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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第二章 失われた世界
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滝の落ちる海

 短剣にグッと力を入れて、猪を腹から大きく切り裂いていく。

 あふれ出る血液にはさすがに顔をしかめた。間近でかぐ強い血の匂いにも、吐き気を催しそうになるが、こらえて裂き続ける。

 魔法で殺傷した経験は何度もあったアルヴァだが、直接刃物で殺傷した経験はない。この点では大きく勝手が違った。

 どうにか皮を切り開いたところで、内臓が見えてきた。そこでソロンとミスティンの会話を思い起こす。


『内臓はやっぱり食べられないのかな?』

『食えないこともないけど、調理が手間だから面倒。ソロンがやりたいならやればいいけど、油断すると病気をもらうから素人にはお勧めできない』


 何気ない会話のはずなのに、思い出したらなぜだか悲しくなってくる。

 あの時は、ぼんやりと二人のやり取りを眺めていたものだったが……。人間、辛くなるとこういった何気ない会話が恋しくなるものらしい。


 とにかく、その記憶の中のミスティンに従って、臓器は捨てることにした。どうせ、アルヴァの胃袋ではそんなに多くは収まらない。

 獣がこちらに近づいてこないように、少し離れた場所に放り投げる。気休めに土竜石で土をかぶせておいた。

 臓器の血臭(けっしゅう)に誘われて、こちらまで獣がやって来ないように――と祈りながら。


 そうして、見よう見まねで時間もかかったが、どうにか肉を切り出せた。木の枝で刺した猪肉(ししにく)焚火(たきび)の中へと差し入れる。

 なじみのある肉の焼ける匂いが漂ってきた。

 猪といっても上界にいる種類と、同様である保証はない。食べられるのか? 毒はないのか? 味はどうなのか? 懸念はたくさん思い浮かぶ。

 しかしながら、解体作業の疲労も手伝って、空腹はどうにもならない。我慢はできなかった。


 焼き上がった大きな肉を手づかみで喰らった。

 短剣はあるが、小さく切り分ける手間も惜しい。マリエンヌに見られたら悲鳴を上げそうな光景だが、どうせ誰も見る者はいないのだ。

 調味料なんてあるはずもない。それでも、味も歯応えも悪くはなかった。ただ食事中は夢中で、そんなことを考えている余裕すらなかった。空腹が満たされた喜びで、涙を流しそうな心地だった。


 さすがにアルヴァの体で、一度に全てを食べ切るのは無理がある。猪肉を手頃な大きさに切り取って、冷気の魔石――氷晶石で凍らせる。その上から拾った草で包んでおいた。

 今思いつく保存策はそのぐらいだ。そうして、持てるだけの量を袋に入れた。


 腹ごしらえを終えて、また歩き出す。

 やがて、山道は終わり、黄土色の草原に戻った。

 草原を歩き続けるアルヴァの前に、砂が露出した細い地形が目に入った。地形は地平線の向こうまで、ずっと続いている。


「道……」


 そう――それは人の道のように見えた。もちろん、帝国のような石造りの道ではない。他の部分と比較して草が少なく、まっすぐに続いているため、かろうじて道といえる程度のものだった。


 それでも、重大な発見である。

 それは下界に今も人間がいる証拠とも考えられた。ここをたどっていけば、いずれは人の元に到達できるかもしれない。

 ……ひょっとしたら、人間ではない可能性もある。亜人、あるいは魔物が使う道かもしれない。

 しかし、それを考慮しても、この道を進むという選択が魅力的に思えた。それだけが現状唯一の手がかりであり、希望なのだ。


 既に日が暮れようとしているが、文字通りの道筋がついた。今日はここで終わりにしよう。夕飯はもちろん猪肉だ。

 また土壁を作って就寝した。おかげで睡眠への抵抗が随分とやわらいだ気がする。

 昨日で手順に慣れていたために余裕ができた。なので、今日は天井を作ることにした。


 ……といっても、枝葉をいくつか切り取って上に乗せておくだけである。密閉はできないが、これなら落ちてきても大したことはない。


 *


 五日目――希望の道をたどるために、アルヴァは歩き出した。

 西には森。東には山。相変わらず木と草と山ばかりであるが、道があるというだけで多少なりと心が救われる。

 道の雰囲気からいって、あまり頻繁に使われている印象はない。何年も前に使われなくなったものだろうか。


 そもそも、アルヴァが歩いてきた北の方角には、古い遺跡以外はこれといったものがなかった。人間がいたとして大した用途があるとも思えない。あるとすれば界門ぐらいだろうか。

 道を使う人は見えないが、道を使う獣や魔物の姿は時折目にする。

 その際、なるべくは側道の木に隠れたり、登ったりしてやり過ごす。やむを得ない場合だけ、魔法で戦うようにした。


 ……気力が萎えている。どうにもこうにも足取りが重い。歩くことには上界でもそれなりに慣れていたが、あの頃は目的地があった。

 どこに向かえばよいのか……。

 どこまで進めばよいのか……。

 そもそも終わりがあるのか……。

 そんなことを考えながら、進み続けるのは気が遠くなるような苦行だった。


 それでも、惰性で足を進めていれば昼になった。

 昼食は相変わらずの猪肉である。歯応えは悪くないのだが、調味料が欲しくなってくる。

 何かの木の実が代わりになるかもしれないが、そこまでする気力が湧いてこない。味気なさを我慢して飲み込んだ。


 食事をすれば(のど)が渇く。

 だから水を飲んだ。

 しかしながら、水流石が蓄えていた水量も、残りわずかとなっているのに気づいた。


 日が暮れ始めた頃、西側に見えていた森が途切れた。それに代わって、西の遠くに水場が見えた。水場――と表現したのは遠目からは判別できないからだ。池か、湖か、あるいは……。

 道も西寄りに続いていたので、近づいてみることにした。


 少し近づいても向こう岸は見えない。水平線を太陽が赤く照らしている。

 さらに近づけば、浜辺へと寄せては返す波も見えてきた。湖というよりは海と呼ぶべき規模かもしれない。


 そうして、砂浜を見渡せる高台にたどり着いた。

 相当に広いらしく、高台の上に立っていても水平線が見えている。なつかしい波の音が聞こえてくる。吹きつける潮風が黒髪をゆらす。


 アルヴァの母方の故郷イシュティールは海に面している。海はイシュテア海と呼ばれており、都市名もそこに由来する。イシュティールは海の都と呼ばれるような美しい都市であった。

 だから、海を見るのは初めてではない。

 だが――


「え……?」


 異様な、上界ではありえない光景に声が漏れた。

 海の向こう、(はる)か遠くに滝のようなものが見えたのだ。遥か遠く――陸続きだったとしても、歩いて一日はかかる。そう思われるほどに遠くである。


 それでも視認できるのは、滝が天上高くまで伸びているからに他ならない。しかしながら、滝は山や崖から流れているわけでもない。

 滝は白雲から落ちていたのだ。

 そして、それを見たアルヴァは悟った。


「エーゲスタの滝……」


 これこそが上界で見た滝のゆく末なのだ。

 ベスタ島へ向かう船旅の初日に、ソロン達と一緒に眺めたあの滝だ。元をたどれば、母方の故郷イシュテアの海へと回帰することも、アルヴァは知っていた。


 しばらく呆然と滝を眺めていた。

 純粋に壮大かつ美しい光景であった。この光景は上界で一生を終える者にとっては、絶対に見ることは叶わない。その事実に不思議な感動を覚えてもいた。


 ……と、滝に目を奪われてばかりではいけない。砂浜へと降りて、改めて海に目をやってみる。

 上界で見た透き通った青と比較すると、水の色は暗い。遠くを見れば黒っぽい青緑色になる。不純物が多いためか、深さのためか、それとも日光が弱いためか、そこはよく分からない。


 ただ海岸に押し寄せる水を見る限りでは、さほど濁っているようにも見えない。目をこらせば小さな魚の泳ぐ姿もある。つまりは生物が存在できる水質ということだ。


 すっかり(のど)が渇いていたこともあって、大丈夫だろうと手にすくう。

 一口飲んで見ると――


「えぁ……!?」


 強烈な塩気に慌てて吐き出す。あまりに喉が気持ち悪いので、何度もむせ返る。


「なんですかこれは……。水も飲ませてくれないのですか……」


 落胆と喉の痛みで、目には自然と涙が浮かぶ。

 塩水の海だなんて聞いたこともない。少なくともアルヴァの常識にはなかった。


 ひょっとしたら、下界の海や湖はどこもこうなのだろうか……。だとしたら水分の補給は絶望的だ。

 イシュテア海の水は綺麗で、飲水としても不足がなかった。実際に帝都では、そこから流出する河川より、水道橋を通して水を引いているのだ。

 しかし、これでは喉を(うるお)すどころか逆効果だ。強烈な渇きを覚える。


 ひとまず、木の実を探してしのぐことにした。見つかったのは上界でも見たイチジク。独特の甘みが口の中に広がると共に、水分で喉が潤った。

 とはいえ、これも一時しのぎに過ぎない。早く飲める水を手に入れないと……。


 既に日は暮れようとしていた。これ以上は無理できない。

 飲水は欲しかったが、一つ案を思いついた。

 それには明朝(みょうちょう)を待たねばならない。今日もまた、土壁を作って眠りに就いた。

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