最高の誕生日
相変わらず救助の船は現れず、夜の闇にすっかり慣れ始めた頃……。
アルヴァはふと鞄をまさぐり出した。ソロンが送って以来、愛用してくれている藍色の鞄である。彼女は懐中時計を中から取り出し、時刻を確認した。
「零時を過ぎましたね」
「ああ、もうそんな時間か」
そうは言ったものの、文明から切り離された今この時である。時刻の確認に、どれほどの意味があるかは怪しいものだ。
「誕生日、おめでとうございます」
アルヴァはこちらにそっと顔を近づけた。
やわらかな感触が唇に触れて、すぐに離れた。
ソロンは固まった。
顔が急速に熱くなるのが、自分でも分かる。今が夜でなければ、顔の紅潮がはっきりと見て取れただろう。
「ど、どういたしまして」
少し遅れて、ソロンはようやくそれだけ返事をした。
「照れ過ぎですよ」
彼女には、こちらの動揺は手に取るように分かったらしい。もっとも、平然を装うアルヴァにしても、視線はどこか落ち着かない。
「そういう君だって」
「ふふっ。なにぶん、初めてのことですから」
口元を押さえて、アルヴァは上品に笑う。
「あははっ、それは光栄かな」
「早く皆が見つけてくださればよいのですけれど。私だけしか祝えないのでは、寂しい限りですから」
「そうでもない。今日が人生で最高の誕生日さ」
「大袈裟な。喜ぶのは助かってからでも遅くありません」
アルヴァは呆れるように苦笑する。
瞬間、ソロンの視界に何かが映った。
「えっ……」
ソロンは絶句し、それから指差す。
「――アルヴァ!」
アルヴァも即座に振り返り、ソロンと同じ方向を向いた。
雲平線の向こうに、かすかな光が映ったのだ。前回と違って、光はこちらへと動いているように思えた。
「きっと船だよ! さっきの信号が伝わったんだ!」
願望を込めてソロンは言い切った。
「もう一度、合図しましょう!」
アルヴァも興奮気味に声を上げる。
あの距離からでは、こちらは砂の一粒よりも小さく見えるだろう。正確な位置を伝えるには、やはり何度でも信号を送るしかなかった。
アルヴァは腰に挿していた杖を抜き放ち、高々と天上へ掲げた。
杖先の魔石から勢いよく稲妻が放たれる。
「うわっ!」
間近からの轟音に、ソロンは思わず耳をふさいだ。彼女もすっかり意気を取り戻したらしく、力強い一撃だった。
その時、雲平線の向こうにあった影が、強い光を放った。
最初は目を疑った。しかし、すぐに影は連続して光を放ち出す。もはや、見間違いなどではなかった。
「これって!?」
「きっと蛍光石ですよ。こちらに気づいたのです」
興奮を抑えるようにしてアルヴァが言った。
次第に影は明白となり、こちらへ向かう竜玉船の姿が明らかになる。その舳先からは、淡い光が放たれ続けていた。
「お~い!」
ソロンは両手を頭上に突き出し、左右に手を振った。
滑るように雲海を進む竜玉船は、水上船と比較すれば非常に静かだ。声を張り上げれば届くかもしれない。
アルヴァは杖先の雷光石を何度も光らせた。もはや派手な稲妻は必要ない。竜玉船の光に呼応するように雷光石を瞬かせていた。
静かな雲海に警笛が高々と鳴り響いた。
竜玉船が滑るようにこちらへと接近してくる。押しつぶされるのではないかと、不安になるほどの勢いだ。
幸い、竜玉船は近づくにつれ、徐々に減速を始めた。
船上に翻る旗が次第に鮮明となる。黒地に描かれた黄金の竜旗――帝国軍の旗だ。
「お~い、ソロ~ン! アルヴァ~!」
聞き慣れた声が二人を呼んでいる。
竜玉船の舳先に立ったミスティンが、大きく手を振っていた。その手には光を放つ蛍光石が握られていた。
*
深夜、竜玉船の甲板に七人がそろっていた。
少し離れたところでは、帝国軍の兵士達が遠巻きにこちらを見守っている。彼らも夜を徹して捜索をしてくれていたのだろう。
涙を浮かべながらミスティンは、アルヴァに抱きついていた。それが終わるや、今度はソロンに抱きついてくる。空きっ腹で弱った体には少し痛い。
結局、三人で抱き合うような格好になった。
「その辺にしとけよ。ソロンもお姫様も疲れてるだろうぜ」
抱きつくのをやめないミスティンを、グラットが制止してくれた。
その場にいるのはグラットだけではない。ナイゼル、メリュー、シグトラも全員が無事だったのだ。
「うん」
と、ミスティンがようやく離れる。
「じゃあ、私も。坊っちゃ~ん!」
すると代わりにナイゼルが抱きついてくる。
「お前もやんのかよ……」
グラットは呆れていたが、今日ばかりはソロンも振り払わなかった。いつもは飄々としたナイゼルだが、本気で心配していたのは疑いようもない。
「みんな無事でよかったよ」
ナイゼルから体を離したソロンは、仲間達を見回して無事を喜んだ。
「師匠とメリューさんのお陰ですよ。雲海の中を泳いで、私達を安全な場所まで導いてくださいましたから」
眼鏡をなくしたままのナイゼルが、ソロンを見返す。
「うむ、我らは誇り高き銀竜族だからな。体内に竜玉を秘めた我らは、人間とは桁違いの雲海適性を持つのだ」
メリューが華奢な胸を張って誇らしげにしていた。
「俺達は割合すぐ帝国船に見つけてもらったが……。それだけに、お前達の発見がこうも難航するとは思わなかった。少しばかり運が悪かったな」
シグトラが彼にしては珍しいほどに顔をほころばせる。
ちなみに、ソロンとアルヴァを甲板に引き上げたのも、彼の念動魔法である。普通は小舟を経由して回収するところだが、皆待ちきれなかったらしい。
「うん。なかなか見つからないから、もうダメかと思ったよ……」
「ご心配をおかけしました。激しい雲流でしたから、流された場所が悪かったのかもしれませんね」
ミスティンの金髪を優しくなでながら、アルヴァが応える。
「まあその、別に不運だったとは思わないよ。最終的には助かったし、悪いことばかりじゃなかったから」
と、ソロンはアルヴァのほうを窺いながら答えた。紅い瞳とまっすぐに視線が交わる。
「あん? なんだ今の目配せは」
グラットが目ざとく気づいた。
「いや、なんでもないよ。なんでもない」
ソロンが重ねて否定するも、
「……これは疑わしいですね。雲海に二人揺られて何時間も。何もなかったというほうが不自然な話です」
ナイゼルも一緒になって疑惑の視線を向けてくる。
「ほう、ようやく進展があったか」
メリューは感心したような表情を向け、
「わぁ、そうなんだ!」
ミスティンはパッと表情を明るくして、アルヴァを見る。
「ふふ、なんでもありません」
アルヴァは余裕の微笑を浮かべていた。ただし、ソロンの腕をつかみながら。
「どう見たって、なんでもないって態度じゃねえだろ……」
グラットは一層に疑いを強める。
「まあ待て、先に食事だ」
助け舟を出してくれたのはシグトラだ。さすがは圧倒的年長者だった。
その後、二人は甲板で食事を取ることにした。
残念ながら、長期の航海を想定した船ではないため、大した食糧は積んでいないらしい。粗末な非常食ではあるが、ひとまずの腹ごしらえをするのだった。
アルヴァが真っ先に気にしたのは、帝国軍の状況だった。食事を取る合間にも、彼女は仲間達への聴取を怠らなかった。
先に発見された五人は、本来なら帝都に護送されるところを断ったらしい。そうして帝国軍の竜玉船に乗ったまま、二人の捜索に協力。ソロンとアルヴァの上げた救難信号を察して駆けつけたのだ。
とはいえ、信号は遠く小さかった。銀竜族の視力がなければ見落としていたと、メリューは語った。彼女達の協力がなければ、発見は難航していただろう。
この船にはいないが、ガゼット、イセリア、ラザリックらの将軍達も皆、無事だという。
彼らは第一要塞島にて、押し寄せる魔物達と死闘を繰り広げていた。途切れる気配のない魔物達だったが、それは神鏡の力でどうにか撃退した。
しかし、そこで島が振動し、崩壊の兆候を見せたのだ。
ガゼットはやむなく撤退を決断。第一要塞島の上部にいたため、脱出は速やかだったそうだ。
もっとも、ラザリックなどはアルヴァの救出を強硬に主張したらしい。砦地下へ向かおうとしたが、それをどうにかイセリアが押し留めたのだという。
犠牲がなかったわけではない。
逃げ遅れて島の崩壊に巻き込まれた兵士も、少なからず存在した。それ以前の戦いで犠牲になった者も含めれば、何百人という兵士があの島で命を落としたのだった。
ともあれ、長きに渡る戦いによって、ザウラスト教団はここに滅んだ。少なくとも、帝国が邪教に脅かされる未来はなくなったのだ。