始まり
この小説は『淡海乃海 水面が揺れる時』の分岐小説です。主人公が朽木家を継げず公家になっていたらどうなったか。彼の眼を通して信長の天下布武を見て彼の協力でどう変わったかを楽しんでもらいたいと思います。
天文十九年(1550年) 十月 近江高島郡朽木谷 朽木城 朽木稙綱
部屋の空気が重い。四人の倅達、朽木長門守藤綱、朽木左兵衛尉成綱、朽木右兵衛尉直綱、朽木左衛門尉輝孝は身体を強張らせて蒼褪めている。そして朽木蔵人惟綱、朽木主殿惟安、日置五郎衛門行近、宮川新次郎頼忠は厳しい視線を四人に向けていた。平然としていたのは孫の竹若丸だけだ。
「公方様が長門守を次期当主にと申されたと? 真か?」
「はっ、これを」
長門守が懐より書状を出した。二通有る。受け取って中を確認した。間違いない、公方様の御内書と摂津中務大輔晴門殿の副状……。竹若丸は幼少なれば次期当主は長門守にと確かに書いてある……。
「その方、自らを売り込んだのか?」
“そのような事は”、“決して”と長門守が懸命に否定した。確かに、そのような事が出来る倅ではない。実直だけが取り柄なのだ。それは他の三人も同じ。だが……。
「ならば何故このような事になる。その方が自ら公方様に売り込んだとしか思えまい」
「……」
四人とも無言だ。
「その方ら何を隠しておる」
「申し訳ありませぬ!」
いきなり長門守がガバッと頭を下げると左兵衛尉、右兵衛尉、そして左衛門尉も頭を下げた。
「公方様より竹若丸殿の為人について御下問がございました。その際我ら些か変わった所が有ると申し上げ……」
「決して誹ったのでは有りませぬ。ですが公方様はその事を重視したのだと思いまする。申し訳ありませぬ!」
長門守、左兵衛尉が謝罪すると残りの二人も“申し訳ありませぬ!”と謝罪した。
「愚かな事を……」
それでは誹った、自らを売り込んだと同じで有ろう。蔵人、主殿、五郎衛門、新次郎の四人も渋い表情で四人を見ている。内心では思慮が足りぬ愚か者と蔑んでおろう。
「如何なされます、御隠居様。家臣達は皆が竹若丸様を当主にと望んでおりますぞ」
「五郎衛門殿の言う通りです。長門守様では納得なされますまい」
五郎衛門、新次郎の言葉に長門守が顔を歪めた。屈辱で有ろう、だが儂が見ても纏まらぬと思う。
「そうだの、……儂から跡目は竹若丸にとお願いするしかあるまい」
「そうですな、しかし幕府が重ねて長門守殿を当主にと推して来たときには?」
「……」
五郎衛門の問いに皆が押し黙った。受け入れるか、あくまで竹若丸を立てるか……。
「跡目は長門の叔父上で良い」
竹若丸だった。皆が驚いている。
「口を挟むな、そなたは自分が何を言っているか分かるまい」
嗜めると竹若丸が“いや、分かっている”と答えた。
「朽木は負け戦の後だ。敵は少なく、味方は多い方が良い。此処で幕府との関係が悪化するのは避けねばならぬ。幕府の力を利用して時間を稼ぎ態勢を立て直すのだ」
「!」
驚愕が有った。皆が顔を見合わせている。知恵付きの早い子供だとは思っていたが……。
「早まるでない、先ずは儂が」
「無用だ、御爺」
唖然としていると竹若丸が軽く笑った。
「幕府にゴリ押しされたら受けざるを得ぬのだ、違うか?」
「……」
「それに御爺の説得が上手く行けば幕府は面白く思うまい。幕府の意思が覆されたのだからな。それでは朽木と幕府の間がぎくしゃくする。百害あって一利も無い、止めた方が良い」
シンとした。確かに竹若丸の言う通りだ。しかし……、改めて竹若丸を見た。この幼さでそこまで人の心の機微を読むとは……。儂の孫は一体何者なのか……。
「朽木家の当主は長門の叔父上だ」
竹若丸が言い終えて蔵人、主殿、五郎衛門、新次郎に視線を向けた。
「左様心得る様に」
蔵人、主殿、五郎衛門、新次郎が“はっ”と答えて畏まった。惜しいわ、既に当主としての力量を示しているというのに……。長門守達も複雑な表情をしている。
「叔父上、頼むぞ」
「……しかし皆が納得するか如何か……」
長門守の声が細い。家中の者が自分の当主就任に納得するまいと考えているのだろう。
「案ずるな、叔父上。皆には俺が話す。敗戦後の当主が幼くては朽木家のためにならぬのではないか、次の当主は長門守が望ましいと将軍家からお言葉が有ったとな。俺もその通りだと思うと言う。御爺が賛成し大叔父上と主殿が親族を代表して、五郎衛門と新次郎が家臣を代表してそれに賛成する。皆も納得する筈だ」
「……」
長門守は納得していない。いや、長門守だけではない、皆が納得しかねている。竹若丸もそれを感じたのだろう、一つ息を吐いた。
「俺は母上と共に京に戻る」
“なんと”、“それは”、“なりませぬぞ”と声が上がった。蔵人、主殿、五郎衛門、新次郎が反対している。
「俺がここに居ては叔父上がやり辛かろう」
竹若丸が宥めたが誰も納得していない。
「元服したら竹若丸が当主になる。それではどうか? それなら皆も納得しよう。長門守も皆から疎まれる事も有るまい」
「それは良いお考えと思いまする」
蔵人が賛成すると主殿、五郎衛門、新次郎が賛成した。長門守、左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉も頷いている。
「それは駄目だ」
竹若丸が首を横に振った。
「俺が元服するまで最低でも十年はかかる。十年も陣代では叔父上も辛かろう。それが原因で家中に不和が生まれかねぬ」
「……」
「朽木のような小さい家が内で割れてはあっという間に滅ぼされるぞ。それで良いのか?」
皆が顔を見合わせた。
「朽木の家は長門の叔父上が継ぐ、その後は叔父上の子が継ぐ。俺は母上と共に京に戻る。これで決まりだ」
シンとした。確かに、十年以上陣代扱いでは長門守が不満に思うかもしれぬ……。
「申し訳ありませぬ、某の軽率な振舞いが斯様な事に……、申し訳ありませぬ……」
長門守が泣きながら謝罪した。左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉も謝罪した。
「しかし、竹若丸様が京に戻られては皆が納得するかどうか……」
新次郎が不安そうな表情で呟いた。五郎衛門が頷いている。
「心配は要らぬ。叔父上の手で朽木を豊かにすれば皆が叔父上を朽木の当主として認めるだろう」
皆が顔を見合わせた。
「豊かにするとは?」
問い掛けると竹若丸が“ふふふ”と笑った。
「色々と有る。皆に手伝ってもらう。必ず朽木は豊かになる筈だ」
「……」
「その利益の一割を俺に払ってくれ。さすれば叔父上も皆に責められぬ筈だ。俺も坊主にならずに済む。公家は貧しいのでな。頼むぞ」
そう言うと竹若丸が“ふふふ”とまた笑った。皆が顔を見合わせている。不安げな表情をしている。竹若丸は一体何を……。
「問題は幕府だ」
また妙な事を。竹若丸の発言に皆が訝し気な表情をした。竹若丸がそれを見て微かに笑った。苦笑したのかもしれぬ。
「長門の叔父上、これから幕府は色々と言ってくるぞ。兵を出せ、兵糧を出せとな。断れば誰の力で朽木家の当主に成れたのだと恩着せがましく言ってくるだろう」
皆が渋い表情をした。十分有り得る事だ。儂も幕府に仕えたからその事は分かっている。
「俺を当主の座から追ったのも変わり者では何を考えるか分らぬ。足利を見限るかもしれぬと思ったからだろうな。それなら叔父上を当主にし恩を着せて都合よく使おうという腹だ」
「竹若丸様の仰られる通りかもしれませぬな」
「うむ、兵を出せなどと言われては厄介よ」
新次郎、五郎衛門のやり取りに皆が頷いた。自然と皆の視線が竹若丸に向いた。
「まともに相手にせぬ事だ。朽木谷は京に近い。目立てば潰される」
「……」
「当分は敗戦の影響で身動きは出来ぬと言うのだな。当主が討ち死にしたのだ、多少損害を大げさに言っても不審には思うまい。三、四年は時を稼げよう。その後は家中が収まらぬ、自分に反感を持つ者が多く無理は出来ぬとでも言えば良かろう」
ウンウンと頷きながら聞いていた長門守が最後は苦笑した。弱い当主になる事は分かっている。それを利用するのかと思ったのだろう。
「しかし将軍家が此処に逃げて来るやもしれませぬぞ」
蔵人の言葉に皆が頷いた。
「受け入れれば良い、好都合よ。公方様が此処に居れば高島達は攻めて来ぬだろう。安心して領内の仕置に精を出せる。兵は出せぬがな」
なんとまあ、将軍家を利用しろと申すか。皆も呆れている。
「竹若丸よ、そなたは幕府を見限っているのか?」
儂が問うと竹若丸が声を上げて笑い出した。
「疾うの昔にな、俺は見限っているぞ。そういう意味では幕府が長門の叔父上を当主に据えたのは正しいな。褒めてやりたい程だ」
竹若丸が笑う。皆が唖然として竹若丸を見た。真、二歳なのか……。
「長門の叔父上、幕府のために朽木を使うのではない、朽木のために幕府を利用する、そう考えるのだな。変に仏心を出すと付け込まれるぞ。朽木家のためにならぬ。叔父上の判断次第で朽木家は大きくもなれば滅ぶ事も有るのだからな」
長門守が顔を蒼褪めさせながら頷いた。
「左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉の叔父上。叔父上方も同じだ。将軍家の傍に仕えるのは良いが公方様の御為などとは考えぬ事だ。己のため、朽木のためと考えて動いた方が良い。朽木が無くなれば叔父上方の利用価値は半減する。誰も相手にしなくなるぞ」
左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉が頷く。三人も蒼褪めている。
「さて、俺はこれから母上に京に戻る事を伝えねばならぬ。御爺、手伝ってくれ」
「分かった」
儂と竹若丸が立ち上がると皆が頭を下げて畏まった。惜しいわ、惜しい。竹若丸が後継ぎであれば……。
「残念じゃの」
「……已むを得まい。朽木を守るためだ」
声に幼児らしからぬ苦渋が有った。憐れな……。
「竹若丸よ、そなたはこれから如何するのだ?」
廊下を歩きながら問うと竹若丸がチラッと儂を見た。
「公家になる」
「公家にか」
竹若丸が頷いた。そして笑い出した。
「妙な公家になるだろうな。皆が呆れるような」
「かもしれぬの」
儂も笑い出した。祖父と孫が笑う。当主の座を追われるという暗さは何処にも無い。妙なものよ……。