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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第二章 失われた世界
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犬人の夫婦

 ゾゾロアの案内に従い、アルヴァは浴場に向かう。

 浴場――といっても、家のそばに屋根と囲いがあるだけだ。ゾゾロアが『体を洗う』と表現した通り、浴槽なんて贅沢なものはないらしい。

 水瓶(みずがめ)に溜めてある水を桶に()んで、水浴びしろということのようだ。

 ふと気づけば、遠くに波の音が聞こえる。

 考えてみれば、アルヴァは海沿いを歩いていたのだ。ここは海辺の村に違いない。


 まさか、水瓶の中身も塩水ではなかろうか?

 ……と、匂いをかいでみるが、さすがに大丈夫なようだ。雨水か地下水か川の水か――ともかく真水のようで安心した。

 それにしても……。と、水浴び場を見て激しく落胆する。

 帝都の住民は貴賎(きせん)を問わず、日常的に湯船につかる習慣を持っていた。無論、アルヴァもその一人だったのだ。


 浴槽については諦めよう。

 せめてもの抵抗で、水浴び場に火竜石と杖を持ち込んだ。水瓶の中に杖先の魔石をつけて、魔力を込める。火を起こすのではなく、直接熱を起こして水を温めるのだ。


「何やってんだい? おや、それってもしかして魔法かね?」


 そんなことをしていたら、様子を見に来たゾゾロアに不思議がられた。魔法の存在は知っているようだが、魔道士自体が珍しいようだ。


 とりあえず、温かいお湯で体を洗えた。

 それだけでも気分はさっぱりだ。湯船を使えずとも、体を清潔にできるのは気分がよい。

 従軍したり探検したりで、不衛生な環境にも耐性を持ったアルヴァであるが、決して不潔が好きなわけではない。


 ゾゾロアに渡された服に手を通し、スカートをはく。案の定、無理はあったがスカートがずり落ちないように、ゾゾロアが帯をきつめに結んでくれた。


「うんうん。いいんじゃないかね。あんたも見てみな」


 と、鏡を差し出された。

 鏡の品質は悪く、表面は()びているが、使えないことはなさそうだ。

 顔は少しやつれているが、なじんだ顔に変わりはない。

 壮絶な経験をして、別人に変わった思いすらあったが、そんなこともなかった。精々、一週間を放浪していただけなのだから当然である。


 改めて服装を見る。

 服はだぶだぶで質素だが、落ち着いた藍色(あいいろ)は嫌いではない。

 普通の村娘のような出で立ちだが、贅沢は言うまい。そのほうが目立たなくてよいだろう。

 アルヴァ自身も貴族のような華美な服装が嫌いで、いつも質素な黒を基調としていたのである。


「じゃあ、食事にしようか」


 犬人の夫妻と共に食卓に座る。椅子は使わず、木の床に直接座る文化のようだ。

 食卓といっても、食事のための部屋があるわけではない。なんせ家の中に部屋は一つしかないのだ。食事する時も、眠る時も、全て同じ空間で過ごすのだろう。


「すみません。何から何まで……」


 海藻に生魚。食卓の床に並んだ料理を見れば、どことなく懐かしい。きっとここの村人は漁をして暮らしているのだろう。塩水か真水かの違いはあるが、母の故郷で見た海の料理に似通っていた。

 しかし、お(わん)に入れられた白い粒々。これが分からない。


「――何ですか、この白い粒々は?」


 お椀の中に白い粒々が盛られている。上界では見たことのない食べ物だ。


「米だよ。上の人はお米も食べないのかな?」


 モゴロフはアルヴァの反応を興味深そうに見ている。


「ええ、少なくとも上界で食べたことはありませんね」


 と言っても、帝国以外の食文化に関しては、アルヴァもさほど詳しくはない。上界でも帝国の外に行けば、米食を行う文化もあるかもしれない。

 試しに食べてみようと思ったが、(さじ)がない。

 ……もしや、この二本組の木の棒を使えというのか。何とも貧相な食器である。


 だがそれも無理はないか。

 このような村では、満足に食器を買うお金もないに違いない。銀の匙など、夢のまた夢というわけだ。

 そこで木を削っただけの棒を、食器として使おうと思いついたのだろう。貧しい中でも、工夫して食事をしようという庶民の知恵なのだ。


「ん~? もしかして箸を使ったことがないのかい?」


 なかなか食事に手をつけないアルヴァに、ゾゾロアが気づいた。どうやら箸というらしい。


「――こうやるんだよ」


 と、実際に実演して見せてくれる。ゾゾロアは箸で食事を挟み、口の中に放り込んでいった。


「なるほど、やってみます」


 そうして、箸で米をつかもうとしたがこぼれ落ちてしまった。


「違う違う。こう持つんだ。指はこうやって――」


 筆のように箸を持っていたが、モゴロフに注意されてしまった。彼の指導によれば、独自の持ち方があるらしい。

 ……なかなか難しいようだ。

 たかが食事にこれだけの努力を要するとは、涙ぐましい庶民の努力と言わざるを得ない。だが、せっかくの歓待を無下にはできまい。


 アルヴァは見よう見まねで箸を使った。そうして、どうにか米を口へと放り込んだ。

 やや粘り気のある歯応え。これといって特徴のない味であるが、ほんのりと塩気がきいている。

 献立(こんだて)の中心に置いてあるので、この地域では主食なのかもしれない。

 主食ならばパンなどと同様に、濃い味でないほうがよいのだろう。他のおかずと合わせて食べるものに違いない。


 そんなふうに考えながら食べていれば、悪くないような気がしてきた。生魚につけるソースも、上界にはない味だが慣れればおいしい。


「あんた、見た目によらず早食いだねえ……」


 呆れるようにゾゾロアが言った。


「すみません。空腹だったものでして……」

「いいよ、いいよ。若い子はいっぱい食べないと。(のど)詰まらせたりしないようにね。ウチの娘もいっぱい食べて育ったもんだったよ」


 夫妻の娘……。アルヴァが着ている服の持ち主だと聞いていたが、この家の中にはいないようだ。

 気にはなるが、余計な詮索はすべきでないだろう。身内の不幸を赤の他人が掘り返してはならないのだ。


「あの子ったら、悪い狼に捕まっちまってねえ……。この村から連れ去られてしまったんだよ」


 と、思っていたら、自分から話してくれた。


「悪い狼……ですか?」

「コラコラ、紛らわしいことを言うんじゃない。娘は狼男のところに嫁いでしまってね。ここから南西にベラクって町があるんだが、夫婦でそこの宿を切り盛りしてるんだ。この前は孫娘も連れてきて元気そうだったよ」


 狼の亜人の元に嫁いだということか。

 しかし、犬女と狼男の夫婦で子供ができるのだな――と妙なところに感心する。種族的に近ければ多少の差異はあっても、大丈夫なのだろう。


「いや、でも狼だよ狼。あたしら犬と比べたら乱暴者だよ。きっとココロアも裏では殴られたりしてるかもしんないよ。ねえアルヴァもそう思うだろう?」

「はあ……」


 ココロアというのが娘なのだろう。見たこともない人物の夫婦関係に、意見など求められても困ってしまうが……。


「種族だけで人を判断するなと言っただろ。ボグフォイ君は狼ながら紳士的な男だ。ココロアの見る目は間違ってない。お前もそろそろ娘離れしたらどうなんだ?」


 そんな調子で夫婦の会話が続いていくのだった。

 ゾゾロアがなんやかんやと騒ぎはするが、モゴロフのほうが落ち着いているため、ケンカになったりはしない。

 なんだかんだで、この夫婦はうまくやっているようだ。

 アルヴァもゾゾロアの質問に答える形で会話に加わった。モゴロフも時折、口を挟みながら気を使ってくれる。

 相手は亜人とはいえ、久しぶりの人との会話に、言いようのない安心感を覚えるのだった。


 ゾゾロアに勧められるままに食べたので、満腹になってしまった。この何日かは栄養が不足していたので、これぐらい食べても過剰ではないだろう。

 食事をして会話をしただけのことなのに、随分と満たされた気分になった。上界にいた頃には久しく持たなかった感覚である。

 いつからか役目や利害といったことばかりを求めるようになって、こういう単純な喜びを忘れていた。


 原始的な欲求である食欲は満たされた。次はより高度な欲求として、知識欲を求めたくなった。

 キョロキョロと辺りを見回してみるが、目的のものは見当たらない。


「何を探してるんだ?」


 見かねたモゴロフに声をかけられる。


「下界の文字を見たいのですが……。この家にはないのでしょうか?」


 まさか、下界には文字が存在しないなんてオチはないだろうな――と危惧する。これだけ上界と似た話し言葉を持っていて、文字がないはずもないだろうが……。


「ウチには文字なんて、あるわきゃないよ。だって、あたしらは文字なんて読めないし。するってえと、アルヴァは文字が読めるんだね。その歳で立派だねえ」


 思わず絶句してしまう。

 この村では文字を読めるだけで、立派と扱われるのだろうか……。いや、自分の常識で考えてはいけない。

 数百年前までは、帝国にもそのような地域があったと聞いている。文字は誰でも読める――というのは狭い世界での常識なのだろう。

 先帝達が教育水準を向上させるよう努力したがために、現帝国は誰もが読み書きできる国となったのだ。

 そんなアルヴァの様子を目にしたモゴロフは。


「ああそうだ。君が起きたら連れてくるようにと、村長が言ってたんだ。あの人なら文字だって読めるよ。この村では一番偉いからね」

「村長……? この私にいかなる用でしょうか?」


 少し警戒しながら言った。


「そんなに構えるこたあないよ。遠くから来た旅人は、村長が歓待するのがしきたりなんだから。特にあんたみたいな追放者は何年振りになるかねえ……」


 ゾゾロアにそう言われて納得した。

 このような村ではよそ者自体が、非常に貴重なのだ。だから、村長自ら歓待し、情報を引き出そうというわけなのだ。

 ならば、こちらとしても情報を得る良い機会になるだろう。

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