共和国の受難
静かなる内雲海を、三百隻にも及ぶ艦隊が悠然と進んでいく。
掲げられた旗には、砂色の生地に黒の狼が描かれている。
この旗はサラネド人の起源が、砂漠の遊牧民であることを示していた。かつての祖先は砂漠の諸部族を力で平定し、やがては広大かつ先進的な国家を築いたのだ。
無論、雲海に進出した今でも、その頃の誇りは失っていない。
先頭をゆく旗艦の甲板には、ダハークの姿があった。その眼前にはただ白と青――雲海と青空が広がるばかりである。
大いなる内雲海――そこには生命があふれ、幾多の竜玉船が航海していた。その内雲海に隣接する地域こそが、この上界で最も豊かな地域といっても過言ではない。
内雲海の覇権を巡って、これまで三つの国が争いを繰り広げていた。
南のサラネド共和国、西のプロージャ連合国、そして北のネブラシア帝国である。
しかしながら、プロージャはネブラシアに敗北を重ね、内雲海の西方にあった領土を失っている。
東のカプリカ島を巡り、サラネドは幾度となくネブラシアと争ってきた。けれど、その度にネブラシアはサラネドの攻勢を退けてきた。
去年にしても、ダハークは雲賊を利用する形でカプリカ島を襲わせた。さらにはサラネド軍からも将軍を派遣し、帝国の基地を制圧しようとしたのだ。
しかし、それは帝国のガゼット将軍の手によって、撃退されてしまった。
おまけに、こちらの旗艦を撃墜され、将軍の一人を失う手痛い打撃を負った。
報告によれば、旗艦は雷の魔法の一撃によって沈んだらしい。
ただの軍船ならともかく、頑強な旗艦を一撃で沈める魔法など聞いたこともないが……。
やはり、帝国の力は侮れない。
事実上、北と東西を支配するネブラシアが内雲海の覇者である。それはダハークも認めざるを得なかった。
けれど、ダハークの夢は帝国を下し、内雲海の覇権を得ることだ。帝国軍と比較すれば、バケモノなど内雲海に浮かぶ塵芥でしかない。真に恐ろしいのは人間なのだから。
「さて、そろそろだな」
自ら双眼鏡を構えながら、ダハークはつぶやく。
先に抜かりなく偵察を送り、呪海の王の居場所を報告させている。それによれば、もうじき敵の姿が視界に入るはずだった。
雲平線の向こうから、巨大な赤い異形が現れた。頭部だけが雲海に覗いている奇妙な巨竜。それが呪海の王の印象だった。
島のように巨大なそれは、何かの見間違いとしか思えなかった。
双眼鏡の必要すらない。雲平線の向こうから姿を現すと同時に、肉眼でもはっきりと見えたのだ。
その周囲には赤い瘴気が浮かんでおり、白一色の雲海において異質というしかなかった。
「あ、あれは……!?」
「バ、バケモノだ……!?」
サラネド軍に同様が広がる。
「……デカイな」
これにはダハークも息を呑むしかなかった。
ネブラシアの使節や偵察兵から話には聞いていたが、現実感のない情報に誇張を疑っていた。しかし、自分の目で見た結果、彼らの情報には一つの誇張もなかったと理解したのだ。
「慌てるな! 所詮は知恵のない魔物に過ぎん! 作戦通りに動くぞ!」
それでも、ダハークは部下を叱咤する。元帥たる者が取り乱すようでは、軍を統率できるはずもないのだ。
「まだ相当離れているように思うが……。接近にはどれぐらいかかるか分かるか?」
ダハークはそばにいる航海士へと声をかけた。まずは敵との距離を正確に測らねばならない。
「はっ! 目測では、二時間程度かかると思われます」
航海士は緊張した面持ちながら、しっかりと答えた。
果てしなく見えると感じる雲海だが、実際には人間が見渡す視界には果てがある。竜玉船から雲平線までの距離は、おおよそ二里といったところだ。
そこに、標的の大きさを勘案すれば、接敵までの時間が求まるというわけだ。
*
そして、二時間が経過し、サラネド軍と呪海の王の戦いが始まった。
「全軍、我に続け! ありったけの攻撃を加えてやれ!」
ダハークは全艦隊に指示を下した。
旗艦を先頭にして、一直線に並んだ艦隊が敵へと向かっていく。もっとも、呪海の王に突撃するわけにはいかないので、標的の左側を通過する想定となる。
呪海の王の異様な顔が近づいてくる。
先日、帝国雲軍の攻撃を受けたはずだが、そこには傷一つ見られない。呪海の王が自己再生を行うという帝国からの情報は誠だろうか。
しかし、今更、それについて考えを巡らせる意味はない。ここまで接近すれば、ただ攻撃あるのみだ。
「よし、撃てい!」
ダハークの指示に従って、攻撃が開始された。
旗艦の右舷に並ぶ兵士達が、魔道砲へと点火した。
魔石の爆発力で砲弾を発射する新型兵器である。
砲手にも魔法の心得が必要となる上に、燃料として魔石を消費するが、そのぶん破壊力は凄まじい。速射性に劣るとはいえ、鋼鉄の城門すらも打ち砕ける威力を誇っていた。
帝国軍が内雲海を制し得たのは、優れた竜玉機関による機動力あってのもの。対する共和国軍が、今もなお機動力で劣勢なのは認めざるを得ない。
しかしながら、それはあくまで機動力の話に留まる。兵器の性能では共和国軍だって負けてはいないのだ。
重量のある砲弾が呪海の王へと次々に衝突し、爆炎を巻き起こす。赤い体を炎と煙が覆い隠していく。
もっとも、魔道砲を備えているのは、旗艦を始めとした数隻に過ぎない。新兵器ゆえに量産には課題があるのだ。
ともあれ、旗艦に続いて後続の竜玉船からも攻撃は行われる。
矢と投石が、呪海の王の巨体へと殺到していく。新旧問わない兵装の数々を、出し惜しみせずに投入していった。
三百にも及ぶ艦隊による総攻撃である。巨竜すら雲海の藻屑と化してしまうほどの攻撃だ。いかに呪海の王とてタダでは済むまい。
「やったか!?」
ダハークは拳を握り、固唾を飲んで見守った。
煙の中に垣間見えたのは、いまだ健在な呪海の王の姿だった。その周囲には、赤黒い瘴気が不気味にただよっている。
「馬鹿な、生きているだとっ!?」
強気であったはずのダハークも、驚愕に色を失った。
攻撃を続けていた兵士達の中には、その手を止める者もいた。
「――こ、攻撃を止めるな!」
慌てて、ダハークは叫び、兵士達に発破をかける。
艦隊の縦列はまだまだ続いている。攻撃はこの程度では終わらないはずだった。
その時、呪海の王の口から赤黒い光があふれ出した。
気づいた時には、破壊の閃光が放たれていた。
激しい光と衝撃波が雲海の上を貫いていく。静謐なはずの雲海も、この時ばかりは海のように荒れ狂った。
閃光は船を飲み込み、人を飲み込んでいく。光の中に全てが消失したかのように思えた。
サラネド艦隊は密集体系を取り、分散していなかった。ゆえに、その被害も甚大だった。
「お、俺は生きているのか……」
ダハークは甲板に尻もちをつきながら、呆然とつぶやいた。
よろよろと体を起こしながら、船の後方を窺う。
ただ白い雲海が広がっていた。
そこにあったはずの大量の軍船は、痕跡もない。それこそ、残骸すらも見当たらなかった。
測る気力も湧かないが、被害は艦隊の半分を大きく超えているだろう。
この旗艦が無事だったのは、先頭を進んでいたためだ。閃光は艦隊の中央部を消し飛ばしたため、前方と後方の被害が比較的に少なかった。
船があったはずの場所には、赤黒い瘴気が浮かんでいた。呪海の王がまとっているものと同じような瘴気だ。
死んだ兵士達の血が、気体となって周辺に浮かんでいるのではないか――ダハークはそんな想像をしてしまった。
呪海の王は動きを止めており、反撃をしてくる様子はない。
だが、サラネド艦隊は再び攻撃できるような状況ではなかった。
そうこうしているうちに、赤黒い瘴気が呪海の王の大口へ集まっていく。先程の想像と相まって、殺した兵士達の血を吸い込んでいるかのように思えた……。
しかし、そんな有様を見ながらも、ダハークにできることは何もない。元帥としての最後の仕事は、撤退を指揮することだった。
*
艦隊は命からがらゴルエタに帰還した。
港は騒然となっていた。迎えにきた人々が、異様な程に規模を小さくした艦隊に気づいたのだ。
軍船から降り立った軍人達の顔に生気はなかった。
そしてそれは、総指揮官たるダハークも同じだった。
「元帥……首尾はどうだったのかね?」
ガトレイ議長は、沈痛な面持ちで訪ねた。艦隊の惨状を見れば、結果は分かっている。しかし、彼の立場上はそう尋ねるしかなかった。
ダハークは迎えに現れた議長の姿を目にするや、崩れ落ちた。
「議長、あれは私の手に負えないバケモノです! 今すぐゴルエタの――いや、北の沿岸部の住民全てを内陸部へ避難させてください!」
出発時の勇ましさはどこへやら、その表情に精彩はなかった。
「そ、それほどのバケモノだというのか!? 船は、兵士はどうなったのか!?」
議長も見たこともない元帥の姿に動揺を隠せない。
「も、申し訳ありません! 大勢の兵士を犬死させてしまいました! かくなる上は死をもって詫びるしか……!」
ダハークは人目もはばからず号泣した。もはや、元帥の威厳も何もない。
「ま、待ちたまえ! この上、君に死なれたら誰がこの国を守るのか! 住民を避難させるのだって、簡単ではないんだぞ! ダハーク、君は生きろ! 生きて私に協力しろ!」
議長もつられて泣きそうになりながら、それでもダハークを叱咤する。
責任はダハークに対応を一任した議長にもある。二人は一蓮托生だったのだ。
かくして、どうにか立ち直ったダハークの主導で、沿岸部の住民の避難が進められることになった。
サラネドの内陸部には、川を中心としたオアシス都市が点在している。ゆえに、内陸部の都市は数多く、首都マムーンもその一つだった。
その点では、避難先には事欠かなかったのだ。
しかしながら、サラネド共和国の前途が多難なのは言うまでもなかった。
最終部前編にして第十章『邪教の領域』完結です。
次回はいよいよ後編――終章『広がる世界』となります。
予告通り物語は結末を迎えます。
どうぞ最後までお付き合いくださいませ。