですね」

 「……多分」

 「御大典は?」

 「確約は出来ませぬ。御大葬の首尾次第でしょう。但し、この手を使っても戦が起きる可能性は有ります」

 「……」

 「ただ、上手く運べば戦を起こさずに済むやもしれませぬ」

 その可能性は殆ど無い。だから俺も踏ん切りがつかない。例え戦が起きなくても畿内には、いや天下には緊張が走る筈だ。それが何を引き起こすか……。その事を言ったが養母は微動だにしなかった。


 「その覚悟とは何かを教えてください」

 「……親王様にお伝えすると?」

 養母が頷いた。眼が座っている。俺が覚悟するよりも養母の方が先に覚悟を決めたらしい。

 「宜しいのですな? 後戻りは出来ませぬ。戦になりますぞ」

 「私は、そなたを信じています」

 やれやれだ。男の背中を押すのは女だな。理屈じゃない、信念、いや愛情が動かす。仕方ないな、やってみるか。




弘治三年(1557年)  八月下旬      近江高島郡朽木谷  朽木城  朽木稙綱




 「御久しゅうございますな」

 「真、久しゅうございますな、民部少輔殿」

 挨拶をすると相手が顔を綻ばせた。山科権中納言言継。我ら二人はどちらも葉室家から妻を娶った。いわば相婿の関係になる。朽木を訪ねてきても不思議ではない。だがこの地を自ら訪ねてくる公家など皆無、そして人払いを願っての面会、偶然ではない。京で何かが起きた。一体何が……。


 「八月も末というのに暑い。ここまで来るのに大分難渋致しました」

 「畏れ入りまする」

 「……」

 「……」

 言葉が途切れた。権中納言が一つ咳払いをした。

 「帝の御容態が宜しくおじゃりませぬ、御存じか?」

 「いや、存じませぬ。真で?」

 驚いて問い返すと権中納言が頷いた。

 「御回復は難しいと聞いております」

 帝が重体、その事実に驚いたが何処からもその知らせが来ない事に暗澹とした。公方様は見捨てられつつある……。


 「民部少輔殿、我ら万一の場合に備えなければなりませぬ。御大葬の費えを将軍家に用立てて頂く事は出来ましょうか?」

 「……」

 「大凡一千貫程でおじゃりますが」

 権中納言がこちらをジッと見ている。公方様とは言うが実際には朽木が立て替える事になろう。つまりそれで此処にきたか。銭の有無を確認しに来たのだ。一千貫か、不可能ではない。しかし……。悩んでいると権中納言が息を吐いた。


 「やはり無理でおじゃりますか。実は麿を此処へ遣わしたのは関白殿下と飛鳥井侍従でおじゃりましてな」

 「なんと!」

 竹若丸が……。

 「侍従より文を預かっております」

 権中納言が懐より文を差し出した。受け取って中を確かめる。公方様が反対すれば好都合と書いてある。なるほど、銭を出せば三好に攻め潰されるか。そうじゃな、確かに攻め潰されよう。飛鳥井も危ない。となると此処に来たのは公方様の顔を立てたという事、そして儂に銭を出すなという警告か……。気が付けば権中納言が儂の顔をじっと見ていた。


 「文の内容をご存じかな?」

 権中納言が“如何にも”と頷いた。

 「朽木に出して貰う事は出来ぬ。いやその前に公方様が出すのは許すまい、それで良いと」

 やはりそうか、権中納言が此処に来た目的は公方様の顔を立てる事か。だから儂とは相婿の仲の権中納言が来たのか。


 「それで、如何なされる」

 権中納言が少し躊躇う素振りを見せた。

 「三好に出して貰うと」

 「三好に」

 「京を押さえるのは三好、おかしな事ではないと」

 「……」

 公方様の面子は潰れよう……。そして京では三好の勢威が上がる……。


 「侍従が民部少輔殿に伝えて欲しいと言っておりました」

 「……何でござろう」

 「思うところは有るだろうが堪えて欲しいと」

 「……」

 「朽木が潰されればどの家も公方を受け入れる事に二の足を踏むだろうと。そうなっては公方は遠くを流離う事になる。それでは足利の権威は更に落ちると」

 「……」

 「それに家を潰しては負けだと。今の足利に潰れた朽木家を再興する力は無いとも言っておじゃりましたぞ」

 溜息が出た。その通りだ。今の幕府にその力は無い。三好家がそれを許すまい。


 「そうですな、生き延びねば勝つ事も出来ませぬ」

 「如何にも」

 二人で顔を見合わせて頷いた。

 「では公方様の下に参りますか」

 「案内を願いまする」

 儂が立つと権中納言も立った。足取りが重い。朽木を潰さず公方様も守る、ぎりぎりの選択ではある。だが心は晴れない。朽木も公方様も弱いのだ。弱いという事は惨めなのだと思った。それでも明日を信じて生きるしかない。


 「年は取りたくありませんの」

 「左様ですな」

 「段々と明日を信じる事が出来なくなる。残りが有りませんからの」

 「……」

 答えは無かった。権中納言も年だ。儂と同じような想いをしているのかもしれぬ。あれが居ればの、もう少しは明日を信じる事が出来たかもしれぬの……。




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うあ…本編の稙綱じいさんとのギャップすごいですね、竹若丸がいれば足利家への忠心はまだ残りましたがこっちでは厳しいですし、鬼才の孫がいないと生きる動力もなくなりそう…
[気になる点] 10話 耐える でいいかな? 関白殿下という符丁があるものだから、よく間違いますが、関白は皇族ではないので、殿下という敬称はつけません。 (豊臣秀吉が帝から豊臣という皇族の性を賜った…
[一言] お爺には笑って逝ってもらいたいが、こっちの話だと望めない気がする。 鰍釣ったりしてないし、もっと想い出を作ってあげてくれんか。
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