広がる世界
「うむ、まぎれもなく海だな」
一番乗りのサンドロスが重々しく頷いた。彼は馬と共に波の中へ足を突っ込んでいる。マントをなびかせながら、手を広げて全身で潮風を受けていた。
「これ、本当に海なんだね?」
ソロンはいまだ目の前の光景が信じられなかった。
「坊っちゃん、試しに飲んでみませんか? そしたら信じられるでしょう」
ナイゼルが悪戯な笑みを浮かべてくる。
「遠慮するよ。たぶん塩水だろうし」
ソロンはやんわり断るが、ミスティンは、
「じゃあ、飲んでみようかな?」
などと、真剣に悩みだす。
ソロンはもちろん制止した。見た目は海水だろうと、元は呪海である。何が含まれているか分かったものではない。
「……一体、どういうことでしょうか?」
アルヴァは困惑気味に海を窺っていた。それから、サンドロスへ視線を向けて問いかける。生来の性格もあって、感動より疑問が勝るらしい。
「分かることは一つ。呪海が消えて、水の海に変化したということだ」
「兄さん、それは見りゃ分かるよ」
ソロンは溜息をついて、周囲へと視線をやる。
グラットとミスティンはさっそく裸足になって、海の中へ足をひたしていた。メリューはさほど乗り気でないようだが、二人に続く。
「それ、メリュー!」
ミスティンは素足で白波を蹴り、飛沫をメリューへと飛ばす。
「……相変わらず、いい歳して子供よな」
メリューが迷惑そうに眉をひそめる。
「ガキはお前だ! ふははっ!」
グラットがメリューの側面から波を蹴っ飛ばす。至近距離から飛んだ水が、もろにかかった。広大な海を目にして、グラットも調子に乗っていた。
「貴様ら! いいだろう。私の本気を見せてやる!」
メリューはいつもの念動魔法で反撃し、大人げなく水を投げ返す。ミスティンもグラットも楽しそうだった。
そんな中、目に入ったのはシグトラだ。メリュー達を微笑ましげに一瞥した後、落ち着いた視線で海を眺めている。
「生きているうちに、この目で大海を見られるとはな……」
こちらに気づいたシグトラが振り向き、感慨深げにつぶやいた。
「大海っていうと、前に師匠がおっしゃっていたアレですよね?」
かつて、呪海があった場所に存在したという広大な海。それはこの世界の大半を覆っていたのだという。
「それ以外にあるまい。この星は本来の姿を取り戻したのだろう」
「まさか、先生はお分かりなのですか? なぜ、呪海がこのような変貌を遂げたのか……」
アルヴァが驚きと尊敬の眼差しをシグトラへと向けた。
「俺にだって分からんことはあるさ。……とはいえ、仮説は考えられるな」
「仮説……? お伺いしてもよろしいでしょうか?」
アルヴァに請われて、シグトラは頷く。
「ザウラストの奴が言っていただろう。カオスの神がこの星へと種を送り込み、大海を呪海に変えてしまったと」
「言ってましたね。けど、あいつの言うことなんて当てになるんですか?」
「奴は狂人だが、その全てを否定はできまい。実際に人智を超えた何かを、奴が成そうとしていたのも確かだ」
「この星を呪海へ飲み込み、邪神に適した環境へ改変する。確か、そんな主張でしたか。やはり、世迷い言にしか思えませんが……」
アルヴァがザウラストの言葉を思い出しながら口にする。
「だが、実際にザウラストは四百年にも渡って活動してきた。そのために呪海から力を借り、数々の魔物達を生み出したのだ」
「聖獣とか神獣とかいう連中ですよね。本当に、冗談みたいな呼び方だけど」
ソロンが口を挟めば、アルヴァも続ける。
「それに、何よりも呪海の王です。規模は桁違いですが、同じような邪術の延長にあるものでしょう」
「その通りだ」わが意を得たりとシグトラは頷いた。「ザウラストは相当な力を呪海から引き出し、呪海の王を生み出したのだろう」
「僕達がやっつけましたけどね。やっぱり、それが関係してるんですか?」
「まさしく、呪海の化身ともいえる呪海の王をお前達が撃破した。それはつまり、呪海そのものに打撃を与えたといえる」
シグトラの話が核心へと迫っていく。
「――結果、天秤が傾いた。カオスの力が弱体し、この星の自浄作用が活性化した。そうして、海は元の姿を取り戻したのだろう」
「相変わらず、師匠の知識は人間離れしているな」
そう口にしたのは、いつの間にか寄ってきたサンドロスだった。さらにはその隣にいたナイゼルも会話に加わってくる。
「星の自浄作用ですか? これまた、唐突な概念が出てきましたね」
「唐突ではなかろう。例えば、奴らを倒すのに不可欠だった星霊銀――あれも、星によるカオスへの抵抗が形を成したものといわれている。見方によっては、一種の自浄作用といえなくもないだろう」
「はあ、私には信じられませんが……」
シグトラの説明に、アルヴァはピンと来ないようだった。もちろん、ソロンも似たようなものである。
「安心しろ、俺も自信はない。けれど、奇跡は起こったのだ。それだけは間違いないだろうさ」
そう語るシグトラの表情は、いつになく晴れやかだった。
波の音がさざめき、潮風が清かに吹きつけてくる。
「大海とは随分と騒がしいのですね。さして強風が吹いているわけでもないのに……」
騒がしい潮風が、アルヴァの黒髪をなびかせていた。
彼女とソロンの知る海――下界のマゼンテ海や上界のイシュテア海は、もっと穏やかな海である。強風がなければ、波はわずかしか見られない程度だ。
「ああ、この海は万里の果てまでつながっているはずだからな。遥か遠くで吹いた風が、波を増幅して運んでくるのだろう」
「は~、万里ですか……」
実感が湧かず、半ば呆然とソロンは海を見やった。万里の大海とは以前にも聞かされた話だが、まさに目の前の海がそうだとは驚きだ。
「そうだ、大海は途方もなく広い。世界中の大地を集めても、海の広さには到底及ばんそうだ」
「……ってことは師匠。この海の向こうにも陸地があるんでしょうか?」
ふと思い至って、ソロンは質問を投げかける。遥か遠くの海へと視線を送るも、水平線の向こうに至るまで島影は見られない。
「おお、そいつは俺も気になるな」
冒険者魂を刺激されたらしく、グラットも話に加わってきた。ミスティンやメリュー、それからガノンドも近寄ってくる。いつの間にやら、全ての仲間がこの場に集っていた。
視線を一身に集めたシグトラが首を横に振る。
「それは分からん。伝承によれば、かつて世界には五つの大陸があったという。知っての通り、長らく大陸同士の交流は絶たれていた。ゆえに、呪海に飲まれて滅んだ可能性も否定できまい」
「う~ん、そうですか……」
ソロンは落胆するが、アルヴァが口を開く。
「私は、他の大陸も残っている可能性が高いと考えます。この大陸だけが残り、他は滅びたと見なすのは論理的ではありません」
「おう、やっぱそう思うか? お姫様は浪漫が分かってるじゃねえか」
「浪漫ではなく論理的推論です」
嬉しそうにするグラットに対して、アルヴァは冷然と言い切る。しかし、それだけに彼女の口調は確信に満ちていた。
「他の大陸か……。行ってみたいなあ……」
そんな中、ミスティンは空色の瞳を輝かせ、遠くを見つめていた。いや、彼女だけではない。皆、その視線は遥か遠く、水平線の向こうを見据えている。
「それじゃあ、船でも造っちゃう?」
ソロンが思いつきを口にする。
マゼンテ海で使用している海船を運ぶ方法もあるが、距離を考えると現実的ではない。やはり、最初から大海に適した船を造る必要があるだろう。
「ふうむ……」
ナイゼルは考え込んで。
「――それだけの大海となると、帆船では心もとないですね。竜玉船に匹敵するような動力が、水上船にも欲しいところです」
ナイゼルの意見に、アルヴァも頷く。
「悪くありませんね。帝国においても水上船の開発は、竜玉船と比較して後手に回りがちでした。ですが、新大陸の捜索という明確な目標があれば、それも活発化するかもしれません。……もっとも、そのためには下界に造船の拠点を造らねばなりませんが……」
「その点は問題ないだろう。土地なら腐るほど余っているからな。なんせ、呪海の近くは誰も住めなかったんだ。帝国がやるというなら、格安で提供できると思うぞ」
サンドロスが抜け目なく答えてみせる。
「お前達は若い。好きにするがいいさ」
「……まあ、父様のほうが我々より長生きしそうな気がしますが」
「むっ、それもそうだな」
メリューが複雑な表情で指摘すれば、シグトラもバツが悪そうにする。
「ほほほ、挑戦とは若人の特権じゃ。皆、悔いの残らないようにするのじゃぞ」
代わりに、正真正銘の老人であるガノンドがまとめてくれた。
「ほう……」
遠くの空を眺めながら、メリューが声を漏らした。彼女の紫の瞳が、いち早く何かをとらえたようだった。
やがて、鳥の群れが水平線の向こうから姿を現した。かつて、呪海が広がっていたはずの彼方からだ。
「渡り鳥だ!」
ミスティンが空を仰ぎながら手を振った。
「やっぱりあるんだよ……! どこかに、別の大陸が!」
ソロンは興奮を抑えきれずに叫んだ。
呪海の向こうから飛来する鳥は、これまで確認されていなかった。
だからこそ、あの向こうには何もなく、この大陸は孤立していると考えられていた。いや、それどころか孤立しているという認識すら持てなかった。なんせ、それが世界の全てだったのだから。
けれど、大海の向こうから渡り鳥はやって来た。
これまでの鳥達は、呪海の上を飛ぶのを避けていたに過ぎなかったのだろう。遥か彼方から旅の果てに、鳥達はこの大陸へとたどり着いたのだ。
「ソロン」
鳥の群れを目で追っていたアルヴァが、名前を呼んできた。紅玉の瞳がまっすぐにソロンを見つめている。
「――上界と下界……私は二つの世界をつなげたいと思っています。そして、この大海の外に大陸があるというならば、それもつなげたい。……私は欲張りでしょうか?」
「そうかもね。けど、悪くないと思うよ」
「もしかしたら、一生を懸けても成しえないかもしれません。それでも、力を貸していただけますか?」
ソロンはそっと彼女の手を握りしめて答える。
「構わないさ。無理なら無理で、誰かが引き継いでくれるかもしれないしね。少なくとも、僕達は最初の一歩を踏み出せるんだから」
雲海のオデッセイ――完
終章『広がる世界』完結!
そして、雲海のオデッセイもこれにて完結です。
全441話にも及ぶソロンとアルヴァと愉快な仲間達の長い物語も、これにてお終いです。
色々語りたいことはあるのですが、作品内で存分にやりきったこともあり割愛します。
作者自身の今後などについては、活動報告やブログにでも書こうと思います。
ご愛読ありがとうございました!