神鏡を求めて
ソロンはアルヴァを抱えながら、建物の陰へと運んでいく。魔物の視線が届かない場所で、彼女を降ろした。
「ごめんなさい、ソロン。あなたの忠告を無視した私の過ちでした」
アルヴァは足を崩して座り込んでいた。憔悴しきった様子で、いつものような気丈さがなかった。
「僕に謝られても困りますよ。それより陛下、鏡です!」
目の前の女帝が非を認めたことを、ソロンは素直に喜べなかった。
尊大ではあっても毅然としていた彼女は嫌いではなかったのだ。そのせいか、どこか突き放した言い方になってしまった。
「鏡……ですか?」
意味が分からないとばかりに、ソロンの言葉を繰り返す。
「神鏡の元に行きたいんです。一緒に来てもらえますか?」
「こんな状況で、火事場泥棒でもなさるつもりですか」
冷ややかにアルヴァは言ったが。
「違います。神獣を倒せるのは神鏡なんです!」
神獣と神鏡……。共に神の名を冠しているが、その意味は異なる。
神鏡の神とは、帝国人が崇める神の意だろう。
対する神獣の神とは、ソロンらイドリス人にとっては敵の神だ。
「神獣?」
「あのバケモノです。僕の故郷を襲ったヤツと同類なんです」
「あれを知っているのですか……? かつて神鏡は混沌を払ったと言われていますが、私には光を放つ鏡だとしか……」
「ごめんなさい。もう時間がないので……。来てください!」
説明を諦めたソロンは、半ば強引にアルヴァの手を握ろうとした。
一歩間違えれば誘拐だな――と、思わなくもなかったが、今は非常時である。少々のことなら許されるだろう。
アルヴァは困惑しながらも手を握り返し、起き上がる素振りを見せた。……が、すぐにその足がふらつく。
「痛むんですか?」
「いえ……少し疲れが溜まっているだけです」
そう答えた彼女の顔色は、死人のように青白かった。
そう感じたのは、今が深夜だからというだけの理由ではないだろう。ここで起きた出来事は十八歳の娘にとって、限界を越えた重荷だったのだ。
「つかまってください」
ソロンはアルヴァへ向かってかがみ込み、背中を向けた。
「この私に、赤子のように負ぶされと?」
アルヴァは不平を言いながら躊躇を見せた。
「そうです、早く」
面倒になってきたソロンは、無礼を承知で急かした。
「……剣が邪魔です」
「なるほど……」
結局、刀はアルヴァに背負ってもらうことにした。
そうして、何だかんだ言いながら、アルヴァは背中につかまってくれた。首へと手を巻きつけてくる。
そして、女帝を背にしたソロンは立ち上がった。
「うげっ……」
瞬間、ソロンの脳裏に後悔の念が走った。
王子様が颯爽と姫君を抱え持つ。古今東西の物語において、そんな情景は付き物である。
そして、アルヴァは見目麗しく細身の女性であった。器量の良さは、物語のお姫様にすら見劣りしないだろう。
だがしかし、物語の王子様のようにはいかなかった。
……重い。
アルヴァは細身ではあるが、どちらかというと長身の女性である。さすがにソロンよりは少し低いが、女性としては長身なのに変わりない。
そして、細身なのはソロンも同じ。つまり、彼女の体重はソロンより少し軽い程度ということになる。
先程は無我夢中で気にならなかったが、自分と大差ない重量を背負うのは相当な難行であった。
もっとも、困ったのはそれだけではない。
背中に柔らかな感触が伝わってくるのだ。考えてみれば、相手は妙齢の女性である。
何かいけないことをしてしまったのではないか。胸中にそんな考えが浮かんできた。
「あの、その……。ごめんなさい」
「……なんの謝罪ですか、それは?」
思わず謝罪したら、不審げな声が背中からかかった。
「――よく分かりませんが、行くと決めたら迷わぬように。多少は揺れても寛大に見ます」
「は、はい!」
背中の激励を受けて、ソロンは奮起した。毒を食らわば皿まで。こうなったらやるしかないのだ。
「――じゃ、走りますよ。もっと強くつかまってください」
ソロンはアルヴァを背負ったまま、走り出した。
「ひゃっ!?」
という声と共に、首へつかまる腕の力が強まった。
*
ソロンはアルヴァを背負ったまま走った。
城の城門前に向かえば自然、神獣と遭遇するかもしれない。それでも、神鏡を手に入れるにはこちらへ向かうしかなかった。
「あのう……」
背中のアルヴァがおずおずと声を上げた。
「何ですか?」
「城門は閉まっていると思うのですが……」
「うっ……。そうなんですか? 陛下の権力でどうにかなりませんか?」
「……なんとかしてみます」
ところが、城門は開いていた。
いや、正確には開いていたのではなく、破壊されていたのだ。鋼鉄の城門に、ぽっかりと巨大な空洞が空けられていた。
奇妙なことに破片すらも散らばっていない。壊されたというよりも、溶かされたといったほうが正確そうだ。
何者がやったかなど、考えるまでもなかった。
城門から続々と飛び出してくる人々の姿がある。城に閉じこもるよりも、外へ逃げたほうが安全だと考えたのだろう。
それとは反対に、城門へと突入していく勇猛な兵士の姿もある。時間の経過に伴って、帝都中から援軍が馳せ参じているのだろう。
女帝を背負ったソロンを、不審な目で見る者はいなかった。
おびただしい負傷者がいる中では、背負われている者など珍しくもない。ましてや、それがこの国の元首だとは誰も思わなかったのだ。
「危険かもしれないですけど、いいですか?」
「愚問です。私を誰だと思っているのですか。あれを倒すためなら、自分の命など惜しくもありません」
こんな有様になっても、彼女は誇り高かった。
ならば遠慮はいらない。ソロンは城門の内側へと飛び込んだ。
入ってすぐ目に飛び込んできたのは、神獣の姿だった。
広い前庭に、そのおぞましい姿が異様を放っている。
既に神獣が暴虐を尽くしたらしく、前庭は激しく損傷していた。敷石や庭木が無残に破壊され、壮麗な景観が台無しである。
神獣の足元を囲むように、大量の兵士の姿もあった。
至るところに死体が散乱しているが、それでも兵士の数が尽きる様子はない。膨大な人口を持つだけあって、帝都の底力も相当なようだ。
「撃つ手を止めるな! どんなバケモノであろうと不死身ではない! 帝国軍の誇りを見せてやれ!」
老齢の武人が指揮を執り、兵士達を鼓舞している。
広い前庭を利用して、大勢の兵士で敵を包囲することに成功したようだ。
老将の指揮に従って、矢と魔法が間断なく神獣へ降り注ぐ。
……が、全く堪えているようには見えない。それでも、全方位からの攻撃に神獣も多少なりと動きを妨げられているようだ。
この調子なら、多少の時間稼ぎにはなるかもしれない。
「大将軍……」
アルヴァがか細い声でつぶやいた。どうやら、戦っている部下達に気を取られているようだ。
「行きましょう!」
ソロンは神獣から距離を取りながら走り出した。
老将はああ言ったものの、あの神獣は不死身に等しい生命力を持っている。
そして、それを打ち破る仕事は二人にしかできないのだ。
* * *
「ミスティン!」
ミスティンは、グラットと共にソロンの後を追っていた。すると突然、群衆の中から呼びかけられたのだ。
見れば、姉のセレスティンである。
「お姉ちゃん! 危険だよ。早く逃げて!」
「私は大丈夫よ。ケガした人を助けないといけないから。それよりあなたこそ!」
「私だって、そうはいかない」
お互い強情で逃げる気はないらしい。それ以上の言い争いは無意味だと気づく。
「一体、どうなってんだ?」
グラットが割り込んで質問する。
「ええ、最初は緑の魔物が襲ってきたのです。そこに陛下が杖を持って――」
アルヴァの杖から魔神が現れた経緯を、セレスティンが簡潔に述べる。悠長に説明している時間は互いになかった。
「魔神って、神竜教会の伝説にあるアレ?」
想像がつかず、ミスティンは首を傾げる。
「他に形容のしようがないのよ。まさしく古代の伝説から蘇ったかのような……。北方で目にした時も嫌な予感はしたのだけど、まさかこんなことになるなんて……」
嘆くようにセレスティンは言った。
アルヴァの北方遠征にセレスティンが帯同したとは、ミスティンも聞いていた。その際に使われた杖の力が、暴走に至ったということだろうか。
「――とにかく尋常な魔物でないのは間違いないわね。帝国軍が大勢で戦っているけれど、攻撃が効いていないみたい」
「効いてないって……なんじゃそりゃ!?」
軍隊が大勢で集中攻撃しても、倒せない魔物など聞いたこともない。
たとえ、大型の竜であっても、百人を超える軍隊に襲われてはひとたまりもない。それが世間の常識なのだ。
「魔法的な障壁が張ってあるのかもしれません。何かそれを破るような力があればよいのですが……」
セレスティンは神竜教会の司祭として、古代の伝承にも通じているようだ。
とはいえ、今はお互いに長話をしている暇もない。
「またね、お姉ちゃん!」
ミスティンは時間を惜しんで、再び走り出した。グラットも慌ててそれに続く。
「ミスティン、そっちは危ないわよ!」
セレスティンの声が後方から聞こえたが、ミスティンはただ前を見ていた。赤黒い霧の漂う方角を。