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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第二章 失われた世界
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偽りの海

 三日目――朝から森に入った。

 森の中は、草原以上に豊かな生物であふれている。下界に初めて来た者ならば、注意を引くものはいくらでもあった。


「何じゃありゃ!?」


 グラットがいつものように驚きの声を上げた。下界では驚くことが多すぎるためか、既にこの反応自体がマンネリと化してきた。

 彼が目に止めたのは巨大なイソギンチャクのような木。白くて太い幹に紫の触手がウネウネとうごめいている。


(さそ)()だね。食虫植物だよ」


 これも、ソロンにとっては得体の知れない植物ではない。

 下界には様々な食虫植物が存在する。誘い樹はその中でも巨大な部類に位置していた。


「虫を誘って取るってこと? じゃあ、人間は大丈夫なのかな?」


 ミスティンは奇妙な植物に興味を持ったようだ。


「やってみたら?」


 ソロンが冗談半分で言ってみると。


「馬鹿、誰がやるかよ」

「いやでも、あの触手は結構面白いよ」

「面白くてもやらねえよ。そんな気持ちわりいこと」


 グラットが強く拒否した。

 しかし、ミスティンはゆらゆらする触手から目を離せないようだ。そして、恐る恐る誘い樹に近づいていく。好奇心には勝てないのか、とりあえず触ってみようという魂胆らしい。


「あっ、あんまり近づくと危ないかも……」


 さすがにまずいかなと思いながら、ソロンが悠長に注意するが――

 途端、ミスティンの顔に誘い樹の触手が巻きついた。


「んにゃ!?」


 奇妙な悲鳴をミスティンが上げた。慌てて触手を引きはがそうと力を込める。

 触手はあっさりとちぎれた。

 ――が、あまりにもあっさりだったので、勢い余ってミスティンは転びそうになる。そこは駆け寄った二人が受け止めたので、事なきを得た。


「おい、大丈夫か」

「うぐ……」


 ミスティンはうめき声で返事をした。

 あまり大丈夫ではないらしい。ゆがんだ顔を紫色に染めていた。……比喩ではなく、本当に触手の液が付着して紫に染まっていたのだ。


「ご、ごめん。もっと早く止めるべきだったね……」


 ソロンはそう言いながらも、思わず笑いそうになった。慌てて口元を押さえて隠す。


 誘い樹は人間へ強い危害を加えることはない。獲物にするのは精々が虫や小鳥といった小動物だ。

 人間のような大きな生物に触手が巻きつくこともあるが、力は乏しくそれ以上はできない。だから、あれは犬が人間の顔をなめる行為と大差はない。

 ソロンが真剣に制止しなかったのは、それを知っていたためだ。


 ちなみに触手に付着しているのは樹液である。

 様々な用途に使われるが、最も有用なのは染料だ。紫の染料は貴重なので、抽出すればよい稼ぎにもなる。他にも接着剤の原料になるし、調味料として使われることもある。

 人体に対して特に有害なわけではないが、やはり気持ち悪いとの評判だ。若者の間で度胸試しに使われることもあった。


 ソロンが笑いそうになったのも、そうした悪ふざけを思い出していたためだ。


「…………」


 空色の瞳をうるませて、ミスティンはソロンをにらみつけた。空気の変化を察して、ソロンはひるむ。


「でも、誘い樹は人には――あたっ!?」


 何とか言い訳を試みるが、ミスティンに頭を強く叩かれた。笑って許してもらえる気配はない。今日の彼女はいつもより本気だった。

 さすがにソロンも反省する。

 誘い樹に害がないとはいえ、女性相手には酷だった。これがアルヴァだったら、もっと強く制止していただろう。ミスティンなら図太いから大丈夫なはず――と、どこか高をくくっていた。


 ……が、駄目なものは駄目なのだ。

 それから、ミスティンは顔を()く物を探そうと(かばん)に手を突っ込んだ。

 ……が、すぐにやめた。

 ジッとこちらをにらみ直した後、抱きつくようにして頭を押しつけてきた。

 無論、愛情表現ではない。こちらのマントで顔を拭こうとしているのだ。


「ちょっ、やめて! 汚れる、汚れちゃう……!」


 慌てて押しのけようとするが、離してくれない。ソロンのマントが紫色に染まっていく……。


「ああ、あ~あ……」


 グラットが呆れたように声を上げた。


 *


「ごめん、今日の昼飯は四分の一ほど分けてあげるから許して」

「二分の一」

「……分かった」


 粘り強い交渉の果てに、どうにかミスティンをなだめられた。当人の不注意が相当ぶんあった気もするが、ソロンも不平は言わない。


 ……そんな悲劇を乗り越えて、三人は先へと進んでいった。

 やがて、昼飯時となった。約束に違わず、ソロンの食事の多くはミスティンの胃袋へと消えていった。

 まあ、食料に余分はあるので特に痛手ではないのだが……。ともあれ、これでミスティンの機嫌はかなり持ち直した。

 それから歩き出して数時間で、ついに森を抜けることができた。まだ昼の明るい時間だった。


「だいぶ水が減ってきたが、大丈夫なのか? 荷物が軽いのはいいけどよ」


 グラットが軽くなった水筒を指しながら言った。水分の補給は旅の重大事項である。


「心配ないよ。そのために地図があるんだから」


 この辺りの土地が、町村同士の行き交いに使われることはない。

 しかし、タンダ村の住民にとっては狩りの圏内に近く、全くの未知というわけではなかった。だから、地図にはしっかりと水場が示されていた。


「ここからだったら……東に泉があるね」

「おう、なら善は急げだな」


 少し道をそれることにはなったが、東に行った林の中で泉を見つけた。木々に隠されているため、近くを通っただけでは気づかずに過ぎてしまうだろう。

 今は昼過ぎ、林の中だけあって薄暗い。それでも弱い日射しの中で、透き通った水底が見えている。泉の水質は悪くはなさそうだ。


「ぷはぁ……。(うるお)うねえ」


 水を飲んだグラットがわざとらしく感激を表現した。どことなくおっさん臭い。

 ミスティンもごくごくと飲んでいる。それから、


「水浴びとか、できないかな」


 と、つぶやいた。


「いいけど、水底には何がいるか分からないよ。ヒルとか、アメーバとか」

「やめとく……」


 ミスティンは(いさぎよ)く引き下がった。

 水質はよさそうなので、それほど有害な生物はいないと思っているが確証はない。変な生物がいた時のため、また怒られないうちに警告しておくに限る。


「あと数日で村に着くから、そんなに我慢しなくても大丈夫だよ」


 そうして三人はそれぞれ(のど)を潤し、水筒も満たした。

 ここからタンダ村まではあと二日と少々といったところだ。これ以上の補給はなくともたどり着けるはずだ。そのほうが時間も喰わないし、荷物を軽くして歩ける。


 水分補給を終えたので少し引き返す。それからまた南へ進む。やがて、なだらかな山が目に入った。

 荒涼としてはいるが、地面は固く草もない。少なくとも歩きやすくはある。ゆるやかな山道を進んでいく。


「あれっ!」


 山中でミスティンが地面の一点を指差した。そこには焼け焦げた枝が集められていた。焚火(たきび)の跡だ。それほど日が経っているようには見えない。


「もしかして、陛下の!?」


 ソロンが驚きの声を上げれば、グラットも頷く。


「かもしれんな」


 もしかしたら、今までの道についても、探せば同じような跡があったのかもしれない。ただ、それまでとは違って山道は狭かった。だから、痕跡を見逃すことがなかったのだろう。

 きっと彼女も諦めずに歩いていたのだ。三人もそう信じて山道を進んでいった。


 日が暮れる前に山道の終わりが見えてきた。そこからはまた黄土色の草原が続いていく。

 草原を少し進んだところで道を見つけた。地図にも書いている通りの人間の道だ。いよいよ人間の棲家へと近づいてきた証明でもある。


「今日はここで休もう。さすがにちょっと疲れたかな」

「同感」


 森に峠にと、今日は過酷な道ばかりを歩いていた。その疲れはさすがに隠せなかった。


 *


 四日目――昼過ぎに海へとたどり着いた。

 マゼンテ海である。そして遠くに見えるのが、マゼンテの滝だ。

 上界ではエーゲスタの滝と呼ばれていたものである。その事実をソロンはアルヴァとの会話で知ったのだった。


「お~う、ありゃ凄いな……絶景かな」

「上界から落ちてるんだね~」


 グラットもミスティンもそれぞれに驚きを見せている。

 実はソロンも、あの滝が上界から流れるさまを見た時は本当に驚いた。あの様子を見て、すぐにエーゲスタの滝が、自分の知る下界の滝と同一であると悟ったのだ。

 論理的に考えれば、滝の水源は上界であるという以外に答えはなかった。だが、現実にそれを目にした時の驚きは筆舌に尽くしがたい。


「ここまで来ればもう少しだ。明日中には村に着くかも」


 この滝は目印になると考えていたので、予定通りたどり着けたことに満足していた。なぜなら、滝は上界と下界に共通する数少ないものだからだ。

 そして、この辺りからはイドリスの統治が及ぶ範囲となる。

 ソロンは過去にもマゼンテの滝を見たことがあった。ここからではないが、もう少し南にある橋の上から見たのだ。つまり、もう少しで知っている場所に到達できる。


「これは本当の海じゃないんだって」


 一心不乱に海と滝を見つめる二人にそう声をかけた。


「本当の海……? 海に本物も偽物もないだろ」


 ソロンが知る下界の伝承には、神竜教会の伝承より古いものもあった。雲海と上界が生まれる前の伝承……。さらにいえば、呪海に下界が侵食される以前から伝わる伝承である。


 (はる)か古代――この世界には途方もなく広大な海があったといわれている。

 途方もなく――そう、今を生きる人間には想像もつかないほどに途方もない。その大きさは帝国本島よりも……それどころか下界の陸地よりも、はるかに広大であった。


 だから、この海などは(いつわ)りの海でしかなく、本来は湖に過ぎないというのだ。

 また、その大海は塩水で構成されていたという。そしてそこは多くの生物であふれていた。もっとも、大海はやがて呪海に浸蝕され、姿を消してしまったというのだが……。


「塩水の中で生きる生き物なんざ、ふざけた話だぜ」


 その伝説を聞くなり、グラットが一蹴した。


「まあ、伝説は伝説。いちいち突っ込むのも大人げない」


 ミスティンも冷ややかだった。神官家の出身のわりに、こういった伝説の(たぐい)をあまり信じていないらしい。


「そうだな。じゃあ、せっかくだし水分補給といこうぜ」

「いや、だから昨日補給したじゃない」

「ここで補給できたら、ちびちび節約しないで済むだろ」


 ソロンの見立てでは、水筒に溜めている分量でも十分に持つはずだ。少なくとも無駄遣いしなければ大丈夫だろう。しかし、グラットはもっと遠慮なく水を使いたいらしい。


「というか……この海も塩水なんだけど」

「はっ? 塩水ってのは伝説の話だろ?」

「理屈は知らないけど、ここもそうなんだ。疑うなら、ちょっとだけ飲んでみたら? 少しだけだよ」


 グラットが納得しないようで、わずかな水をすくって飲む。


「ぺーっ! なんじゃこりゃ!?」


 そしてすぐに吐き出す。全くもって予想通りの反応である。

 それを見て、なぜかミスティンも同じように塩水を飲む。案の定、吐き出して涙目になる。


「しょっぱい……。飲めないんだ……」


 ……たぶん、分かっていても試さずにはいられない性格なのだろう。


「マジで塩水なんだなあ……。よく見りゃ魚までいるし。下界ってのはホントにワケワカランわ」


 海の中には魚の姿もチラホラ見えている。近くの村では漁も行われているのだ。


「僕から見たら、雲海に生き物がいるほうがわけわかんないけどね」


 その世界で生まれ、暮らしてきた人間にとって、当たり前のことは当たり前としか思えないのだ。真剣に疑問と思うこと自体が難しい。

 二つの世界を行き来した三人だからこそ、お互いが持つ世界観の違いに気づけたのだろう。


 なぜ天に星があるのか?

 なぜ物体は地面へと落ちるのか?

 なぜ時間は流れていくのか?

 なぜ人は生きるのか?

 なぜこの世界は存在するのか?


 そんな当たり前に対して、疑問を持たずとも人は生きていける。もっとも、仮に疑問を持ったとしても、納得できる答えを導くことは不可能に近いだろう。


「やっぱり、水は諦めるしかないの?」


 なおもミスティンは未練がましい。


「うん。だから早く村に行こう。たぶん明日には着けるから」

「しゃーないなあ」


 グラットもミスティンもしぶしぶ従った。


 そうして、ソロン達の旅は続いた。

 その翌日――五日目には橋を渡った。

 粗末な橋ではあるが、よく見れば一応の補修がされていることが分かる。つまり、最近まで使われているという事実を示していた。

 既に日が暮れようとしていた。しかし、西の空には欠けのない月が見えていた。だから、辺りが暗闇になることはないだろう。

 疲労はあったが、それもあともう少しだ。


「今日中にタンダ村に着こう。十分に行けると思う」

「おう!」

「了解」


 三人は決意を固め、力強く歩き続けた。

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