犬人の夫婦
ゾゾロアの案内に従い、アルヴァは浴場に向かう。
浴場――といっても、家のそばに屋根と囲いがあるだけだ。ゾゾロアが『体を洗う』と表現した通り、浴槽なんて贅沢なものはないらしい。
水瓶に溜めてある水を桶に汲んで、水浴びしろということのようだ。
ふと気づけば、遠くに波の音が聞こえる。
考えてみれば、アルヴァは海沿いを歩いていたのだ。ここは海辺の村に違いない。
まさか、水瓶の中身も塩水ではなかろうか?
……と、匂いをかいでみるが、さすがに大丈夫なようだ。雨水か地下水か川の水か――ともかく真水のようで安心した。
それにしても……。と、水浴び場を見て激しく落胆する。
帝都の住民は貴賎を問わず、日常的に湯船につかる習慣を持っていた。無論、アルヴァもその一人だったのだ。
浴槽については諦めよう。
せめてもの抵抗で、水浴び場に火竜石と杖を持ち込んだ。水瓶の中に杖先の魔石をつけて、魔力を込める。火を起こすのではなく、直接熱を起こして水を温めるのだ。
「何やってんだい? おや、それってもしかして魔法かね?」
そんなことをしていたら、様子を見に来たゾゾロアに不思議がられた。魔法の存在は知っているようだが、魔道士自体が珍しいようだ。
とりあえず、温かいお湯で体を洗えた。
それだけでも気分はさっぱりだ。湯船を使えずとも、体を清潔にできるのは気分がよい。
従軍したり探検したりで、不衛生な環境にも耐性を持ったアルヴァであるが、決して不潔が好きなわけではない。
ゾゾロアに渡された服に手を通し、スカートをはく。案の定、無理はあったがスカートがずり落ちないように、ゾゾロアが帯をきつめに結んでくれた。
「うんうん。いいんじゃないかね。あんたも見てみな」
と、鏡を差し出された。
鏡の品質は悪く、表面は錆びているが、使えないことはなさそうだ。
顔は少しやつれているが、なじんだ顔に変わりはない。
壮絶な経験をして、別人に変わった思いすらあったが、そんなこともなかった。精々、一週間を放浪していただけなのだから当然である。
改めて服装を見る。
服はだぶだぶで質素だが、落ち着いた藍色は嫌いではない。
普通の村娘のような出で立ちだが、贅沢は言うまい。そのほうが目立たなくてよいだろう。
アルヴァ自身も貴族のような華美な服装が嫌いで、いつも質素な黒を基調としていたのである。
「じゃあ、食事にしようか」
犬人の夫妻と共に食卓に座る。椅子は使わず、木の床に直接座る文化のようだ。
食卓といっても、食事のための部屋があるわけではない。なんせ家の中に部屋は一つしかないのだ。食事する時も、眠る時も、全て同じ空間で過ごすのだろう。
「すみません。何から何まで……」
海藻に生魚。食卓の床に並んだ料理を見れば、どことなく懐かしい。きっとここの村人は漁をして暮らしているのだろう。塩水か真水かの違いはあるが、母の故郷で見た海の料理に似通っていた。
しかし、お碗に入れられた白い粒々。これが分からない。
「――何ですか、この白い粒々は?」
お椀の中に白い粒々が盛られている。上界では見たことのない食べ物だ。
「米だよ。上の人はお米も食べないのかな?」
モゴロフはアルヴァの反応を興味深そうに見ている。
「ええ、少なくとも上界で食べたことはありませんね」
と言っても、帝国以外の食文化に関しては、アルヴァもさほど詳しくはない。上界でも帝国の外に行けば、米食を行う文化もあるかもしれない。
試しに食べてみようと思ったが、匙がない。
……もしや、この二本組の木の棒を使えというのか。何とも貧相な食器である。
だがそれも無理はないか。
このような村では、満足に食器を買うお金もないに違いない。銀の匙など、夢のまた夢というわけだ。
そこで木を削っただけの棒を、食器として使おうと思いついたのだろう。貧しい中でも、工夫して食事をしようという庶民の知恵なのだ。
「ん~? もしかして箸を使ったことがないのかい?」
なかなか食事に手をつけないアルヴァに、ゾゾロアが気づいた。どうやら箸というらしい。
「――こうやるんだよ」
と、実際に実演して見せてくれる。ゾゾロアは箸で食事を挟み、口の中に放り込んでいった。
「なるほど、やってみます」
そうして、箸で米をつかもうとしたがこぼれ落ちてしまった。
「違う違う。こう持つんだ。指はこうやって――」
筆のように箸を持っていたが、モゴロフに注意されてしまった。彼の指導によれば、独自の持ち方があるらしい。
……なかなか難しいようだ。
たかが食事にこれだけの努力を要するとは、涙ぐましい庶民の努力と言わざるを得ない。だが、せっかくの歓待を無下にはできまい。
アルヴァは見よう見まねで箸を使った。そうして、どうにか米を口へと放り込んだ。
やや粘り気のある歯応え。これといって特徴のない味であるが、ほんのりと塩気がきいている。
献立の中心に置いてあるので、この地域では主食なのかもしれない。
主食ならばパンなどと同様に、濃い味でないほうがよいのだろう。他のおかずと合わせて食べるものに違いない。
そんなふうに考えながら食べていれば、悪くないような気がしてきた。生魚につけるソースも、上界にはない味だが慣れればおいしい。
「あんた、見た目によらず早食いだねえ……」
呆れるようにゾゾロアが言った。
「すみません。空腹だったものでして……」
「いいよ、いいよ。若い子はいっぱい食べないと。喉詰まらせたりしないようにね。ウチの娘もいっぱい食べて育ったもんだったよ」
夫妻の娘……。アルヴァが着ている服の持ち主だと聞いていたが、この家の中にはいないようだ。
気にはなるが、余計な詮索はすべきでないだろう。身内の不幸を赤の他人が掘り返してはならないのだ。
「あの子ったら、悪い狼に捕まっちまってねえ……。この村から連れ去られてしまったんだよ」
と、思っていたら、自分から話してくれた。
「悪い狼……ですか?」
「コラコラ、紛らわしいことを言うんじゃない。娘は狼男のところに嫁いでしまってね。ここから南西にベラクって町があるんだが、夫婦でそこの宿を切り盛りしてるんだ。この前は孫娘も連れてきて元気そうだったよ」
狼の亜人の元に嫁いだということか。
しかし、犬女と狼男の夫婦で子供ができるのだな――と妙なところに感心する。種族的に近ければ多少の差異はあっても、大丈夫なのだろう。
「いや、でも狼だよ狼。あたしら犬と比べたら乱暴者だよ。きっとココロアも裏では殴られたりしてるかもしんないよ。ねえアルヴァもそう思うだろう?」
「はあ……」
ココロアというのが娘なのだろう。見たこともない人物の夫婦関係に、意見など求められても困ってしまうが……。
「種族だけで人を判断するなと言っただろ。ボグフォイ君は狼ながら紳士的な男だ。ココロアの見る目は間違ってない。お前もそろそろ娘離れしたらどうなんだ?」
そんな調子で夫婦の会話が続いていくのだった。
ゾゾロアがなんやかんやと騒ぎはするが、モゴロフのほうが落ち着いているため、ケンカになったりはしない。
なんだかんだで、この夫婦はうまくやっているようだ。
アルヴァもゾゾロアの質問に答える形で会話に加わった。モゴロフも時折、口を挟みながら気を使ってくれる。
相手は亜人とはいえ、久しぶりの人との会話に、言いようのない安心感を覚えるのだった。
ゾゾロアに勧められるままに食べたので、満腹になってしまった。この何日かは栄養が不足していたので、これぐらい食べても過剰ではないだろう。
食事をして会話をしただけのことなのに、随分と満たされた気分になった。上界にいた頃には久しく持たなかった感覚である。
いつからか役目や利害といったことばかりを求めるようになって、こういう単純な喜びを忘れていた。
原始的な欲求である食欲は満たされた。次はより高度な欲求として、知識欲を求めたくなった。
キョロキョロと辺りを見回してみるが、目的のものは見当たらない。
「何を探してるんだ?」
見かねたモゴロフに声をかけられる。
「下界の文字を見たいのですが……。この家にはないのでしょうか?」
まさか、下界には文字が存在しないなんてオチはないだろうな――と危惧する。これだけ上界と似た話し言葉を持っていて、文字がないはずもないだろうが……。
「ウチには文字なんて、あるわきゃないよ。だって、あたしらは文字なんて読めないし。するってえと、アルヴァは文字が読めるんだね。その歳で立派だねえ」
思わず絶句してしまう。
この村では文字を読めるだけで、立派と扱われるのだろうか……。いや、自分の常識で考えてはいけない。
数百年前までは、帝国にもそのような地域があったと聞いている。文字は誰でも読める――というのは狭い世界での常識なのだろう。
先帝達が教育水準を向上させるよう努力したがために、現帝国は誰もが読み書きできる国となったのだ。
そんなアルヴァの様子を目にしたモゴロフは。
「ああそうだ。君が起きたら連れてくるようにと、村長が言ってたんだ。あの人なら文字だって読めるよ。この村では一番偉いからね」
「村長……? この私にいかなる用でしょうか?」
少し警戒しながら言った。
「そんなに構えるこたあないよ。遠くから来た旅人は、村長が歓待するのがしきたりなんだから。特にあんたみたいな追放者は何年振りになるかねえ……」
ゾゾロアにそう言われて納得した。
このような村ではよそ者自体が、非常に貴重なのだ。だから、村長自ら歓待し、情報を引き出そうというわけなのだ。
ならば、こちらとしても情報を得る良い機会になるだろう。