界門を抜けて
用事を終えた三人は宿に戻った。マリエンヌが来るまでに計画を立てておきたい。
ソロンは鞄から地図を取り出し、二人の前で広げた。
「なんだ、その地図は?」
グラットが不思議そうな声を上げた。ミスティンも「どこ?」と困惑している。それもそのはず、それは二人がいまだかつて見たことのない地図だったからだ。
「あっ、そっか!」
ミスティンがようやく悟った。
「下界の地図さ。これで計画を立てる」
ソロンが故郷を立つ時から、ずっと持っていた地図である。久しぶりに使う機会が回ってきたわけだ。
「はあ……。本物なんだなあ」
地図という具体的な物を見て、グラットも下界の存在を実感したようだ。
「でも、下界のどこにつながってるの? それが分からないと、どうしようもないんじゃない?」
ミスティンの言う通りである。上界と下界のつながりが分からなければ、地図があっても意味がない。
「上界と下界は界門を通して、上下にまっすぐつながってる。だから、この辺りに対応する下界の位置を見つければいいだけさ」
もっとも、ソロンとて完璧に把握しているわけではない。
今までの経路から、帝都は故郷イドリスよりもずっと北西にあるのは間違いない。しかしながら、下界での正確な位置までは分からなかった。
それでも一つ考えがあった。
「ミスティン。そっちの地図も見せて」
「いいけど。……全然違うね」
ミスティンが上界の地図を取り出した。下界の地図と見比べて、その違いに驚いているようだ。
下界と上界――二つの地図が床に並んで広げられた。当然ながら、両地図の縮尺はバラバラだし、精度も異なる。
上界の地図のほうが格段に精度が高い。
海岸線ならぬ雲岸線まで精緻に書き込まれた地図。それを見れば、過去に大々的な測量がなされた事実も伝わってくる。
収録されている範囲も広く、帝国本島とその周辺を網羅していた。それはそのまま、帝国の文明度と統治能力の高さを語っている。
そして、下界の地図だ。
「よく見りゃ空白だらけだな……。当てになんのかこれ?」
地図を見比べて、グラットがもっともな感想を漏らした。
「白雲――つまり雲海の下については、それなりに信用できるよ」
ソロンがそう言うと、二人に「はあ?」というような顔をされた。しかし、それは予想通り。白雲と黒雲といった下界の概念について、簡単に説明した。
「はあ、そういうことか……。それで地図がこんなふうになってんだな」
グラットが一応の納得をしてくれた。
下界の地図でも白雲の下ならば、ある程度の精度が望める。しかし、それも黒雲の下にまでは及ばない。奥地に至っては空白地帯が当たり前。
それもそのはず、そんな所まで探索しようという冒険者がいないからだ。当然ながら、地図というのはその地を調べる者がいなければ、空白を埋められない。
地図に収まっている範囲も狭い。ソロンの故郷イドリス――その領土とその周辺を掲載するのがやっとだ。領土内から離れた地域は一気に内容も適当になる。
そんなわけで、地図を一見しただけで上界と下界の対応を見極めるのは難しい。特に界門の転移先は黒雲の下に当たる。さほど奥地ではないが、それでも精度は望めそうにない。
だが、手がかりはある。
それは上界の『雲海』と下界の『白雲』の対応関係だ。
界門は帝都のすぐ北西。そして帝都の南側は港として雲海に接している。この雲海に対応する下界の白雲地帯を探せばよい。
幸い、下界の地図は白雲の場所を色の明暗で示してある。これは下界人にとって、重要な情報なので当然だ。この区別をしていない地図のほうが珍しいだろう。
それを頼りに下界の地図を眺める。
「これだ!」
対応する白雲はすぐに見つかった。
帝都南の雲海は、北・東・西の三方を陸地に囲まれた細長い領域である。
下界の地図でそれに似た白雲地帯を、イドリスの北西方向で探せばよいだけだ。縮尺は違っても地形の形状が特徴的なので、ほとんど悩む必要もなかった。
「場所は分かったけど。……それで、陛下の行き先はつかめそう?」
「南だと思う」
「どうして?」
「説明した通りさ。南側にだけ白い雲があるでしょ。昼間になると、日が当たるのはあの下だけになる。だからまずはあっちを目指すしかない。実際、下界に住む人間も極力は黒雲の下を避けるからね」
マリエンヌによれば、アルヴァが追放された時刻は朝だという。ならば、日中になるまで時間的な余裕があったはずだ。うまく、移動してくれていればよいが……。
「だがよお、あのお姫様がそこまで的確に判断できるかね?」
その懸念はあった。
ソロンはアルヴァが正しい判断を下すという想定で、追跡計画を立てている。だから前提が崩れてしまえば、全ては意味を成さなくなってしまう。
「分かんないけど、陛下は頭のいい人だと思うから……」
下界においても、理知的な彼女であって欲しい。そうソロンは願った。
「うん、私も陛下を信じるしかないと思う」
ミスティンも頷く。
「まあ、そう考えるしかないか……。あの人なら、俺らなんかよりずっと賢いだろうしな」
グラットも納得する。後は腹をくくって、下界に向かうしかない。
*
準備を終えたので、宿の前でマリエンヌを待っていた。
三人とも旅に備えてマントを羽織っている。下界の風は強く、黒雲の下は初夏でも肌寒い。防寒対策は欠かせない。
十五時半よりもまだ早い時刻。マリエンヌは三人の兵士を連れてきた。
約束通り、四人全員が馬に乗っている。マリエンヌが馬に乗れるのは少し意外だったが、仕事柄、アルヴァに帯同するために必要だったのかもしれない。
兵士達の後ろにまたがり、界門の元へと出発する。
その場所は、帝国の有力者の間でもそれほど知られてはいないらしい。アルヴァから信頼を得ていた秘書官だからこそ、知り得た情報なのだろう。
「よう、ソロンと言ったっけな」
馬に乗って少し進んだところで、同乗の兵士に声をかけられた。
どことなく見覚えがある気がする。兵士の胸当ては青みがかった銀色になっており、一般的な帝都の兵とも装飾が異なっていた。
「ええ」
探検の際、アルヴァの護衛をしていた兵士の一人だと気づいた。恐らく秘書官と同じで、イシュティール伯爵家に属する者なのだ。
皇帝の兵ではなく、アルヴァの私兵として、今でも忠誠を誓っているのだろう。
「正直、俺には難しいことはよく分からん。けれど、アルヴァ様が危険なところにいらっしゃるというのは聞いた」
「ええ、だから僕達が助けに行くんです」
「頼む」
と、応じたのはミスティンを馬の背に載せている女性兵だ。こちらもアルヴァの護衛を務めていた一人だろう。
「――アルヴァ様は気丈な方ではあるが、まだお若い。一人で見知らぬ土地に放り込まれたら、どんな思いをなさるか……」
「できる限りのことはやってみます」
下界といっても、降りた先はソロンの故郷から幾分離れている。絶対の自信は持てなかったが、やれることはやろうと考えていた。
実のところ、アルヴァに出会えたからといって、どうするかという明確な方針があるわけではない。追放刑は帝国が正規の手順によって発令したものであり、彼女が罪人である事実は変わりない。
それでも、安全な場所で保護するぐらいは許されるはずだ。
建前かもしれないが、追放刑は追放刑であって処刑ではない。そこの欺瞞は最大限に利用させてもらうとしよう。
保護してから先はアルヴァの意向次第だ。
法律上、彼女の身柄がどういった扱いになるのかは知らない。上界に連れ戻せば、また刑が下されるのだろうか……。
そこもマリエンヌと詰めておければよかったが、あいにく時間がなかった。
マリエンヌは故郷のイシュティールに戻って報告を待つという。上界にアルヴァを連れ戻せた場合は、まずそちらを頼るとソロンは約束した。
それでうまくゆくと祈るしかないが、何にせよ、彼女を救出しなくては始まらない。
帝都の北門から馬で三十分ほど歩いた北西の森――その中を十五分ほど進む。時間は正確に測ったわけではないが、体感ではそれほど差はないだろう。
ともかく、そこに黒い門が見えてきたのだ。
「真っ黒だなあ」
グラットがそれを見て感想を漏らした。
界門には赤い文字こそ刻まれているが、材質自体は奇妙なほどに真っ黒である。光の反射もほとんどないため、見ていて遠近感が狂いそうだ。
全員が馬から降りた。
時刻は予定の十五時より早いかもしれないが、まあ大丈夫だろう。
グラット、ミスティンと共に、ソロンは台座の上に立つ。そうして、鞄から黒いカギを取り出した。
「黒すぎてカギ穴が見つからないね」
ミスティンが界門を興味津々で触っている。奇妙なことに、この物質は触れても指紋も何もつかないのだ。相当に古くからあるはずだが、劣化しているようにも見えない。
「穴だったら元からないよ」
「ん?」
「こうするんだ」
答えに代えて、ソロンはカギの先端を界門の柱へ当てた。
魔力を込めると、カギと界門が共振を開始する。腕から界門へ、凄まじい勢いで魔力が流れ込んでいく感覚があった。
転移のような類例のない魔法を使用するためには、膨大な魔力が必要なのだろう。
もっとも、一度経験したことであって覚悟の上ではある。
界門の振動が増していく。「ウゥゥゥン」という奇妙な音が鳴り響く。
聞く者を不安にするような音だが、これもソロンにとっては二回目だ。うまくいっていると確信し、むしろ安堵する。
やがて、界門の下の空間が、発光すると共に揺らぎ出した。下界への門が、今ここにつながったのだ。
「うおっ、なんだこりゃ!?」
「不思議……!」
グラットとミスティンがそれぞれ驚きの声を漏らす。マリエンヌや兵士達も、やはり呆然とした表情をしている。
「行ってきます!」
界門起動による疲労を見せないように、ソロンはマリエンヌ達に別れの挨拶をした。
「アルヴァ様をお願いします!」「がんばれよ!」「頼んだからな」「土産待ってるからな!」
と、マリエンヌと兵士達が口々に声を上げて手を振る。色んな人がアルヴァのことを心配している。救出はソロン達の手にかかっているのだ。
ミスティンがソロンの左手を握った。
どうやら、門をくぐる際に逸れないかを心配しているらしい。大丈夫だとは思うが、ソロンも複数人での転移は試していない。念のため、右手はグラットとつないでおいた。
「行くよ!」
ソロンは仲間達へ声をかけ、門の中へと足を踏み出した。