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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
序章 雲海の帝国
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紅玉帝の憂鬱

 ネブラシア城の皇帝執務室に、一人の娘が(たたず)んでいた。

 腰まで伸びる長い黒髪に、黒一色の質素な衣装。印象的な紅い瞳……。

 帝国法上は成人しているものの、人によっては少女と表現するような若さである。

 執務室の内装は、主の性格を表すように質素だった。実際、余計な物は気が散るとばかりに、華美な装飾を片付けさせたのは部屋の主である。


 黒髪の娘のそばへ寄り添うように近づいたのは、中年の女だった。娘とは母と子ほどに年は離れているが、まだ若々しさを保っている。


「マリエンヌ……。院の協力は得られませんでした」


 黒髪の娘――女帝アルヴァネッサは深々とため息をついた。


「残念でしたね。全く元老院の連中と来たら、アルヴァ様に黙って協力すればいいのにっ!」


 マリエンヌが悔しそうな顔で怒りを表した。

 皇帝秘書官を務める彼女は女帝を昔から、アルヴァと愛称で呼んでいた。皇帝となるよりも、遥か以前からの付き合いである。


「まあ、予想はしていましたが……。何事も思い通りとはいきませんね」


 息抜きに、アルヴァは南の窓から城外を見下ろしてみる。

 城下はたくさんの人々でにぎわっていた。

 精力的に品物を売り込む商人の姿。建設中の建物に材木を運び込むたくましい亜人の奴隷達。竪琴を奏で、何かの英雄譚を歌う詩人も見える。


 遠くを眺めれば、目にも鮮烈な白い海の姿。かすかな波も穏やかに、雲海は静謐(せいひつ)を保っている。

 そして雲海に面したネブラシア港からは、今まさに竜玉船が出港しようとしていた。


 千年にも及ぶネブラシアの繁栄……。

 歴史の中で数々の苦難にさらされてきたが、全てを乗り越えた末に今日の繁栄がある。それはこれからも永遠に続くものと、誰もが信じていた。


 アルヴァの父――先帝オライバルが病死してもうすぐ一周忌になる。

 今、彼女は力を渇望していた。

 半年前に起きた北方の亜人との戦いでは、自ら前線で杖を握り勝利を収めた。しかしそれも、局所的な勝利に過ぎないことはアルヴァ自身が誰よりも理解している。


 雲海を越えて(はる)か北にあるという亜人の国ドーマ。

 実際にその国家を目にした者は帝国にない。捕虜の亜人より得た断片的な情報があるに過ぎなかった。


 亜人共の恐ろしさは、その人間離れした多様性にある。『亜人』と一言で表現しているが、その内部は多数の種族に分かれていた。

 獣のように全身が毛皮で覆われた種族。

 鳥のような翼を持った種族。

 雲海を泳ぐヒレを持った種族……。

 身体的特徴を駆使して雲海を渡る者もいれば、竜にまたがって雲海を越えて来る者もある。どちらにせよ、その機動力は侮れない。


 それでいて、亜人は魔物よりもずっと高い知能を持っていた。

 種族によって知能には格差があるようだが、優れたものは人間と大差ないと考えたほうがよい。

 人間並の知能と人間離れした身体能力。そこから編み出される戦略と戦術は人間の予想を覆すこともあった。


 いつまでも現行戦力で対処できるなどと楽観すべきでない。

 そもそも、帝国の敵は亜人だけでもないのだ。

 西のプロージャ連合国に、南のサラネド共和国……。ここ数十年は表立った戦いこそなかったが、潜在的な仮想敵国は他にも存在していた。

 大局を考えるに、より大きな戦力――それも圧倒的な力が必要なのは明らかなのだ。

 だというのに元老院の者達は……!


『予算がないので……』

『私の領地も苦しいので、これ以上徴兵するわけには……』

『亜人がそこまでの脅威だとは思えませんが……』


 と、口を開けば言い訳ばかり。

 北方のカンタニア州は帝都からすれば遠方だ。しかも帝国の領地としては新参である。

 だから心の底では、自分達とは関係ないと思っているのだろう。万事に消極的でアルヴァの力になろうとしない。


 出自を問わず、領地と民を守ってこその帝国だ。

 それが誇りある貴族の姿なのか。

 何のために先祖代々の議席があるのか。

 役に立たぬなら議席なんて没収してしまえばいい。

 アルヴァは憤懣(ふんまん)やるかたなかった。


 ……だが、現実には元老院の権力は無視できない。長い帝国の歴史の中で、皇帝と院は時に対立し、時に協調してきた。

 皇帝の権限は、決して元老院を圧倒しているわけではないのだ。

 そもそもを言えば、アルヴァは本来皇帝として戴冠(たいかん)する見込みは薄かった。

 皇帝の娘としてその秘書官を務めていたし、才覚もあった。しかし、当時十七歳の若い女でしかなかったのだ。


 それを(くつがえ)したのも元老院である。

 大方、彼らなりに打算の末に出した結論だったのだろう。けれど、そんな事情は知ったことではない。

 経緯はどうあれど、今はアルヴァが皇帝だ。皇帝たるものが元老院の連中に侮られてはならない。

 必ずや強大な力を手にし、亜人との戦いに完全勝利を収める。

 そして、帝国の最高権力者が誰であるかをしらしめるのだ。


「アルヴァ様、神竜教会から手紙が来ていますが……」


 アルヴァが思考の海に沈んでいると、秘書官から声がかけられた。


「教会から? 何事でしょうか?」


 神竜教会から手紙を受け取ることは珍しくない。慈善事業への寄付の願いや、祭事に関する連絡など、内容は多岐に渡る。

 ただそういった手紙ならば、マリエンヌはいつも黙って机の上に置いておくだけである。


 わざわざ声をかけてくるのは、何か特筆すべき点があるという意味合いなのだ。

 それでありながら、マリエンヌは手紙を渡すかどうか、迷っているように見えた。アルヴァに見せては、都合の悪い内容が含まれているのだろうか?


 それがなおさらアルヴァの興味を引き立てた。秘書官から素早く手紙をさらい目をやる。


「なるほど、面白い……。神竜教会は元老院よりもよほど役に立ちますね。次の休暇はこれにしましょう」


 手紙には兼ねてから、アルヴァが気にかけていた事柄が書かれていた。


「はあ……」


 爛々(らんらん)と紅い瞳を輝かせるアルヴァを見て、呆れたようにマリエンヌが溜息をついた。

 それには目もくれず、アルヴァは紙と羽根ペンを手にして文を書き始める。流れるように文章が書き出されていく。


「アルヴァ様。何を書いてらっしゃるのですか?」

「それはもちろん、冒険者を召集するのです。さっそく掲示を出しましょう」


 振り向きもせずに、アルヴァは答えた。意識は紙上の文面へと注がれている。


「また、何か危険なことをされるおつもりなのですね? どうかもう少しだけ、(つつし)んでいただけないでしょうか?」


 亡き母の幼なじみであったマリエンヌとは、幼少からの付き合いである。

 アルヴァが戴冠してからも遠慮はない。前回の戦争においても、最も遠征に反対したのは彼女だった。


「心配無用です。早ければ一週間程度で終えるつもりですから。それより、休暇の間は留守をお願いします。議員のあしらいはあなたのほうが達者ですから、心配ないとは思いますが」

「はあ……」


 それを聞くなり、マリエンヌは再び溜息をついた。

 わざと、こちらへ聞こえるようにしているのは分かっている。だが、その程度で揺らぐアルヴァではないのだった。

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