下界の森
三日目――今日も木の上で目覚めた。
木の上に慣れたためか、昨日よりは体の痛みを感じない。
西には森、東には険しい山脈。必然的に今日も向かうは南。
だが、この先に何があるかは分からない。何かがあるという保証もない。それでも、今日こそは何か変化があるだろうと期待して足を踏み出す。
すぐに変化があった。
二時間と進まないうちに、草原が途切れたのである。ただあまり望ましいとは言い難い。
正面の南には森。東西には険しい山。山を越えるのは相当に厳しそうだ。それに越えたところで、人が住むような平地に出るとは思えない。
まだしも、そのまま森に進んだほうがマシだろう。
森は生命の宝庫であり、当然ながら魔物の宝庫でもあった。それは上界でも下界でも、変わらないはずだ。気を引き締めて行かねばならない。
草原から森へと分け入る道のような隙間があった。人が使う道とは思えないので、獣道だろう。
獣道――というのは、もちろん獣や魔物が使う道である。魔物と鉢合わせする可能性も考えられた。
それでも、アルヴァはそこに足を踏み入れた。
道のない場所を進むのはアルヴァの体力では厳しかった。それに見通しのよい道を歩いたほうが、何かが襲ってくるにしても対処はしやすい。
どこに繋がっているかは分からないが、森の向こうまで続いていると信じよう。
まだ時刻は朝のうち。
それでも、東から射す日光を樹木が遮るために薄暗い。昼間になれば、太陽が上に登るため明るくなるはず。
……なのだが、下界の常で上は雲に覆われている。あまり期待はできないだろう。せめて、蛍光石のブローチを胸につけて、少しでも見通しをよくすることにした。
虫の鳴き声がそこら中から聞こえてくる。鳴き声はどこか不気味で落ち着かない。
まだ日暮れまでには、かなり時間があるはずだ。できれば、森の中で夜を明かすのは避けたいが……。
まだまだ先は長い。焦る気持ちを抑えて足を運んでいく。
左右に目を配りながら進んでいくと、奇妙な生き物や植物が次々と目に入ってくる。
犬ぐらいの大きさで、腹のふくらんだ蛇のような生き物。トカゲかと思いきや足が見当たらない。襲ってくる様子がないので、放っておいたら、木々の合間に消えていった。
巨大な根が地上にも見える大樹があれば、それに巻きつく赤いツル草がある。
薄暗い森の中にも、ぼんやりとした明かりが見える。どうやらキノコが発光しているようだ。
前方にウネウネと動く触手のような物が目に入った。紫色の触手はこちらを誘うように揺らめいている。
何の生物かと思って視線を触手の元に向ければ、白く太い幹が見えた。触手と合わせてイソギンチャクのような構造をしている。
「何ともグロテスクですわね……」
思わず溜息が漏れる。気持ちが悪い……。近くを通れば、触手がこちらに巻きついてくるかもしれない。
道を多少は外れるが、遠くを通るようにした。
イソギンチャクは何もやってこなかった。恐らく動物が近づけば、何かをしかけてくるのだろう。気にはなったが、自分が実験台になるつもりはない。触らぬ神に祟りなしである。
途中、道が複数に分かれている箇所もいくつかあった。その場合は太陽を参考に、なるべく南へ向かう道を選ぶようにした。
といっても、樹木に隠れるせいで太陽の方角もあいまいだ。結局は勘に頼るしかなかったのだが……。
やがて、昼になり太陽が上に登った。太陽は白雲の向こうに、ぼんやりとした姿を見せている。気休め程度だが、朝よりは明るくなった。
今、太陽は南にあるはずだ。
そして、アルヴァは太陽に向かって歩いていた。自分の方向感覚に間違いがないと認識し、ひとまず安心する。この調子で森を抜けてしまいたいところだ。
その前に、腹ごなしを忘れてはならない。
干し肉を火竜石で焼いて、左手でかぶりつく。
右手にはそのまま魔石のついた杖を持っておく。見通しが悪いため、いつでも魔法を放てるように警戒を怠らないようにする。
……薄々気づいてはいたが、食料がもう残り少なくなっている。食べられそうな果実を見つければ、確保しておくべきだろう。
しかしながら、得体の知れない果実を口に入れる度胸はない。
そこで狙いは、上界でよく知るものと類似した品種だ。それならば比較的に危険は少ないはずだ。
そうして、よさ気な果実を確保しながら歩いた。
森の中だけあって、果実は少なくはないのだが、やはり食べるには勇気がいる。とりあえずは、柑橘類のような実をもぎ取ってみた。
念のため火を通してから口に入れる。酸っぱさに顔をしかめたものの、むしろその酸っぱさに安堵した。
常識的な柑橘類の味だ。少なくとも変な食べ物ではないだろう。檸檬の近縁か何かかもしれない。
獣道というだけあって、多くの獣の姿も見かけた。獣といっても、その全てが人間に襲いかかってくるわけではない。実際には無害な動物のほうが多かった。
途中、鹿とすれ違った。
向こうも警戒するような素振りを見せたが、何かをしてくるわけではない。こちらも距離を取りながら、通りすぎるようにした。
こういった普通の動物を見かけると何だか安心する。寂しさをまぎらわすために、なでてみようかと考えたがやめておいた。
たかが鹿といえども、野生動物の力は侮れない。怪我をしてはたまらなかった。
いつか見た大ムカデがいた。
性質は凶暴であり、以前遭遇した経験ではその全てが襲いかかってきた。これについては情状酌量の余地はない。悩むことなく見つけ次第に瞬殺する。
もちろん、初見の魔物もいた。
シューシューという音に気づいて、アルヴァが振り向けば。
「ひゃっ……!?」
静かに忍び寄ってきた相手の姿を見て、小さく悲鳴を上げた。大きな蛇がアルヴァの胸の高さまで頭を持ち上げていた。
しかも、頭が二つ。双頭の大蛇だ。合わせて目は四つ――いずれもつぶらな瞳でこちらを見ている。チョロチョロと二つの舌が見え隠れする。
その様子は人によっては、かわいいと見えなくもないかもしれない。
……もっとも、アルヴァには爬虫類を愛好する趣味はない。
近い。
こちらから、四歩の距離まで来ている。杖を構えながら視線をそらし、そろそろと後ずさるが……。
相手も距離を詰めてきた。
ならば――と杖を向けて炎を放出する。火勢は抑えて、大蛇の寸前で止める。これなら草木に引火する心配も低い。
まだ、大蛇を殺すつもりはない。
あくまで威嚇のつもりだ。威嚇とは互いの力量差を見極め、戦いを避けようという動物の知恵である。たまには人間だって、威嚇してもよいはずだ。
それでもやるというならば、頭が二つあろうが関係ない。焼いてしまえば、みな消し炭というもの。
……しばし無言で息を飲む。
どうやら、脅しは効いたらしい。双頭の大蛇は諦めて、去っていった。
「ふう……」
無駄な殺し合いを避けられたので一息つく。魔物だって、何が何でも殺し合いをしたいわけではない。生きるために慎重でなくてはならないのは、人も魔物も同じなのだ。
既に時刻は真昼を大きく過ぎている。日が落ちるまで、あと数時間といったところだろうか。どうしても気が焦ってしまう。やはり、こんな森の中で夜を過ごしたくはなかった。
しかし、なかなか森は終わらない。
辺りはどんどんと暗くなる。こうなったら、森の中で野宿するしかない。そう覚悟し始めた頃、遠くに光が見えた。
ついに森の出口が見えてきたのだ。
*
「やりました……!」
森をぬけ出すやいなや、ひとり手を広げて歓喜の声を上げる。
目に入ったのは黄土色の草原。見飽きた光景ではあったが、それでも森の中よりは安心できた。
森を抜け出るという目標は達した。
まだ日が暮れるまで多少の時間もあったが、これ以上無理する必要もあるまい。アルヴァはここで夜を明かそうと決めた。
また木の上で寝てもよいが、何か新しいことをやりたい。そう考えて、試しに寝床を作ってみることにした。
使用するのは土の魔石――土竜石である。初日の夜に思い浮かべはしたが、実行しなかった方法だ。
杖先の魔石を黄土色のそれへと交換する。
土竜石の効力は『土』の操作。土の形を変えたり、穴を掘ったり、土塊を魔物にぶつけたり……。はたまた小規模ながら地面を揺らすことも可能だった。
ただし、どこからともなく土を生み出したりはできない。土竜石から遠く離れた地面を操作することも難しい。戦いにおいては、炎や雷に頼ったほうが手っ取り早かった。
そんな土竜石の出番がついにやってきたのである。
適当に見つけた大岩を背中にする。これで一方向は壁を作らなくてもよいため、節約となる。
しゃがみ込み、地面に杖を向けて魔力を込める。
魔石が輝くと共に、地面が盛り上がっていく。土壁が形作られていく。魔力を調整し、土壁の形を整える。
大岩と合わさって、自分の周囲を囲むようにする。寝転がれる程度の空間を確保しておいた。
できた土壁を手で叩いてみる。強度は悪くないようだ。少なくとも自然に崩壊はしないだろう。
それでも、魔物が本気で突進してくれば、簡単に崩れるかもしれない。壁に向かってそんなことをする相手も稀だろうが。
内側からは見えないが、土壁の外側には堀ができているはずだ。土壁を構成したがゆえの副産物に過ぎないが、多少なりと防衛上の効果もあるだろう。
天井は空いているが仕方がない。土で作れなくもないが、さすがに崩れない自信がなかった。上から何も襲ってこないことを祈るのみだ。
鞄を枕に、マントにくるまって寝転がる。手足を伸ばすには十分な領域があるし、寝心地は悪くない。やはり、木の上は人間が眠るには辛かった。
囲まれているがゆえの安心感があった。しかし、周りが見えないゆえの不安感も同時にあった。
下界でも、夜は横から射す星明かりが見える。けれど、今はそれも壁に遮られているため、完全な暗闇である。
壁の外を動物が歩いている気配が何度かした。鳥のような何かが上空を羽ばたいていく音も聞こえた。見えないことで却って想像力がかき立てられる。
そうやって、アルヴァは何度も不安に襲われた。
しかし、しばらくしても何も起こらなかったため、最後には開き直って眠りに就いた。