王妃の行方
二日後の昼過ぎ、ドンタイア村にたどり着いた。
坂を登った小高い丘の上。そこに木の柵で囲まれた一帯の土地が見えてきた。
石垣がないのは、丘そのものの傾斜が囲いとして機能しているためだ。ドンタイアは自然の地形を利用して建てられた農村だった。
元々、ドンタイアは人口数千人ほどの村だった。王都イドリスへ農作物を販売することで栄えてきた歴史があった。
過去形なのは、今この村がもぬけの殻だからである。サンドロスがイドリスから落ち延びる際、その住民を避難させたのだ。
その際、まだ実り切らない作物もあり、渋る農民も多かった。
だが、ラグナイに村を占領されては、作物も略奪されてしまう。そしてその物資が敵の戦力となり、イドリス全土を更なる危機にさらすに違いない。
そういったことを懇切丁寧に説明すれば、結局は皆サンドロスに従った。農民達は、急ぎ作物を回収してテネドラに向かったのである。
サンドロスは村の内部へ事前に偵察部隊を潜ませていた。
敵軍を発見したら無理せず撤収と指示していたが、その気配はなかったようだ。偵察部隊の案内に従って、サンドロスの軍も柵の内側に入っていった。
ソロンの目に無人となった農村の姿が目に入った。
作物もなければ耕す者もない寂しい畑の数々。
ほんの数ヶ月前に放棄されたにしては、畑も民家も酷く荒れ果てている。というのも、少し前にこの村では戦闘があったからだ。
ラグナイ軍は一度、この村へ手を伸ばしたらしい。だがその時には、既にサンドロスがテネドラの町に軍を結集していた。
サンドロスは軍を率い、速攻で村を目指した。そして、村に駐留したばかりの敵軍へ戦闘をしかけたのである。
イドリス軍は当然のことながら、村周辺の地形を知り尽くしていた。
その上、撤収する時点で既に、敵に奪われる事態も想定していた。登りに適した場所や、柵の破壊しやすい場所に目星をつけていたのだ。
イドリス軍は一気に丘を登り、柵を破壊して四方から攻め立てた。敵軍を夜間の奇襲によって、散々に追い散らしたのである。
結局、ラグナイ軍はドンタイア村の支配を諦めた。
それ以降、ラグナイ軍は王都イドリスの支配に注力していたようだ。この村へと再び手を伸ばす気配はまだなかった。
防衛拠点としては心もとなく、既に作物も回収され無人となったこの村である。さほどの価値も見出だせなかったのかもしれない。
ラグナイ軍を追い払ったとはいえ、ここがその支配領域に近いことは確かである。サンドロス率いる軍団は、敵の手の者が忍び込んでいないかを慎重に確認した。
ソロン達も油断なく目を配りながら、村の中に入っていく。
どうやら問題はなかったようだ。さほどの時間はかからず、村は無事に軍団の駐屯地として占拠された。
本来の村民は今、テネドラの町に暮らしている。サンドロスはその住民達と交渉して、もぬけとなった民家を利用させてもらうことにしていた。
もちろん、兵には民家を丁寧に扱うよう達しも出している。
ここでイドリス王国軍は臨戦態勢を取ることになる。王都の敵が迎撃のため、出陣してくる可能性は大いにあった。
*
夕食時、ソロン達はサンドロスの食卓へ招かれていた。
サンドロスが借りている家は、この村の村長が住んでいたものである。それが村では一番大きな家だったため、大将が留まるには都合がよかった。
「実際のところ、勝ち目はどうなのかな?」
ソロンとしては、サンドロスがどれだけの自信を持っているか確認したかった。
「なければしかけない。まあ、やれるだけのことはやってみるさ。俺達には竜もあるしな。あいつらなら、ラグナイの連中も蹴散らしてくれるだろう」
「もしかして、あの子達が戦うの?」
サンドロスの秘策に、反応したのはミスティンだ。
彼女にかかれば竜であろうとあの子扱いである。肉を持つ手を止めて、サンドロスの口元に注意を向けていた。
「ええ、我らがイドリス戦竜部隊です」
ナイゼルが誇らしげに頷いた。当然のように、彼も食卓に参加している。
「戦竜……ですか」
アルヴァも興味深げではあったが、同時に疑ってもいるようだ。
「――かつて象を戦争に用いた例ならば存じていますが、そのようなものは聞いたこともありません。本当に可能なのですか?」
「もちろんです。人間相手への投入は初めてですが、魔物との戦いでは既に優秀な結果を出していますよ」
ナイゼルは相変わらず自信にあふれていた。
「出たとこ勝負ではあるがな。多少不安はあっても、使えるものは使うしかない。出し惜しみできるほど戦力に余裕もないからな」
対照的にサンドロスは慎重な口振りである。それでも戦竜を投入する方針にゆるぎはないようだ。
「見たいな~」
ミスティンは期待で、空色の瞳をキラキラと輝かせていた。
「女が喜んで見るもんじゃない。戦場でのことだから、戦竜も無事に帰ってくるとは思わないほうがいい。竜が好きならなおさらだ」
サンドロスは現実的な答えを返した。
「んー、ソロンじゃあるまいし、そこまで子供じゃないけど」
ミスティンが口をとがらせた。ソロンを引き合いに出すのは余計だが、言わんとすることは分かった。
彼女は動物を愛すると共に、その命を狩る狩人でもある。動物の生死に取り乱すような性格なら、絶対にそれは両立できない。
サンドロスは話題を転じて。
「それより、後は敵がどう動くかだ。打って出てきてくれるほうが、ありがたいが……。動かないなら、こちらからしかけるしかない」
ソロンも兄の意を汲んで賛同する。
「さすがに、王都を戦場にはしたくないからね」
「そうだな。せめて突入するまでに、敵の戦力は削っておきたいところだ。お前達にも期待してるぞ」
「分かってる。心構えはしておくよ」
「本格的な戦闘まではまだ時間があるだろうが、訓練はしておけよ。ただし疲れすぎない程度にだ。いざ実戦という時に、ヘトヘトになっていては目も当てられん」
ソロンも頷いて、戦いへの決意を新たにした。……もっとも、訓練する時間はさして得られなかったのではあるが。
*
翌日の日が明けてまだ早い時間。
ソロン達はサンドロスと共に朝食を取っていた。
「サンドロス殿下!」
サンドロスの元へと、兵の一人が飛び込んできた。
兵は低い姿勢で、地を這って駆けてきていた。というのは、彼が狼の亜人だったからである。亜人の中には四本足で疾走する種族が多くいた。
狼兵の息は荒い。舌をだらしなく口から出しているが、注意する者はいない。亜人に人間の礼儀を押しつけることが正しいとは限らないのだ。
「どうした、何があった?」
パンをどうにか飲み込んで、サンドロスが答えた。
「はい。それが……」
狼兵が息を飲む様子が窺えた。
「――イドリスの市民が、南へと連行されているようなのです。ラグナイの者は十を少し超える人数。連行されるイドリス人は数十人。中にはペネシア王妃の姿もあったと報告がありました」
「母さんが!?」
ソロンが驚いて叫んだ。敵に動きが起こるのは想定内ではある。だが、ついにその時が来たのだ。
「あいつら、何のつもりだ!?」
サンドロスも色を失い声を上げる。
「それがどうも、呪海の亀裂へと向かっているのではないかと」
狼兵はなおも驚きの報告を上げた。
「呪海の亀裂だと……!? それは確かか?」
「はい。偵察の者が粘り強く監視し、会話を盗み聞いたそうです。糧食も途中のセベア村を目指すには不自然に多いと」
「まさか……彼らの儀式ではありませんか?」
ナイゼルが推測を述べた。ザウラスト教団は呪海を信仰する教団だ。その宗教儀式には呪海が関わってくることが多い。
「確かに、ヤツらのことだ。何をしでかすか分かったものではない。……その一団がイドリスを出たのはいつのことだ?」
サンドロスの問いに、狼兵が答えて。
「出発した日時は分かりかねますが……。昨日、昼の時点でここから東へ十里の位置を通ったとか。恐らく、セベア村を経由して進むと思われます。それを偵察の者が確認して、急ぎ駆けてきたところです」
ここドンタイアから東に十里の位置……。
偵察や伝令には数多くの亜人兵が使われている。それは隠密行動や早駆けにおいて、人間より優れた者が多いからである。
例えば、彼のような狼兵ならば、足音を忍ばせて歩くのはお手のものだ。速さでは少しばかり馬に劣るが、馬のように目立ちはしない。
それでいて、人間には追いつけない速さで走れるのは大きな利点だった。
そんな彼らによって、駅伝形式で交代しながら伝令は行われる。その仕事はとても速やかなものだった。
とはいえ、既にイドリスを発ってから数日が経過しているのも確かだ。追いつくためには時間的な余裕はさほどない。
「兄さん、早く追いかけないと!」
ソロンは焦ったが、サンドロスは苦渋の表情を浮かべる。
「……陽動かもしれん。敵は俺が動くのを誘っているのかもな」
確かにその可能性は考えられた。
王妃ペネシアをエサにして、戦力を分断。その隙を狙い、この村に駐留している部隊を襲撃するという計画かもしれない。
「でも……!」
「ソロン、頼まれてくれるか? お前が母さんや皆を助け出すんだ。俺はここで敵の本隊と対峙しなければならない」
「僕が……!?」
小さな軍とはいえ、イドリス軍にも数々の人材がいる。自分よりも、適任がいるのではないかという気持ちがあった。これは重要な任務であり、失敗は許されない。
「いや、お前にしか頼めん」
兄は厳しく言った。決して楽な仕事ではない。ソロンを信頼しているからこそ、兄は託そうとしてくれているのだ。
逡巡するソロンの肩に、アルヴァが手をかけた。
「お母様を見捨てるつもりがないなら、あなたが行くべきです。もちろん私も精一杯の助力をします。少なくとも私は、何があろうとあなたに従う気でいますから」
そう言って、ソロンの背中を押してくれた。
「元々、戦に向かうつもりだったからな。俺はどこに行こうと覚悟はできてるぜ。お前に任せるから、とっとと決めな」
グラットは乱暴ながらも、ソロンに決断を委ねてくれた。
「……竜が戦うところも見たいけど、ソロンのためなら諦めるよ」
ミスティンだけは渋りながら言った。よほど戦竜が見たかったらしいが、それでもソロンの意志は尊重してくれる。
「分かった。僕達に任せて欲しい」
ソロンも腹をくくった。
「頼んだぞ。あまり多くの人数はさけないが、兵もつけよう」
サンドロスも多くは語らず、それだけ言って承知した。言葉は少ないが、それこそが信頼の証でもあった。
……だがそうなると、その集団に追いつくための方策を考えなくてはならない。敵と同じ道をたどっていては難しいはずだ。
ならば――
「砂漠を抜ける必要がありそうだね。それも黒雲の下を」
砂漠を抜けることで、おおよそ数日の行程を省くことができた。ならば、これを使わない手はない。
サンドロスも考えは同じだったようで頷いた。
「ああ、それしかなさそうだ。言うまでもなく危険だがな。砂海に落ちるなよ。特に暗闇での行軍は絶対禁止だ」
暗闇での行軍――黒雲の下においては夜だけではなく、昼の行軍も含まれる。昼間は上界に遮られて、太陽の光が届かなくなるのだ。
下界の人間は原則として、黒雲の下を通らない。通るにしても、長時間は留まらない。なるべく日の光が届く内に通り抜けるのが通例だ。
「私も坊っちゃんに同行したいのは、やまやまなんですがね……。あいにく仕事がありますから」
「分かってるよ。ナイゼルは兄さんの手助けをお願い」
ナイゼルの魔法は大軍での戦いで、効果を発揮できるものだ。彼を引き抜いては、兄も苦戦を免れないだろう。
加えて、騎馬での強行軍にはナイゼルの体力では心もとないという事情もあった。体力についてはアルヴァのほうが、よほど頼りになるというのがソロンの認識だったりする。
「竜車を一台連れていけ。あれなら馬にだって遅れはとらんだろう」
走竜の走る速さは人間とさほど変わらない。ただし、走竜の強みはその持久力と力強さにある。何時間も動く前提なら、馬にも決して遅れをとらなかった。
「ありがとう。さっそく準備するよ」
ソロンは頷くや準備に走った。あまり時間をかけるわけにはいかない。