偽りの海
三日目――朝から森に入った。
森の中は、草原以上に豊かな生物であふれている。下界に初めて来た者ならば、注意を引くものはいくらでもあった。
「何じゃありゃ!?」
グラットがいつものように驚きの声を上げた。下界では驚くことが多すぎるためか、既にこの反応自体がマンネリと化してきた。
彼が目に止めたのは巨大なイソギンチャクのような木。白くて太い幹に紫の触手がウネウネとうごめいている。
「誘い樹だね。食虫植物だよ」
これも、ソロンにとっては得体の知れない植物ではない。
下界には様々な食虫植物が存在する。誘い樹はその中でも巨大な部類に位置していた。
「虫を誘って取るってこと? じゃあ、人間は大丈夫なのかな?」
ミスティンは奇妙な植物に興味を持ったようだ。
「やってみたら?」
ソロンが冗談半分で言ってみると。
「馬鹿、誰がやるかよ」
「いやでも、あの触手は結構面白いよ」
「面白くてもやらねえよ。そんな気持ちわりいこと」
グラットが強く拒否した。
しかし、ミスティンはゆらゆらする触手から目を離せないようだ。そして、恐る恐る誘い樹に近づいていく。好奇心には勝てないのか、とりあえず触ってみようという魂胆らしい。
「あっ、あんまり近づくと危ないかも……」
さすがにまずいかなと思いながら、ソロンが悠長に注意するが――
途端、ミスティンの顔に誘い樹の触手が巻きついた。
「んにゃ!?」
奇妙な悲鳴をミスティンが上げた。慌てて触手を引きはがそうと力を込める。
触手はあっさりとちぎれた。
――が、あまりにもあっさりだったので、勢い余ってミスティンは転びそうになる。そこは駆け寄った二人が受け止めたので、事なきを得た。
「おい、大丈夫か」
「うぐ……」
ミスティンはうめき声で返事をした。
あまり大丈夫ではないらしい。ゆがんだ顔を紫色に染めていた。……比喩ではなく、本当に触手の液が付着して紫に染まっていたのだ。
「ご、ごめん。もっと早く止めるべきだったね……」
ソロンはそう言いながらも、思わず笑いそうになった。慌てて口元を押さえて隠す。
誘い樹は人間へ強い危害を加えることはない。獲物にするのは精々が虫や小鳥といった小動物だ。
人間のような大きな生物に触手が巻きつくこともあるが、力は乏しくそれ以上はできない。だから、あれは犬が人間の顔をなめる行為と大差はない。
ソロンが真剣に制止しなかったのは、それを知っていたためだ。
ちなみに触手に付着しているのは樹液である。
様々な用途に使われるが、最も有用なのは染料だ。紫の染料は貴重なので、抽出すればよい稼ぎにもなる。他にも接着剤の原料になるし、調味料として使われることもある。
人体に対して特に有害なわけではないが、やはり気持ち悪いとの評判だ。若者の間で度胸試しに使われることもあった。
ソロンが笑いそうになったのも、そうした悪ふざけを思い出していたためだ。
「…………」
空色の瞳をうるませて、ミスティンはソロンをにらみつけた。空気の変化を察して、ソロンはひるむ。
「でも、誘い樹は人には――あたっ!?」
何とか言い訳を試みるが、ミスティンに頭を強く叩かれた。笑って許してもらえる気配はない。今日の彼女はいつもより本気だった。
さすがにソロンも反省する。
誘い樹に害がないとはいえ、女性相手には酷だった。これがアルヴァだったら、もっと強く制止していただろう。ミスティンなら図太いから大丈夫なはず――と、どこか高をくくっていた。
……が、駄目なものは駄目なのだ。
それから、ミスティンは顔を拭く物を探そうと鞄に手を突っ込んだ。
……が、すぐにやめた。
ジッとこちらをにらみ直した後、抱きつくようにして頭を押しつけてきた。
無論、愛情表現ではない。こちらのマントで顔を拭こうとしているのだ。
「ちょっ、やめて! 汚れる、汚れちゃう……!」
慌てて押しのけようとするが、離してくれない。ソロンのマントが紫色に染まっていく……。
「ああ、あ~あ……」
グラットが呆れたように声を上げた。
*
「ごめん、今日の昼飯は四分の一ほど分けてあげるから許して」
「二分の一」
「……分かった」
粘り強い交渉の果てに、どうにかミスティンをなだめられた。当人の不注意が相当ぶんあった気もするが、ソロンも不平は言わない。
……そんな悲劇を乗り越えて、三人は先へと進んでいった。
やがて、昼飯時となった。約束に違わず、ソロンの食事の多くはミスティンの胃袋へと消えていった。
まあ、食料に余分はあるので特に痛手ではないのだが……。ともあれ、これでミスティンの機嫌はかなり持ち直した。
それから歩き出して数時間で、ついに森を抜けることができた。まだ昼の明るい時間だった。
「だいぶ水が減ってきたが、大丈夫なのか? 荷物が軽いのはいいけどよ」
グラットが軽くなった水筒を指しながら言った。水分の補給は旅の重大事項である。
「心配ないよ。そのために地図があるんだから」
この辺りの土地が、町村同士の行き交いに使われることはない。
しかし、タンダ村の住民にとっては狩りの圏内に近く、全くの未知というわけではなかった。だから、地図にはしっかりと水場が示されていた。
「ここからだったら……東に泉があるね」
「おう、なら善は急げだな」
少し道をそれることにはなったが、東に行った林の中で泉を見つけた。木々に隠されているため、近くを通っただけでは気づかずに過ぎてしまうだろう。
今は昼過ぎ、林の中だけあって薄暗い。それでも弱い日射しの中で、透き通った水底が見えている。泉の水質は悪くはなさそうだ。
「ぷはぁ……。潤うねえ」
水を飲んだグラットがわざとらしく感激を表現した。どことなくおっさん臭い。
ミスティンもごくごくと飲んでいる。それから、
「水浴びとか、できないかな」
と、つぶやいた。
「いいけど、水底には何がいるか分からないよ。ヒルとか、アメーバとか」
「やめとく……」
ミスティンは潔く引き下がった。
水質はよさそうなので、それほど有害な生物はいないと思っているが確証はない。変な生物がいた時のため、また怒られないうちに警告しておくに限る。
「あと数日で村に着くから、そんなに我慢しなくても大丈夫だよ」
そうして三人はそれぞれ喉を潤し、水筒も満たした。
ここからタンダ村まではあと二日と少々といったところだ。これ以上の補給はなくともたどり着けるはずだ。そのほうが時間も喰わないし、荷物を軽くして歩ける。
水分補給を終えたので少し引き返す。それからまた南へ進む。やがて、なだらかな山が目に入った。
荒涼としてはいるが、地面は固く草もない。少なくとも歩きやすくはある。ゆるやかな山道を進んでいく。
「あれっ!」
山中でミスティンが地面の一点を指差した。そこには焼け焦げた枝が集められていた。焚火の跡だ。それほど日が経っているようには見えない。
「もしかして、陛下の!?」
ソロンが驚きの声を上げれば、グラットも頷く。
「かもしれんな」
もしかしたら、今までの道についても、探せば同じような跡があったのかもしれない。ただ、それまでとは違って山道は狭かった。だから、痕跡を見逃すことがなかったのだろう。
きっと彼女も諦めずに歩いていたのだ。三人もそう信じて山道を進んでいった。
日が暮れる前に山道の終わりが見えてきた。そこからはまた黄土色の草原が続いていく。
草原を少し進んだところで道を見つけた。地図にも書いている通りの人間の道だ。いよいよ人間の棲家へと近づいてきた証明でもある。
「今日はここで休もう。さすがにちょっと疲れたかな」
「同感」
森に峠にと、今日は過酷な道ばかりを歩いていた。その疲れはさすがに隠せなかった。
*
四日目――昼過ぎに海へとたどり着いた。
マゼンテ海である。そして遠くに見えるのが、マゼンテの滝だ。
上界ではエーゲスタの滝と呼ばれていたものである。その事実をソロンはアルヴァとの会話で知ったのだった。
「お~う、ありゃ凄いな……絶景かな」
「上界から落ちてるんだね~」
グラットもミスティンもそれぞれに驚きを見せている。
実はソロンも、あの滝が上界から流れるさまを見た時は本当に驚いた。あの様子を見て、すぐにエーゲスタの滝が、自分の知る下界の滝と同一であると悟ったのだ。
論理的に考えれば、滝の水源は上界であるという以外に答えはなかった。だが、現実にそれを目にした時の驚きは筆舌に尽くしがたい。
「ここまで来ればもう少しだ。明日中には村に着くかも」
この滝は目印になると考えていたので、予定通りたどり着けたことに満足していた。なぜなら、滝は上界と下界に共通する数少ないものだからだ。
そして、この辺りからはイドリスの統治が及ぶ範囲となる。
ソロンは過去にもマゼンテの滝を見たことがあった。ここからではないが、もう少し南にある橋の上から見たのだ。つまり、もう少しで知っている場所に到達できる。
「これは本当の海じゃないんだって」
一心不乱に海と滝を見つめる二人にそう声をかけた。
「本当の海……? 海に本物も偽物もないだろ」
ソロンが知る下界の伝承には、神竜教会の伝承より古いものもあった。雲海と上界が生まれる前の伝承……。さらにいえば、呪海に下界が侵食される以前から伝わる伝承である。
遥か古代――この世界には途方もなく広大な海があったといわれている。
途方もなく――そう、今を生きる人間には想像もつかないほどに途方もない。その大きさは帝国本島よりも……それどころか下界の陸地よりも、はるかに広大であった。
だから、この海などは偽りの海でしかなく、本来は湖に過ぎないというのだ。
また、その大海は塩水で構成されていたという。そしてそこは多くの生物であふれていた。もっとも、大海はやがて呪海に浸蝕され、姿を消してしまったというのだが……。
「塩水の中で生きる生き物なんざ、ふざけた話だぜ」
その伝説を聞くなり、グラットが一蹴した。
「まあ、伝説は伝説。いちいち突っ込むのも大人げない」
ミスティンも冷ややかだった。神官家の出身のわりに、こういった伝説の類をあまり信じていないらしい。
「そうだな。じゃあ、せっかくだし水分補給といこうぜ」
「いや、だから昨日補給したじゃない」
「ここで補給できたら、ちびちび節約しないで済むだろ」
ソロンの見立てでは、水筒に溜めている分量でも十分に持つはずだ。少なくとも無駄遣いしなければ大丈夫だろう。しかし、グラットはもっと遠慮なく水を使いたいらしい。
「というか……この海も塩水なんだけど」
「はっ? 塩水ってのは伝説の話だろ?」
「理屈は知らないけど、ここもそうなんだ。疑うなら、ちょっとだけ飲んでみたら? 少しだけだよ」
グラットが納得しないようで、わずかな水をすくって飲む。
「ぺーっ! なんじゃこりゃ!?」
そしてすぐに吐き出す。全くもって予想通りの反応である。
それを見て、なぜかミスティンも同じように塩水を飲む。案の定、吐き出して涙目になる。
「しょっぱい……。飲めないんだ……」
……たぶん、分かっていても試さずにはいられない性格なのだろう。
「マジで塩水なんだなあ……。よく見りゃ魚までいるし。下界ってのはホントにワケワカランわ」
海の中には魚の姿もチラホラ見えている。近くの村では漁も行われているのだ。
「僕から見たら、雲海に生き物がいるほうがわけわかんないけどね」
その世界で生まれ、暮らしてきた人間にとって、当たり前のことは当たり前としか思えないのだ。真剣に疑問と思うこと自体が難しい。
二つの世界を行き来した三人だからこそ、お互いが持つ世界観の違いに気づけたのだろう。
なぜ天に星があるのか?
なぜ物体は地面へと落ちるのか?
なぜ時間は流れていくのか?
なぜ人は生きるのか?
なぜこの世界は存在するのか?
そんな当たり前に対して、疑問を持たずとも人は生きていける。もっとも、仮に疑問を持ったとしても、納得できる答えを導くことは不可能に近いだろう。
「やっぱり、水は諦めるしかないの?」
なおもミスティンは未練がましい。
「うん。だから早く村に行こう。たぶん明日には着けるから」
「しゃーないなあ」
グラットもミスティンもしぶしぶ従った。
そうして、ソロン達の旅は続いた。
その翌日――五日目には橋を渡った。
粗末な橋ではあるが、よく見れば一応の補修がされていることが分かる。つまり、最近まで使われているという事実を示していた。
既に日が暮れようとしていた。しかし、西の空には欠けのない月が見えていた。だから、辺りが暗闇になることはないだろう。
疲労はあったが、それもあともう少しだ。
「今日中にタンダ村に着こう。十分に行けると思う」
「おう!」
「了解」
三人は決意を固め、力強く歩き続けた。