漂う二人
気づいた時には、ソロンは雲海の上に浮かんでいた。
太陽は西の雲平線へと少しずつ沈み始めていた。その陽光を浴びて、雲海が燃えるように染まっている。長い長い探検と戦いだったが、実際にはわずか半日しか経っていないらしい。
腕の中には黒髪の娘の姿があった。気を失ってはいるものの、その体から確かなぬくもりが感じられる。
少女から大人へと変わりつつある彼女の姿。今ばかりは、少女のようなあどけない素顔で目をつぶっていた。
「アルヴァ」
そっと声をかければ、アルヴァはゆったりと目を開いた。紅玉の瞳がソロンを間近からとらえる。
彼女はゆるりと首を横に振り、周囲を窺いながら。
「……生きて脱出できましたね。皆は?」
「激しい雲流だったから、はぐれちゃったんだと思う」
ソロンは願望を込めて答えた。みな第一要塞島から脱出できたに決まっている。ただその後で離れ離れになっただけなのだ。
「そうですか……。けれど、きっとすぐ会えますよ。こういう希望的観測は趣味ではありませんが、今回ばかりは確信していますので」
アルヴァは仲間達を固く信じていた。もちろん、それはソロンも変わりない。
「そうだね、みんな結構しぶといし。僕達が無事だったんだから、きっと大丈夫だよ。……けど、本当によく助かったなあ」
激しい雲流に飲まれた瞬間をソロンは思い出した。今の静謐な雲海の姿とは、似ても似つかない濁流だった。
「雲海は水よりもずっとやわらかいですからね。良い緩衝となったのでしょう。これが水の海なら確実に助かっていません」
「なるほど~」
と、ソロンは彼女の説明に感心する。空気のようなやわらかさを持つ雲海ならではの奇跡というわけだ。
「なるほども何も、それを見越して脱出を提案したのでしょう?」
「そ、そうだね……」
アルヴァの呆れるような視線に、ソロンは苦笑する。実のところ、水の海より望みはあると考えていたが、確信はなかった。島ごと下界に落ちるよりはマシと判断したまでだ。
「…………」
ふと会話が途切れて、ソロンは現実に引き戻される。
「さて、どうしたものかな?」
ソロンは途方に暮れながら、周囲を見渡した。
近辺には全く目印となるものがない。そこにあったはずの第一要塞島は、完全に墜落してしまったようだ。
これが海ならば島の残骸が残ったかもしれないが、あいにく雲海ではそうもいかない。竜玉の加護がなければ、全ては雲の下へ真っ逆さまだ。
「おっ、帝都発見!」
ソロンはおどけた調子で声を上げた。
遠くを見れば、遥か先にうっすらと塔のようなものが見えた。帝都で最も高い建物――つまりはネブラシア城に違いあるまい。
もっとも、雲平線の彼方にあるらしく、陸地はわずかも窺えなかった。
「あちらには第二要塞島もありますよ」
アルヴァも応じて反対側を指差す。
ソロンが首を転ずれば、砦と灯台のある小島が見えた。こちらもかなりの距離があるらしく、わずかに突き出た建物が見えるに過ぎない。
「泳ぐならどっちがいいかな?」
「どちらもおよしなさい。北も南も最低一里はありますよ。こういう時は体力を無駄にせず、救助を待つのが鉄則です」
「う~ん、それもそうか」
アルヴァに諌められ、ソロンは断念する。
生身で雲海を泳ぐには、かなりの体力が必要となる。抵抗に乏しいため、却って推力を得るのが大変なのだ。まさに雲をつかむような――という言葉の通りに。
「可能なら救難信号を上げるべきだと考えますが……。魔法は撃てそうですか?」
ソロンの背中にある蒼煌の刀へと、アルヴァが視線を送る。魔法で信号を上げろという意味だろう。
「今はちょっと辛いかな……」
「私も似たようなものです」
と、アルヴァは腰に差した杖を指差す。どうやら、雲海に流されずに済んだようだ。
「……そう言えば、蛍光石はどうしたの?」
蛍光石ならば最小限の労力で発光できるはずだ。信号としては最適だろう。しかし、彼女は蛍光石のブローチを身に着けていなかった。
「流されてしまいました。母の形見でお気に入りだったのですが……」
「また今度、贈らせてもらうよ。……あっ、でも君が自分で買ったほうがいいのかな?」
ソロンは慰めに提案したが、すぐに財力の差に思い至って悲しくなる。半端な品質の物を贈っても、喜ばれないかもしれない。
「いいえ、期待させていただきます」
「ならよかった。それじゃあ、精神力が回復するまで休憩だね」
「ええ。せっかくですし、しばらくは二人でゆったりしましょう。このところ、随分と忙しかったので」
「ははは、そうだね」
存外呑気な言葉に、ソロンは思わず笑ってしまう。
かすかな違和感を覚えたのは、その時だった。雲海の下に影が映ったのだ。
「魚かな?」
とはいえ、雲海の中には様々な生物が泳いでいる。さして驚くことではないし、大きな魔物でなければ心配もいらないだろう。
ソロンが何気なく首をかしげた次の瞬間――
「ソロン!」
アルヴァがソロンを突き飛ばした。
影は猛烈な勢いで、浮上してきたのだ。
雲の飛沫が巻き上がり、影がアルヴァへと襲いかかった。
「アルヴァ!」
ソロンは手を伸ばすが、雲海の中では思うように身動きが取れない。
雲面から突き出した腕が、アルヴァの首をつかんでいた。
「ぐっ……」
声を出せないらしく、苦しげにアルヴァがうめいた。
そして、雲面に姿を現したのは、まぎれもないザウラストだった。
呪海の王と一体化した象徴である赤い軟体は見当たらず、今は人の姿をしていた。
けれど、一糸もまとわぬ体の損傷は激しく、至るところに欠損があった。紫がかった銀髪は焦げ、肩の肉はえぐれている。赤紫の瞳も片目がつぶれており、呪海の王による再生能力は失っているようだった。
「あっはっは! 死んだと思ったかい! あいにく、私はしぶとくてね! さあソロニウス! 最後の戦いといこうか!」
ザウラストは耳障りな声でソロンへ笑いかけた。不完全な顔の肉が、少年のようだった顔を得体の知れぬものに変貌させていた。
「いい加減にくたばれよっ!」
ソロンは蒼煌の刀を背中の鞘から引き抜いた。
「そうはいかない。刀を捨てるんだソロニウス。正々堂々、拳の勝負といこうじゃないか」
「ぐっ……自称神の代行者が、女を人質に……。賊の……真似事ですか……落ちたものです……ね」
息も絶え絶えにアルヴァが皮肉をこぼした。こんな状況でも彼女は気丈だった。
「うるさいな。女は黙ってろよ」
途端、ザウラストの声が憎しみに凍りつく。
「う……あぁぁ……」
首をしめられてアルヴァが苦痛の声を漏らす。必死に腕を使って抵抗するが、彼女は無力だった。
「アルヴァに触るな!」
ソロンは刀をザウラストへ突きつけ、にらみつける。
「やってみろよ! この女が青く焼かれてもいいならなあ!」
目をむいてザウラストは、ソロンを挑発した。アルヴァの細首を押さえながら、その体を盾にしてくる。
「…………」
ソロンは押し黙り、蒼煌の刀を左手に持ち替える。ゆっくりと刃先を後方へ向けた。
「そうそれでい――」
ザウラストが満足気に笑った刹那――ソロンは刃先から蒼炎を放出した。
後方に放たれた炎が、ソロンを爆発的に加速させる。
そのままの勢いで雲海を突っ切り、ザウラストへ突進。盾にされたアルヴァにぶつかりながら、ザウラストの顔面へ右手の拳を入れた。
「手を離せ!」
「ぐおっ、何を!」
急襲を受けたザウラストは、たまらずアルヴァから体を離した。
「うっ……」
アルヴァもうめきながら、反動でザウラストから離れていく。多少は痛かったかもしれないが、許してもらえる範囲だろう。
「お前は終わりだよ、ザウラスト」
左に握った刀を、ソロンは右へ持ち替えた。
「私が……私が何年かけたと思っているんだ! 四百年だぞ! 私は神に選ばれ、最も近しい存在になった! それをお前らのようなガキに、邪魔されてたまるかよ!」
ザウラストは教祖の仮面を捨てて、子供のような癇癪を起こしていた。今や、少年のように美しかった顔は醜く歪んで見る影もない。
「四百年生きてたらなんだ! お前の神なんて知るもんか! わけわかんないことばっかり言って、どれだけの人に迷惑をかけたんだよ! 僕の大切な人に、二度と手を出すな!!」
感情むき出しの相手に、ソロンも正面から怒りをぶつける。
「うるさい! 死ね、死ね、死ねえ!!」
ザウラストの目が光った。念動魔法を使おうとしたのかもしれない。
けれど、ソロンのほうが先に動いていた。力を使い果たしていたのは敵も同じで、わずかな体力の差が明暗を分けたのだろう。
「灰になれ、ザウラスト!!」
残る全てを振り絞って、ソロンは蒼煌の刀を叩きつけた。
蒼炎の奔流がザウラストを飲み込んでいく。
勢い余った炎が、雲海に大きな風穴を空けた。
「私は神に選ばれたんだぞおぉぉぉぉ……!」
それがザウラストの断末魔となった。
青く燃えるザウラストの体は、風穴を通って雲海の下へと落ちていった。体内に秘めていた竜玉が破壊されたのか、二度と浮かんでくることもなかった。