雲海の誓い
正真正銘、最後の戦いが終わった。
精神力を使い果たしたソロンだったが、気力を振り絞って彼女の姿を探す。
ふと見れば、アルヴァは少し離れたところに浮かんでいた。目が合うなり、微笑を浮かべてこちらへ近づいてくる。
「つかまえました」
慣性のままの勢いで、ぶつかるようにしがみついてきた。いつになく甘えるような調子である。
「お、おう……」
さすがに恥ずかしくなって、やんわりと体を離す。流されないように片手だけはつないでおくが。
「――大丈夫?」
何はともあれ、ソロンは安否を気遣う。
アルヴァの白い首元には痛々しい指の跡が残っていた。意識はしっかりしているようなので、心配はいらないだろうけれど。
「はい、ソロンも怒ることがあるのですね」
「たまにはね。……もしかして、さっきの聞いてた?」
少し恥ずかしいことも叫んだかもしれない――と、顔が赤くなる。
「この距離で聞くなというほうが無理というものです」
「そりゃそうか。……さっきのであいつは死んだかな?」
「死んだと思います。私の印象では、先程の彼は単なる生身の銀竜族でしたから。呪海の王のように再生する力は残っていないでしょう」
「同感だな。呪海の王の力は、島を脱出する前に君が滅ぼしたはずだもんね」
「ええ、星霊銀で浄化されなかった部分が、わずかに残っていたのでしょう。要するにさっきの彼は残り滓です」
「……敵ながらきついな」
もっとも、ザウラストに同情する気は微塵も起きなかったが。
*
二人は雲海に浮かびながら、じっと時を待ち続けた。
夏の夕日が、二人の体を容赦なく照らす。それでも、冬場の寒さに凍えるよりは、ずっとマシだったろう。
「なかなか近くを通らないね」
遠くへ過ぎ去った船を見て、ソロンは嘆息した。
これまでに何隻かの船を見かけたが、手を振っても気づいてもらえなかった。魔法で救難信号を打ち上げるほどの、精神力はまだなかったのだ。
「そのようですね。私達を探しているのは確かだと思うのですが……」
「うん。第一要塞島の近くっていうのは、みんなも知ってるはずなんだけど……。案外、見つからないもんだね」
「仕方ありません。目印となるその島が消滅してしまったのですから。雲海で遭難者を探すのは、砂漠で豆粒を探すようなものです」
「そ、そう言われると、僕達ってわりと絶体絶命な気がするんだけど……。死闘の後だったから、すっかり気が抜けてたよ」
「だからこそ、救難信号で居場所を知らせるのですよ。そのためにも、今は精神の回復を待ちましょう」
「そうだね。……みんな、大丈夫かな? 救出されてるといいけど」
ミスティン、グラット、ナイゼル、メリュー、シグトラ――ソロンはまた仲間達の姿を思い浮かべた。
仲間達の誰かが救出されれば、それでソロン達の窮状も伝わるはず。そうなれば、救助活動も一段と勢いづくだろう。
それから、その五人だけではない。ガゼット、イセリア、ラザリックら将軍達……。さらには大勢の兵士達も島にはいたのだ。
「シグトラ先生とメリューならば、雲海でも泳げるわけですから。私達よりも条件は恵まれています。将軍達は島の上部にいましたから、船による脱出も早く済んだはずです」
アルヴァはいかにも彼女らしく、理屈っぽく説いてくれる。そんな話し振りに、ソロンはどことなく安心感を覚えるのだった。
*
夕焼けの下、雲海はいつものように静かだった。時折、頭上を飛ぶ鳥の羽ばたきと、鳴き声が聞こえるぐらいだろうか。
絶体絶命かもしれないのに、不思議と穏やかな時間だった。
やがて、夕日もいつしか沈んでしまう。入れ替わるように、星々が空へ瞬き出す。南の第二要塞島や北の帝都からは、灯台の光も窺えた。
「……暗くなってしまいましたね」
夜になれば、白い雲海も闇に染められてしまう。闇の雲海は、夜の海のように底知れないものがあった。もしこれが一人だったら、発狂するほどの恐怖を感じていたかもしれない。
「その分、星は綺麗だよ」
ソロンは二人が出会った頃に眺めた星空を思い出していた。アルヴァによって強引に連れ出された孤島への冒険……。あの頃のソロンは、雲に覆われない上界の夜空に感動していたのだった。
もっとも、今になっても感動は決して薄れていない。夜空には変わらない美しさがあった。
二人の会話が途切れた。
何気なくアルヴァのほうを見れば、彼女はじっとソロンの顔を眺めている。紅い瞳が星々の輝きを映し、宝石のようにきらめいていた。
そろそろ、潮時かな――と、ソロンはふと思い至った。結論はとっくに決まっているのだ。いつまでも先延ばしにする理由はない。
「アルヴァ」
まっすぐに瞳を見据えて、ソロンは彼女の名を呼んだ。誰もいない夜の雲海には、声がよく響き渡る。
「はい」
アルヴァは目をそらさず、静かに返事をする。
「今日は大変な一日だったね」
「そうですね。今日より大変な日はもう生涯ないでしょう」
「はは、そうじゃないと困るな。さすがにもうたくさんだ」
「無事、生き残れたのはあなたが守ってくれたお陰です。今日だけの話ではなく、去年から数えきれないほどに」
「お互い様だよ。二人でがんばったから生き残れたんだ。もちろん、みんなの助けも忘れちゃいけないけど」
「ええ」
彼女はこちらをうながすように、短く相槌を打つ。
「えっと、それで何を言いたいかというと……」
ソロンは言葉を探しながら、視線をそらす。しばし悩んだ挙句、ようやくアルヴァへと視線を据え直す。その間、彼女はじっと視線を外さずに待っていた。
「――これからも一生、君を守っていきたいんだけど、いいかな?」
「いいですよ」
あっさりと答えが返ってくる。
「えっ、あ……。今のは告白的な意味なんだけど……」
却って不安になったソロンは、情けなく念を押す。
「心配せずとも承知しています。そうでなければ、さすがの私も怒りますので」
アルヴァは冷然と返答し、それからふと笑った。
「やった! ありがとう……!」
ソロンは喜びを爆発させ、左手を突き上げた。ちなみに、右手は今も彼女とつながっている。
「浮かれ過ぎです。先に忠告しておきますが、私の伴侶となる方はそれなりに大変ですよ」
そんなソロンを微笑ましげに見守りながら、アルヴァは釘を刺す。
「知ってる。けど、君も言ったように、今日より大変な日はそうないし、大丈夫さ」
「まあ、嫌だと言っても逃さないのですが」
アルヴァはソロンの手を強く握りしめ、引き寄せた。
「……じゃあ、なんで聞いたの?」
「もちろん、言質を取るためです。ソロンならそう言ってくださると信じていましたが、やはり自ら口にしていただかないと」
「……君って、けっこう計算高いよね」
「計算高い女はお嫌いですか?」
「嫌いだったら告白しないよ」
「なるほど、それもそうですね」
アルヴァは真剣に納得してくれたようだった。
*
二人の時間が過ぎていく。
その時、雲平線の向こうをゆっくりと横切る光にソロンが気づいた。
「あれって!?」
「救助の船が、私達を探しているのかもしれません。ソロン、そろそろ精神も回復してきたのでは?」
「やってみる! こうなったら何としても生きて帰らないとね」
ソロンは決意と共に、背中の刀を抜き放った。落としたら回収不可能なため、刀を扱う手つきは慎重になる。
蒼煌の刀を頭上に掲げ、魔力を解放した。蒼炎が打ち上がり、ドンという音と共に青い花火が夜空に輝いた。
「綺麗な花火ですね。これなら遠くからもよく見えるでしょう」
「だね、きっとすぐ助かるよ」
ところが、救いの船が訪れることはなかった。
「来ないなあ……。さっきの信号が見えなかったのかなあ……」
舞い上がっていたソロンも、さすがに胸中の不安を隠しきれなかった。
「深夜になれば、捜索の船も減るかもしれません」
「参ったなあ……」
「参りました。こうも長期戦になると、さすがに辛いものがあります」
アルヴァも徐々に辛そうな表情を覗かせる。
「あっ……。お花を摘みたいなら、離れて後ろ向くけど」
意図を察したソロンは、アルヴァの意向を伺う。
「雲海に花は咲きません。今のは水や食料の話です」
「ほんとに?」
アルヴァは不服そうに眉をひそめるが、ソロンはさらに追及する。この先を考えれば、あながち馬鹿にできない死活問題なのだ。
「……もうしばらくは我慢できます。正直に申しますと、なるべく早く助けて欲しいです」
さすがの彼女もそろそろ音を上げ始めたようだった。
「同感。限界が来たら、無理しないで言ってね」
「屈辱です……」
アルヴァは大変不満そうにしながらも頷いた。