下界の夜
食事を終えたアルヴァは、遺跡を出て歩き出した。
草原の広がる地平線の向こう――そこに町があると信じて進むしかない。
草原を進んでいくと、先程見た恐竜の姿も見えてくる。
もちろん、近寄らないように気をつけながら歩く。近づいて観察でもすれば楽しいかもしれないが、そんなことに命は懸けられない。
またも巨大ムカデが見えた。
しかし、今回は早めに気づけたので、走って逃げることにした。先程は距離を詰められたため、迎え撃つしかなかった。
よくよく観察すれば思ったほどの速さはないようだ。しばらく追ってはきたが、アルヴァの足でもどうにか振りきれた。
獣や鳥の魔物が相手では、こうもいくまいが、相手によって対応を使い分けたほうがよさそうだ。そうしなければ、魔法を使うための精神力が持たない。
……それにしても、人間とはなんと弱い生物なのだろう。
足の速さだろうと、腕力だろうと、大きな野獣と競えば勝てない相手ばかりだ。
人間にあるのは、知恵と道具と魔法だけ。それを使ってこの世界を生き抜いていかねばならない。
太陽が降りてゆくにつれ、黄土色の草原が赤く染まっていく。それは上界で見た夕焼けよりも、ずっと強く、燃えるような赤色だった。
不覚にも、その光景を美しいと感じた。それは下界で初めて覚えた感情だった。
けれど、見とれてばかりはいられない。
暗くなる前に寝床を確保せねばならないのだ。候補は三つ思い浮かんだ。場所というより方法といったほうが正しいかもしれない。
一つ目は獣を避けるために地面で焚火をする方法。
二つ目は土魔法で寝床を作る方法。
三つ目は木の上で眠る方法である。
悩んだすえに木の上で眠ることにした。
火を焚いてもそれが一晩中持続する保証はないし、魔物を避けられるかは怪しい。土魔法は普段あまり使わないため、今の時刻から試していては日が暮れてしまう。
消去法で、腹をくくって木に登ることにしたのだ。
木登りなんてするのは何年振りだろうか。恐らく十年か少し前だったと思うのだが……。昔のアルヴァは好奇心旺盛な子供だった。今でも多少の名残はあるが。
道を外れ、手頃な大きさの木を探す。あまり高い木に登っても、落ちた時が怖い。外敵を避けるには、高い木のほうが安全かもしれないが、そこそこの高さで妥協することにした。
ちょうどよい木が見つかったので、さっそく枝に手をかける。
体を支えられそうな枝を選択し、登っていく。子供の頃よりも今は体力がある。しかし、遺憾ながら子供の頃よりも重量がある。気をつけねばならない。
下のほうの枝は細いので、うかつに体重をかけると折れそうだ。左手は幹を持つようにして、体重を分散させるようにした。
それから幹にも足をかけながら枝を一つ一つ登る。その調子で慎重に太い枝がある高さまで登っていった。
枝の上に寝転び、体を折り曲げた体勢で固定する。寝相は悪くないはずだが、絶対に落ちないという自信はない。不安はあるがやむを得なかった。
その状態でマントにくるまれば。木のゴツゴツとした感触がやわらいだ。なかなか温かいので、何とか夜の寒さにも耐えられそうだ。
今更ながら、マントを持ってきてよかったと安心する。帝都の貴族の中には、マントを装飾品か何かと思っている者が多い。しかし、本来はありがたい防寒具なのだ。
寝床が確保できたため、満を持して食事を取る。
今晩の献立は魚の干物だ。
帝都北西のイシュテア海で取れた海の幸に違いない。保存食なので大しておいしくはないが、仕方ない。
この先、幾度も『仕方ない』と付き合っていかねばならない。
食事が終われば、後は寝るだけだ。しかし、まだ少し明るいため、景色を眺めて時間を費やす。
西へと太陽が沈んでいく。世界が闇へと包まれていく。これほど日が沈むのを恐れたことは、人生で一度たりともなかった。
それでも、夜はやって来る。アルヴァは下界で初めての夜を迎えたのだった。
空を見上げても黒い闇があるのみ。上にあるはずの雲海も、光源がなければ漆黒の闇と区別がつかない。星々に雲海を通して伝わるほどの明るさはないのだろう。
空の低いところから、申し訳程度に星々の輝きが垣間見えている。加えて、西の方角に見えるわずかな月が、アルヴァに慰めを与えた。
実のところ、明かりはある。光を放つ蛍光石のブローチだ。
しかしながら、魔物へ居場所を知らせる懸念もあった。
明かりという点では焚火と同じだが、炎は多くの魔物を恐怖させる。しかし、光だけを放つ蛍光石では魔物を集めるだけだろう。
眠りに就くのは怖い。
まだ日が沈んでからさほどの時間は経っていない。帝都にいた時ならば、これから数時間は起きていたはずだ。
しかし、今日は色んなことがありすぎて、既に身も心も疲れきっていた。
眠ってしまえば明日無事に目を覚ませる保証はない。今この瞬間が、意識がある人生で最期の瞬間となるかもしれない。
それでも、生理的欲求は我慢できなかった。
どのみち、いつかは眠らなければならないのだ。それに眠ったまま死ねるなら、それはそれで楽な死に方かもしれない。
そう自分に言い訳したアルヴァは、睡眠欲に従って眠りに就いた。
*
二日目――アルヴァは木の上で目覚めた。
寝返りをうって、落ちる醜態はさらさずに済んだ。何者にも襲われず、朝を迎えられたことに感謝する。
東を見れば、朝日はまだ登り始めたばかり。思ったよりも早く起床できた。……いや、昨晩は早くに寝たのでこんなものだろうか。
そのままぼうっと朝日を眺める。夕焼けに負けじと美しい光景だった。
決心して木を降りる。
……しかし、足が痛い。体の節々が痛い。昨日、相当な距離を歩いた上に、無理な体勢で眠ったためだ。
しばらくは休もうか――そういう考えも頭に浮かんだ。
それでも、歩き出すことにした。ここで止まっては、意志が折れてしまいそうな気がしたからだ。ゆっくりでもよい。今はとにかく前に進むのだ。
そうやって歩いていたら、体の痛みも徐々にやわらいできた。
南に向かって、黄土色の草原をひたすら歩き続けた。
遠くから巨大な獣が見えた。茶色の体毛を生やし、長い鼻と大きな牙を持っている。
アルヴァは以前に見た『象』という生物を思い出した。
象とはこの獣と同じような巨大な生物である。帝国から南の島に位置するサラネド共和国が、かつて戦争に用いたことで有名だった。
といっても、アルヴァも動く実物を見たわけではなく、剥製を目にしたに過ぎない。南のサラネド島から、物好きな貴族が帝都まで遥々運んで来たものだ。
その象と類似してはいるものの、体はさらに大きく、牙も長い。種族は違っても、近縁なのは確かだろう。あれが下界の象であると、考えてもよさそうだ。
動きは重々しく力強いが、それほど凶暴には見えない。
そう言えば、象は草食動物であると聞いた覚えもある。ならば、人間は襲わないかもしれない。
……が、あの大きさの生き物に襲われたら、ひとたまりもないのも事実だ。気を引かないように、ゆっくりと遠回りするとしよう。
遠巻きに歩きながら、象の様子を窺う。象は小さな岩山のそばを、のっそりと通り過ぎようとしていた。あの様子なら、こちらを襲う心配はないだろう。
その時、アルヴァの目を疑う事態が起こった。
突如、振動音と共に岩山が動き出したのだ。
いや――岩山ではない。岩山に擬態した巨大な亀のような生物だ。岩山のような甲羅の下から、緑色の胴体が見えている。
とてつもなく大きい……。
象の何倍もの大きさを誇っている。以前。見た恐竜すら比較にならない。この世界に、これほど大きな生物が存在した事実に驚愕する。
巨亀はゆったりした動作で手を伸ばした。その先には象がいた。
ゆったりしているように見えてもあの巨体だ。少しの動作で驚くほどの距離を詰めてしまう。
象が逃げ切るのは困難で、あっさりと巨亀につかまれてしまった。
もちろん、象も抵抗する。
大きな体をよじり、長い鼻と大きな牙を振り回して抵抗する。
けれど、巨亀は微動だにしない。そして、その大口が象へと襲いかかった。
哀れ、象の頭部は長い鼻ごと噛みちぎられてしまった。これにはさすがのアルヴァも目を覆いたくなる。
巨亀は何度も象へとかぶりつき、あっという間に全身を胃袋に収めてしまった。
それから、巨亀は手足と首を引っ込めて、岩のように大人しくなった。
ああして、じっとしていれば岩山と区別がつかない。そうやって、また獲物が通りかかるのを待っているに違いない。
一体、あの生物は一日にどれほどのエサを食すのだろうか。
あの大きさでは象一匹食べた程度で、腹が満たされるとも思えない。すぐに生態系を破壊してしまいそうだ。
そうなっていないことを考えると、案外小食だとも考えられる。そもそも、獲物を捕らえるだけの行動力があるなら、擬態する必要もない。元々の運動量が少ないのかもしれなかった。
そんなふうに推測したが、危険なのは間違いない。巨亀を迂回しながら南へ進むことにした。
草原に続く草原。何も変化がない道を歩き続けるのは辛い。本当に進んでいるのか不安になる。
退屈とはいえない。退屈だったならまだしもよかったのだが、ずっと緊張に包まれていた。今のアルヴァにとっては、退屈すら贅沢なのだ。
そうして、変わり映えのない草原を歩いているうちに、日が暮れようとしていた。
幸い、この辺りには枝葉が多く、丈夫そうな木が並んでいる。昨日よりは寝心地のよい場所で眠りに就けそうだ。
そうして、手頃な木の上で食事を終えた。相変わらずおいしくはない。
幸いというか何というか、アルヴァは食事にこだわりを持たない。だから、我慢できなくはない。
腹がふくらめば文句なし――というより、アルヴァは食事を時間の浪費と考える系統の人間だった。
「……!?」
枝葉がゆれる音がした。隣の木を見れば、何か大きな生き物が枝の上を渡っている。
身を引き締めながら様子を窺えば、毛むくじゃらの茶色い生き物が見えた。
手と足を使って自在に木の上を動く生き物――猿である。
猿といってもアルヴァより少し体が小さい程度。上界の常識では大型の猿といってもよいだろう。
猿はこちらから少し離れた枝の上に立ちながら、じっと見てくる。
襲ってくるかもしれない。
アルヴァより小さいとはいえ、腕力勝負になれば勝ち目は薄い。今のうちに魔法で始末したほうがよいだろうか。
……だが、見た目はそれほど凶暴には感じない。単に好奇心から近づいて来ただけにも見える。
「ごきげんよう」
試しに、微笑みながら呼びかけてみる。
すると、猿も何か鳴き声を返した。意味は分からないが、少なくとも威嚇されているような印象はない。
猿はこちらに背を向けて、別の木へと飛んでいった。どうやら、放っておいてくれるようだ。
自然の世界は厳しい。
恐竜やハイエナのような動物に襲われないため、木の上で暮らすのも生物の知恵である。しかし、そういった生物も木の上での縄張り争いとは無縁ではいられない。
このような草原で、人間が安息に暮らせる場所はあるのだろうか。
ふと気づけば、また気配がした。
どうやら猿が戻ってきたようだ。そのままさっきよりもグッと近づいて来て、こちらへ手を差し出した。見れば黄色い実が握られている。
「もしかして、私にですか……?」
何の実かはよく分からないが、下界に来てから初めての親切である。
もっとも、こういう際に毒を疑ってしまうのは職業柄仕方ないところではある。……まあ、猿知恵に毒殺を謀るという発想はあるまい。
だからきっと親切なのだ。無下にしては女がすたるというもの。快く受け取ることにした。
「ありがとうございます」
手にとってみれば、ちょうど手のひらに収まる大きさだ。
――と、猿が鳴き声を上げた、それから、こちらをじっと見ている。猿語は分からないが、意味は伝わった。『食ってみろ』ということだろう。
火に通したほうがよいのではなかろうか……。
そんな考えが頭をよぎったが、猿に失礼かもしれない。それでアルヴァは意を決して食べることにした。
まずは一口かじりつく。
……渋い。一気に食べるには厳しい味だった。
「おいしいですね」
何はともあれ、猿にはそう返事をしておいた。
それで満足したのか、猿は去っていった。
「お休みなさい」
後ろ姿にそう声をかけた。お休みの挨拶には少し早いだろうけれど。
その後も、実を少しずつ食べてみた。渋いが、慣れてくれば案外いける味である。空腹の今なら、問題なく完食できそうだ。
今後は木の実も見つけたならば、確保すべきかもしれない。食料は無限ではないのだから。