下界の伝説
ゾゾロアと共に家に帰ることにした。何にせよ、しばらくは犬人夫妻にお世話になるしかなさそうである。
となれば、必要なのは仕事だ。
アルヴァはもういい大人である。帝国でも十八歳といえば立派な成人だ。
このような地方では力仕事が主体となるため、働き始める年齢はさらに下がるだろう。十五かそこらでも、立派な労働力とみなされるのは想像に難くない。
自分の性格を考えても、働かずにタダ飯を喰らうという発想はなかった。
ともあれ、仕事について考えるならば、先に把握したいことがあった。
「つかぬことをお聞きしますが、この辺りに通貨というものはあるのでしょうか?」
帰路を歩きながら、ゾゾロアに尋ねてみる。
「通貨? なんのことだい?」
意味が通じていないらしい。ひょっとしたら通貨という概念が存在しないのではなかろうか。
ソロンによれば、かつてイドリスとネブラシアには交流があったらしい。言語がこれほどまでに類似しているのは、そのせいとしか考えられない。
そうなると、交流が絶たれてから生まれた概念は、こちらの言葉としては通じないはずだ。
……といっても、さすがに考えすぎかもしれない。きっと『通貨』という言い方が難しかったのだ。考えてみれば、通貨という言葉自体が少々学術的でもある。
そこでより庶民的な表現へと変えてみる。
「ゾゾロアさんは、お金を持っていますか?」
ゾゾロアは大きくウンと頷くと。アルヴァの背中をバンバンと叩いた。今度は通じたらしい。
「ああ分かってるよ。アルヴァは、お小遣いが欲しいんだね。年頃の女の子だもんね。特にあんたみたいな別嬪は、色々と入り用だろうからねえ。ウチもそんなにお金持ちなわけじゃないけど、ちょっとぐらいならお小遣いもあげられるよ」
……通じてはいるが、飛躍している。これではまるで乞食になった気分だ。誇り高いアルヴァとしては頂けない。
「いえ、そういう意味ではなくて……。きちんと仕事をして、それでお金を稼ぎたいと思っています。大人として当然のことですから」
「ああ、そうかい。アルヴァは偉いね。ちょっとぐらいの間だったら、あたしらで養ってあげてもよかったんだけどね。娘もいなくなっちまったし。……でもそうだね、甘えてばかりだと、あんたも将来は困るだろうしね」
「そういうことです」
と、アルヴァは頷いて話を戻す。
「――それで、この辺りのお金の仕組みについて、確認したかったのです。……お金とは金や銀、あるいは銅といった金属という認識でよろしいでしょうか?」
「んん? それ以外にお金があるのかい? まあ、この辺だと金貨はあんまり見ないけどさ」
お金とは金属の硬貨であるという認識でよさそうだ。それなら帝国と変わらない。
「他にもお金の代わりとなるものはありませんか? 物同士の交換によく使われる物のことです。例えば、貝殻なんていかがでしょう」
帝都では取引にはもっぱら硬貨を用いる。しかし、同じ帝国内でも地方に行けば様相が変わる。小麦などの物を仲介した交換を行う文化が残っていた。
「物々交換ってことかい? 貝でも形のよい物なら、交換に使えるよ。他には米や魚なんかもあるけど、この辺だとやっぱり一番は塩だね」
「塩ですか。……まさか、海水から取るのですか?」
「そりゃそうさ。他にどこから取るってんだい?」
考えてみれば当然である。しかし、上界で生きてきたアルヴァにとっては、海水から塩を抽出するという発想が浮かばなかった。
「上界では、おおむね岩塩から採取していました。ですが、海から塩が取れるのなら良い産業になりそうですね」
数日前は海水を飲めずに酷く落胆したが、塩水にもそれ相応の価値があったわけだ。
もちろん、塩は帝国でも重宝される。タンダ村と帝国で交易できれば、さぞかし儲かるだろう――などと詮ないことを考えてしまう。
「興味あるんだったら、明日、あたしと一緒に潮汲みに行くかい? 最初は大変かもしれないけど、女の子でも働ける仕事だよ」
「ええ、ぜひともお願いします」
通貨制度について確認していたら、いつの間にか潮汲みの話になっていた。とはいえ、どちらにせよ仕事は探すつもりだった。ここは渡りに船――と、働くしかない。
*
ゾゾロアの家に戻った。
漁からモゴロフが帰ってくるのを待ってから、三人で歓談しながら夕食を取った。段々と箸の使い方にも慣れてきている。
食後、既に暗くなりかけていたが眠るには少し早い。村長から借り受けた本を広げた。
「暗い中で本を読むのは辛いだろう。これを使いなさい」
モゴロフがランプを渡そうとした。魚から取れる油を使うらしい。
「大丈夫です。私にはこれがありますから」
アルヴァは蛍光石のブローチを見せた。以前、ベスタ島の遺跡を探検する時も、大いに役に立った逸品だ。
蛍光石は魔力に反応して光を放つ魔石の一種でもある。
また、魔力の代わりに外部の光を蓄積する効果もあった。つまり、日中に太陽光を蓄えておけば、夜も明かりになる優れものなのだ。
「はあ~、便利だねえ」
ゾゾロアが感心した声を上げる。
それを傍目にして、蛍光石の明かりの中で本を開いた。
やはり帝国の文字と共通する部分が多くある。ただどうにも字体が古い印象を受けた。古い時代の書物を読んだ時に、見られる文字に似ていたのだ。
それはこのイドリス王国と帝国が、何百年も前に枝分かれしたという事実を示していた。
どうにか理解した内容は次のようなものだった。
かつて、世界は大海に覆われていた。今ある海よりも遥かに巨大な本物の海である。
今日、我々が海と呼んでいるものは湖に過ぎない。
本物の海とはどこまでも、どこまでも広がるもの。万里にも渡る塩水の海なのだ。
ある時、天空に住まう良き神が血を流した。
血の一滴は海水と交わり、それが生命となった。
最初の生命は小さなものだった。それも人の目に見えない程に。
陸地には、いまだ生命がなかった。
徐々に海に生きる命は広がり、たくさんの生物が棲まうようになった。海は豊かな生命の宝庫として繁栄を極めていった。
生物は長き時を経て、自らを進化させていった。そしてついには、陸地へとたどり着いた。陸地の生物も進化をたどり、やがて人が生まれた。
人もまた長き時を経て、文明を築いた。陸地を支配し、大海へと船で漕ぎ出し、雲の上へと飛び上がった。
ある時、天空に住まう悪しき神が世界を見初めた。
悪しき神は、良き神と同じように血を流した。
しかし、悪しき神の血がもたらしたのは生命ではなく呪いだった。
塩水の海は呪いの海――呪海へと変わっていく。呪海は陸を侵食していった。世界は呪海に蝕まれていった。
呪海から逃れ得たのは、ただ空のみ。
人の中には空へと旅立つ者がいた。そして、雲の上に新しい世界――上界を創り上げたのだ。そうして世界は上界と下界、二つに分かたれた。
要約すると、そんなところだろうか。
……しかしながら、意味が分からない。
いや、文章の意味はどうにか理解できた。帝国で使う言葉とは、異なる部分も多々あったが、語形の類似から意味は推測できる。
筆者が子供向けにやさしく文章を書いているのも伝わった。それに分かりにくいところは挿絵もある。だから苦労はしたが、かろうじて理解はできた。
……にも関わらず、物語の意味が分からなかった。内容が漠然としすぎている。なんだかモヤモヤして仕方がない。
海については、まだよしとしておこう。万里にも渡る塩水の海……荒唐無稽もよいところだ。帆船を昼夜も問わず進めても、百日では足りない。
……まあ、万里とは距離の長さを強調する表現に過ぎないのだろう。真面目に検証するのも、大人げないというものだ。
それより気になるのは呪海だ。
神竜教会の伝承にも同様の言葉が使われているが、それにしても意味不明にも程がある。
悪しき神の血が呪いをもたらした――などと唐突に書かれても困惑してしまう。子供向けの神話なら、分かるように書くべきだろう。これでは何の説明にもなっていない。
呪いとはいったい何だというのか? 呪海が世界を蝕む? しかし、下界はなんだかんだいっても、その姿を留めている。どこに呪海があるというのか?
もしかしたら、何かの暗喩なのか。例えば、呪いとは文明を発達させ、自然を支配しようとする人間のおごりを象徴しているとか……。
いや、どう読んでもそんなものは読み取れない。しょせんは子供向けの御伽話だ。真剣に悩むほうが間違っている。
アルヴァは本を閉じて、目をつむった。