タンダに別れを
「ではでは、出かけて参ります。今日はたくさん人を集めてみせますよ」
翌朝、ナイゼルは早くから宿を出る構えだった。昨日に引き続き、村の勇士を集うらしい。
「でも、そんなにたくさん集まるかなあ……。僕も協力したほうがいい?」
こんな小さな村である。そこまで多くの人が集まるとは思えない。もっとも、そんな村にまで頼らねばならないのが、今のイドリスの現状なわけだが……。
それでも、王子という自分の立場を使えば、少しは人も集まるかもしれない。
「いえいえ、坊っちゃんはお疲れでしょう。今日は明日の準備だけをして、後はゆるりとお過ごしください。ご心配には及びません。私にお任せあれ」
そう言って、ナイゼルは眼鏡を押さえてキザな格好を取った。……クセではなく自覚的にやるからタチが悪い。
ナイゼルは部下を連れて宿を出ていった。昨日は気づかなかったが、部下の兵士も連れてきていたらしい。
「あいつ、大丈夫なのか?」
それを見送ったグラットが本音を漏らした。
「ま、まあ不安になるのは分かるけど、ああ見えてナイゼルは優秀なんだ。仕事はちゃんとやる男だよ」
これは正直な感想だった。
ナイゼルは魔道士としての実力も確かだし、色んなことに知恵が回る。ソロンが何も言わなくても、いつの間にか手を回しているような男だ。
「あなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね」
アルヴァは一応、納得してくれた。
相変わらずナイゼルを胡散臭く思っているようだが、ソロンのことは信頼してくれるらしい。それがちょっとだけ嬉しかった。
その日はナイゼルに言われた通り、出発の準備に専念すると決めた。
……といっても、食料や水といった物資はナイゼルが用意済みらしい。さして手間をかける必要はなさそうだ。
*
翌日の準備を終えたソロンは、宿の一室へと戻った。
壁に背を預けて、本とにらめっこするアルヴァの姿が目に入る。
ソロン達が準備をしていた間、彼女はゾゾロアやリサナといった知り合いの元へ寄っていたようだ。それも終わって、一足先に戻っていたらしい。
ちなみに、ミスティンとグラットの二人はまだ買い物を続けている。
こちらの気配に気づいて、アルヴァが顔を上げた。紅玉の瞳と視線を合わせれば、かすかに彼女がほほえんだ。
「ソロン」
待ちかねたというような表情で、彼女は隣を指し示した。
指図の通りに座るが、少しだけ間を空ける。
ソロンはいまだ、彼女との距離感をつかみかねている。あまりなれなれしくするのは気が引けた。
「それって、下界の本?」
「はい。この機会にぜひ、下界について学びたいと思いまして。村長から何冊か頂いてしまいました」
「へえっ、勉強熱心なんだね」
言うほど簡単なことではない。
上界と下界の文字には相当な類似があるとはいえ、差異もそれなりのものだ。帝都でその経験をしたソロンは身を持って実感していた。
「なので、ご協力願います」
アルヴァがソロンとの間隔を詰めて、本の内容を見せてきた。……距離の近さに少し緊張する。
「それっておとぎ話の本だよね」
「私としては神話の本のつもりですが……。似たようなものかもしれませんね。子供向けのほうが読みやすいかと思いましたので」
「なるほど。僕も帝都でいくつか本を読んだけど、大人向けのものはやっぱり厳しかったな」
「そうなのですか? あなたは随分と上界の言葉に慣れているように見えますが……」
「けっこう苦労はしたよ。先生に教わったから、なんとかなったけど」
「教わった? 帝国語の講師がいるのですか?」
「うん。上界から、追放されてきたんだって」
「ああ、私以外の追放者ですか」
そう聞いて、アルヴァは合点がいったようだった。
「――村長もそうおっしゃっていましたね。ガノンド・オムダリアであっていますか?」
「そうそう! ガノンド先生だよ」
間違いなくソロンの恩師の名前である。原則として姓を持たないイドリス人の中で、希少な家名の持ち主である。
「私が生まれる何年か前……確か祖父の在世に追放されたと聞きました。確か、ドーマの亜人と通じて謀反を企て、追放刑を受けたとか」
「その辺の経緯はよく知らないけどね。先生、あんまり話したくないみたいだったから」
「その気持ちは分からなくはありません。ともあれ、その方から帝国について教わったというわけですね」
「うん」
と、ソロンは頷いた。
例えば、『帝国』や『皇帝』といった言葉はこちらには存在しない。それはガノンドから習って初めて知った概念だった。
「――追放が二十年以上も前だし、情報が古くて困ったけどね。わしの予想が正しければ今の皇帝はオライバル様じゃ――とかなんとか」
ところが上界に行ってみれば、オライバル帝は死去していた。
地位を継いだのはその娘……。しかも、その娘もたった一年で地位を追われ、なぜだか今はソロンの目の前にいる。
「確かに四十六歳とは、亡くなるに早い歳ではありました」
帝国のように豊かな環境では、平均寿命は下界よりも長くなるはずだ。四十六歳はとても早死というわけではないが、惜しいと思わせる年齢ではあっただろう。
「君は皇太子じゃなかったの?」
気になったので聞いてみた。
皇帝が死ぬよりも前に、後継者として皇太子を指名する。帝国ではそれによって、争いなく跡継ぎを使命する制度だと聞いていた。ならば、彼女の時にはどうしたのだろう?
「いいえ、父の生前に皇太子の指名は行われませんでした。男子がいれば迷うこともなかったでしょうが……。待望の弟は名前もつかぬうちに亡くなってしまいましたから」
生まれた乳児が数日も経たずに亡くなるのは、下界でも珍しくはない。恐らくは上界でもそうなのだろう。
「そうなんだ。……それは、悲しかったろうね」
『あなたは私の弟のようなものですね』
少し前、彼女はソロンに対して嬉しそうにそう口にしていた。そこには夭折した弟への郷愁もあったのだろうか。
アルヴァはゆるやかに首を振って。
「物心つく前の話で、悲しいという記憶もないのですけれど。……父にしても、いずれ後継を指名せねばならなかったのは確かです。私などは、早々と従兄を選べばよいと思っていましたが……。また弟が生まれるのを待っていたのかもしれません」
一度、皇太子を指名してしまえば、それを覆すのは皇帝とて容易ではないのだろう。
新しく男子が生まれたからといって、変更を宣言すれば火種となる。その程度のことはソロンにも想像がついた。
「かもしれないけど……。君のお父さんからしても、甥よりは自慢の娘を指名したかったんじゃないかな? 君みたいな優秀な子供がいたなら、そう思っても不思議じゃないよ」
死人に口なし。……とはいえ、彼女のような娘がいたならば、父としてもまんざらではなかったのではないか。
指名を先延ばしていたのは、慣例と異なる上に、彼女がまだ若く見定める必要があったからではないか。
もちろん、ソロンの想像に過ぎないが、そう考えることもできた。
「高く評価していただけるのは嬉しいのですが、買い被りすぎではないでしょうか」
と、アルヴァは謙遜する。
「――なんにせよ、父は死の数日前までは壮健だったもので、突然に誰を指名することもなく逝ってしまいました。私などはしばらく陰謀を疑ったものです」
「陰謀?」
「例えば毒を盛られたのではないかと。もっとも、宮廷医師団の調査でも不審な点は見当たりませんでした。結局は過労による無理が祟ったと、納得する他ありません」
「その結果、君が皇帝になったわけだ。……少なくとも、僕には荷が重いから、兄さんが健在でよかったよ」
ソロンはしみじみとつぶやいた。
兄が元気でいる限り、ソロンに王位が回ることはない。ややこしい問題が起きないという意味でもありがたかった。
「ええ、身内が元気なのは何よりです。……ところで、あなたの先生は元気にしているのですか?」
話が途切れたのを機に、アルヴァが話を戻した。そもそもは、彼女が今も手に持つ本を契機に始まった会話なのだ。
「ごめん、ずいぶん話がそれちゃったね」
つい話に夢中になってしまった。内容はなんてこともないのだが、アルヴァの話しぶりは流麗でどこか心地よいものがあった。
「構いませんよ。時間はいくらでもありますから」
予定では旅は五日間。話す機会は確かにいくらでもあった。
「先生の安否なら昨日、息子に聞いたよ。確信はないけど、たぶん王都に囚われているだろうって。無事だったらいいんだけど……」
ラグナイ王国とザウラスト教団は得体のしれない相手ではある。それでも、さすがに支配した町の民を皆殺しにはしないだろう。殺すぐらいなら労働力として扱ったほうが、有益なはずだ。
「息子? この町にご子息がいらっしゃるのですか?」
「あはは、昨日紹介したけどね。ナイゼルだよ」
「まあ、そうだったのですか……?」
アルヴァが意外な情報に驚きを見せた。
ソロンは頷いて。
「上界にも奥さんがいたらしいけど、追放される時に別れたって。……で、こっちでも再婚したんだ」
「そういうことですか」
と、アルヴァは納得する。
「――ともあれ、私としても、あなたの恩師にはぜひ話をお聞きしたいですね。亜人と内通した罪――と伝わってはいますが、その真意をじかに知りたいものです。……尊敬できる人物なのでしょうか?」
「うん。少なくとも悪人ではないよ。帝国では罪に当たったのかもしれないけど、私利私欲で何かするような人じゃないから」
ガノンドは帝国では罪人かもしれない。
それでも悪人と決めつけずに、彼女は興味を持っている。追放者という境遇を同じくする者への共感があったのかもしれないが、自分の師に対する配慮が嬉しかった。
「では、その方も助けださねばなりませんね」
ソロンは頷いて、再びアルヴァが手にする本へと目をやった。本の内容については、何も触れていない。話を戻して切り出そうと思っていたら――
「お~い、メシ行こうぜ!」
と、グラットが戻ってきた。
「あれ、下界の本なんて読んでるの?」
一緒に顔を出したミスティンが、アルヴァの本に気を留めた。
「はい、ソロンに聞きたいことがあったのですが……。またの機会にして、今は夕飯にしましょう」
アルヴァが本をたたんでしまったので、話が途切れてしまった。