元女帝、労働する
漁村の朝は早い。
まだ太陽が登りきらないうちに、アルヴァはゾゾロアと共に潮汲みに出かけた。モゴロフは既に家を出発している。
小さな村なので職場は近い。すぐに海岸近くの小屋へ着いた。
見れば既に、職場へ到着した者達の姿が何人か見られる。男が多いが女もいる。ゾゾロアを始めとして亜人もいる。この者達がアルヴァの同僚というわけだ。
「へえ、あの子が」
「ゾゾロアさんの家にいるんだって」
やはり、ここでもアルヴァは周囲の注目を集めてしまう。
そのうちの一人、人間の少女が笑顔で近づいてきた。見ればこちらよりも五~六歳下だろうか。
「あたしリサナって言うの。よろしく!」と、元気よく声をかけてきた。「あなたが上界から来たアルヴァちゃんね」
「……ちゃん?」
呼び捨てにされるのは覚悟していた。……が、まさか『ちゃん』づけされるとは想定外だった。しかも、このような小娘にだ。
思わず顔をしかめたが、リサナに気づく気配はない。
一応、今の職場ではリサナのほうが先輩なのだ。
帝国軍においては、相手が歳下であっても先輩は敬わねばならない。必ずしも敬語を使う必要はないが、それでも邪険にしてはならない。
何よりリサナは自分よりも子供だ。腹を立てるほどのことでもあるまい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
アルヴァは慇懃に礼をして、気を取り直した。
*
「この桶に海水を汲むんだよ」
ゾゾロアに大きな桶を渡された。
海水を桶に汲んで、少し離れた小屋へと運びこむ。小屋の中には大きな鍋があるので、そこに海水を放り込む。鍋を熱して中の海水を蒸発させれば、後には塩が残るというわけだ。
もっとも、アルヴァの仕事としては鍋に海水を放り込むまでとなる。それ以降の手順を覚える必要はない。
海岸まで歩き、桶に海水を一杯になるまで汲んでみる。
……激しく重い。少し歩いてみたが、やはり無理と判断したので海水をいくらか捨てた。それでどうにか運べる重さになった。
よろよろとおぼつかない足取りで、小屋の大鍋まで持っていって放水する。情けないことに、それだけで少し息が上がっている。
他の人達はどんな調子だろうか――と、視線をやる。
ゾゾロアは肩に棒を置いており、棒から二つの桶を垂れ下ろしている。桶は両方とも海水でたっぷりだ。男達も同様にしている。
さっき持ってみた感触では、水で満たした桶は重い。二つ合わせれば、アルヴァの体よりも重くなるはずだ。それを楽々と運んでいく。
さすがに人間の女はやっていないようだ。それを見て、ほっと胸をなでおろす。
しかし、驚いたのは同僚の少女リサナだ。アルヴァと同程度の海水を、しっかりした足取りで運んでいく。体の幼さを考えれば驚異的だった。
体力にはそれなりに自信があった。
……が、やはりアルヴァは頭脳労働を主体として生きてきた。普段から体力仕事ばかりをしている者と競えば、分が悪いのは否めない。
それでも音を上げたくはない。
皇族だから……育ちがよいから……。だから忍耐力がない――その種の侮辱をされるのは屈辱だった。
だから、少々のことでは挫けないようにやってきた。
ゾゾロアはともかく、あのような小娘に負けるものか――と、無心で海水を汲み、大鍋に散布する。海岸と小屋を何度も往復しながら、繰り返す。
それにしても、なんとも原始的で非効率なのだろう。考えてみれば、人力でここまでやる必要があるのだろうか? もう少し効率のよい方法がありそうなものだ。
例えば、帝国にある水道橋のように、海水を水車で汲み上げてはどうだろうか。
そうして、長い管を用意して海水を小屋の近くまで引き込むのだ。流れの一定しない海水を汲み上げに使うには、一工夫いりそうだが、方法はあるはず。
そもそも鍋と火を使う必要があるのかどうかも疑問だ。小規模な貯水池のようなものに海水を貯めこんで、後は日光で蒸発させてしまえばどうか。
……いや、下界の日射しの弱さでは少し厳しいか。昼間がずっと曇りなのは困りものだ。
……そんなことを考えながらも黙々と海水を運び、鍋に放出していた。あくまで退屈しのぎに考えるだけである。実際にできるかどうかは分からないので、余計な口出しはしない。
ましてや今のアルヴァはよそ者だ。目立たないに越したことはない。きっと実際に試してみると、頭で考えるほど楽ではないはずだ。
延々と繰り返しているうちに悟った。
……分かりきってはいたが、力仕事は向いていない。
いや、たった一日の労働で、向き不向きを決める愚はわきまえているつもりだ。
それでもアルヴァは人間の娘であって限界がある。
いずれリサナには勝てるだろうが、屈強な人間の男や亜人には絶対に敵わない。それは努力で覆せるものではない。
アルヴァは自信家だった。
知力と魔力なら、まず同年代の者に負ける気はしない。体力だって悪くはない。北方の行軍やベスタ島の探検でも、決して音を上げなかった。
だからこそ、絶対に覆せない腕力で仕事をすることに悔しさがあった。これではそこらの小娘と何ら変わらない。もっと自分の能力を存分に活かせる仕事はないのだろうか?
……そこで思い出した。
そう――自分は魔道士だったのだ。何も律儀に腕力で仕事をする必要はない。魔法を使えば、もっと効率よくできるはずだ。
それを考えなかったのは、初仕事だけに手順を遵守しようと心がけていたためだ。
もうすぐ昼だ。昼食はゾゾロアと家で取ることになっている。そのついでに杖と魔石を持ってくるとしよう。
*
食後の休憩が終わり、アルヴァは海岸に戻った。腰の帯には愛用の杖が刺さっている。
「ふっ……。ついに私の本領を発揮する時が来たようですね」
アルヴァのやる気に火が灯った。ただの小娘ではないと周りに見せつけるのだ。
使う魔石はもちろん水流石だ。一人旅の時にもお世話になった水の魔石である。これさえあれば、桶などもはや不要だ。
杖先を海水に向け、魔力を込める。水流石が輝くと同時に、海水の塊が宙に浮かび上がった。
そのままアルヴァが歩き出せば、魔石に引かれるように海水も宙を泳いでいく。
「わっ、なにそれ!? 魔法なの!?」
近くで驚きの声が上がった。見ればアルヴァが心中で勝手に好敵手と見なしていた少女――リサナだ。
「ええ、私は魔道士ですから」
アルヴァは勝利の笑みを、リサナに向けて見せた。そのまま、小屋へ向かって歩みを進める。
リサナもすっかり目を輝かせて、アルヴァの後を追ってくる。他の者達も皆、一様に目を丸くしていた。
小屋に入ったアルヴァは、大鍋へ向けて杖先を向けた。豪快に水音を鳴らしながら、大鍋が海水で満たされていく。この一回だけで五往復分は海水を運べたはずだ。
もっとも、精神力はそれなりに消耗してしまう。ここまでやっても、運べる海水の量はゾゾロアに敵うかどうか微妙なところだ。
「うっわあ~! アルヴァちゃんは凄いのね!」
リサナが尊敬の眼差しを向けてくる。
「あなたこそ、その歳で働くのは立派ですよ」
すっかり誇りを取り戻したアルヴァは、リサナを褒める余裕を見せた。
「そう? みんな働いてるけど。私ももう二年だよ」
リサナは当然――と言わんばかりの表情をしていた。
「なるほど。この村では皆、若いうちから働いているのですね」
考えてみなくとも、このような漁村では十分な教育施設などあるはずもない。やはり仕事も肉体労働ばかりであり、働き始める年齢も早くて当然なのだ。
「ねえねえ、どこで魔法を習ったの?」
「家庭教師と、後は皇学院――学校で習いました」
「へえ、上界だと学校で魔法を教えてくれるんだ!」
「この村にも、学校は存在するのですね」
アルヴァの悪気ない発言に、リサナは愛らしく口をとがらせた。
「むっ、田舎者って馬鹿にしたね? 学校ぐらいあるよ。王都やベラクに比べたらちっさいし。行かない子も多いけど」
とにかく、一応の学校はあるということで納得しておく。
その後もリサナは興味津々らしく、何度もこちらに話しかけてきた。アルヴァも仕事をしながら、適当に受け答えしておいた。
*
日が暮れるよりも幾分前に仕事は終わった。
上界の労働者には、日が暮れる頃まで働く者も多かったが、比較すると早い。ただ、今日の仕事は朝も早かったので、こんなものなのかもしれない。
それでも、かなり疲れた。
昼からは魔法に頼ったが、それだけに精神力を消耗した。重い桶を持たずに済んだが、幾度もの往復に足だって疲労している。
座り込んでヘトヘトになっていたら、
「よくがんばったね。初めてなのに、大活躍じゃないか」
と、ゾゾロアにほめられた。当のゾゾロアは大量の海水を桶に入れて何度も往復していたはずだが、ピンピンしている。
「いいえ、私などまだまだです。体力では敵いそうにありませんね……」
負けず嫌いのアルヴァとしては、少し誇りを傷つけられた気分だ。
「そんなことないよ! アルヴァちゃんはものすご~く、がんばったよ!」
リサナも屈託のない笑顔でほめてくれた。
周囲の人達は優しかった。初めての仕事で、周りに認められようと努力していたが、みな自然体で穏やかなものである。肩肘を張っていたのは自分だけだったようだ。
家に帰って、今日も犬人の夫妻と共に食事を取った。
仕事には疲れたが、久々に充実感があった。基本的にアルヴァは働いていないと落ち着かない性分なのだ。
こうして努力を続けていれば、いつか自分の進むべき道が見つかるのだろうか……。