魔神と神獣
杖先の魔石から湧き出す赤黒い霧は止まらない。
「う……ああ!?」
焼けつくような頭の痛みに、アルヴァはついに杖を手放してしまった。
術者がいないはずの杖から、なおも霧はあふれ続ける。
黒い魔石が砕け散ると共に、霧は一気にふくれ上がった。
「なっ……!?」
事態を理解できずに、アルヴァは困惑をあらわにする。
巨獣を虐殺していた『影』の元に、赤黒い霧が集まっていく。
霧に包まれた影は、思いがけない程にその大きさを増していた。今や、二階建ての建物に匹敵する程だった。
赤黒かったはずの影が徐々に色づく。曖昧だった輪郭も、いつの間にか明確となっていた。
影はもはや、影のままではなかったのだ。
赤い鱗を張り巡らした皮膚に、浮き出る血管。血走った眼の上には、奇妙に曲がった角を生やしている。長い腕が四本。下半身には足がなく、代わりに太い尾を垂れ流していた。
コウモリに似た翼があるが、羽ばたく様子はない。それなのにどういう仕組みか、巨体は水堀の上空を浮遊していた。
その周囲には今も赤黒い霧が漂い、辺りを薄暗く包み込んでいる。
離れた場所から見れば、それは空が燃えているように見えたかもしれない。半分に割れた赤い月が、怪しく闇夜を照らし出していた。
「魔神……!?」
誰かが、そんな声を上げた。
まさしく、それは古い伝承にある魔神の姿によく似ていた。歴史というよりは、神話に現れる忌まわしき存在である。
呆然と見上げる人間達を差し置いて、魔神は残った巨獣に向かって腕を伸ばした。
比喩ではなく文字通りに、腕は驚くような距離を伸びて巨獣を貫いた。巨獣の死骸は血も流さぬまま、地面に横たわった。
魔神は次々と四本の腕を伸ばし、またたく間に残り全ての巨獣を葬ってしまった。
「おお、さすがは陛下の魔法だ!」
兵士達は、これもアルヴァの魔法の延長だと思ったようだ。中には呑気に歓声すら上げた者もいた。
ところが――
突如、魔神が兵士の一人に向けて腕を伸ばした。
兵士は断末魔を上げる間もなく、胸を一気に貫かれた。
外傷は何もない。だが、糸が切れたような有様を見れば、絶命したことは明らかだった。
兵士の遺体は驚愕の表情で、虚空を眺めている。自分がなぜ死んだのかすら理解できなかっただろう。
「あ、あぁ……!」
アルヴァの力ない声が、かすれて消えていく。
杖の中にいたはずの『それ』は、今や自分の指示を無視して暴走しているのだ。誰よりも早く、事態の異常さに彼女が気づいていた。
だのに、体が悲鳴を上げて動くことを許さない。声すらもまともに発せられないのだ。
そんな彼女へと駆け寄る者もいなかった。みな呆然と事態を眺めていたからだ。
「あれは敵だ! 攻撃せよ!」
いち早く決断したのは、ラザリック将軍だった。異様なアルヴァの気色に、これは尋常ではないと悟ったのだ。
号令に従った兵士達が、魔神へと矢を射かけた。
しかし、矢は魔神に届くことなく、地面に落ちていった。まるで赤黒い霧に遮られたかのようである。
「魔法だ! 魔法を放て!」
ラザリックは次なる命令を下す。
何十人もの魔道兵が杖をかざして、一斉に魔法を放つ。
炎、氷槍、突風、岩石。様々な魔法が魔神に向かっていった。アルヴァと同じように雷撃を放つ者もいたが、これは帝国有数の高位魔道士によるものだろう。
数々の魔法が魔神の体に命中し、衝撃を与える。
けれど、魔神に通用しているようには見えなかった。精々がわずかの間、動きを止めた程度だろうか。
次の瞬間、魔神は恐ろしい勢いで接近していた。巨体が風圧を巻き起こし、魔道兵達をよろめかせる。
振るわれた魔神の腕が、魔道兵達を薙ぎ払った。
たった一閃――それだけで、何人もの魔道兵が命を刈り取られた。破り取られた紙のように、彼らの体は欠落していたのだ。
おぞましい光景に、生き残った者達も散々に逃げるしかなかった。
帝国の精鋭を誇る魔道部隊すらも、一瞬にして壊滅したのである。
「な、なんてことだ……!?」
ラザリックが唖然として声を上げた。
しかし、それでも魔神は休むこともない。いや、むしろ獲物を捕食して活力を増したかのようだ。
魔神は逃げ惑う兵士達を、凄まじい速度で追いかけ、その腕で貫いていく。
人間達は抜け殻のようになって、地面に横たわっていった。
* * *
「おい、魔物だってよ。俺達も退散しなくて大丈夫かねえ」
市民達のただならぬ様子を見て、グラットが言った。
襲撃があった地点は、帝都の北部から中央の城にかけてだという。離れてはいたものの、南部の宿にいたソロン達にも騒ぎは伝わってきた。
真夜中とはいえ、さすがに眠っているわけにもいかず、三人は外へと出たのだった。
「城だったらまだ遠いし、慌てなくてもいいんじゃないの?」
ミスティンはいつも通りに落ち着き払っていた。
事実、付近には今のところ魔物の姿はない。下手に動いたところで、他の地域がより安全だという保証もない。
ましてや野生の魔物がいる壁の外に出るなど、本末転倒だった。
グラットも納得したらしく。
「それもそうだな。せっかく税金払ってんだし、軍に任せて俺たちゃ大人しくしときますか。お城のお偉いさん方が、何とかしてくれるだろ」
ところが、それを聞いたソロンは顔を曇らせた。『お城のお偉いさん』は既にソロンにとって、赤の他人ではなかったのだ。
今もソロンは、アルヴァからの連絡を待つばかりだった。
「ごめん。ちょっと様子見てくる。二人は危なくなったら避難して!」
そう言い捨てて、ソロンは北に向かって走り出した。
* * *
「お~い、ソロン!」
グラットは困ったように叫んだが、すぐにミスティンのほうを向いた。
「どうするよ、ミスティン。大人しく待っとくか?」
「行く」
ミスティンは、グラットのほうを向きもせずに答えた。既に彼女の足は北に向かい始めている。
「あいつ足速いから、追いつくの大変だぜ」
そう言いながら、グラットも走り出した。
* * *
街路樹の緑光を頼りに、ソロンは大通りを北上していく。
さらなる異変に気づいたのは、中央公園に差しかかった頃だった。
北の空が赤く光る様子が見えたのだ。発光しているのは、霧のような赤黒い何か……。
それが何かは分からない。
けれどそれによって、異変の震源地も見当がついた。赤黒い霧の中心――そこで何か起こっているに違いない。
途中に逃げ惑う人々の姿が、たくさん目に入ってくる。
「あんな魔物見たことねえよ!」
「魔神だって! 軍の連中が苦戦してるらしい!」
「急いで! 赤い霧から少しでも離れろ!」
帝国軍が苦戦している――人々の話を聞く限り、事態は予想以上に深刻なようだ。そこで交わされる『魔神』という呼称が気になっていた。
やがて、ネブラシア城が近づいてきた。
この辺りで魔物の襲撃があったらしく、破壊された建物が目立っている。
既に逃げ延びたためか、ここまでくれば市民の姿もまばらだった。
代わりに目についたのは兵士の姿だ。戦いによって傷ついた兵士が、同僚から手当を受けていた。
もっとも、真にソロンの目を引いたのは、それらではなかった。
「なんで……!?」
ソロンは言葉を失った。
大通りに倒れている大きな魔物の死骸。それは肥え太った緑色の獣の姿をしていた。
だが、絶句したのは魔物の姿が異様だったからではない。
ソロンはその魔物を見たことがあったからだ。
それもそのはず、まさしくそれはソロンの故郷を襲った魔物の一つだったのだ。
「なんで、こいつがここに……!?」
声にしてみたところで答えは返ってこない。
市民が呼ぶ魔神とはこれのことだろうか……。強力な魔物ではあるが、少し大袈裟にも感じる。何より、赤黒い霧はまだ先にあるのだ。
確かめるためにも、ソロンは先へ進むことにした。
じきにソロンは、城へとつながる橋の前へ到達した。
もっとも、橋は崩れ落ちて渡れないようだ。水堀の中には、死骸となった緑の巨獣が埋もれている。
そして――対岸に見えたのは、宙に浮かぶ巨大な魔物の姿だった。
四本の腕を振り回し、城壁を破壊し続けている。
その背中に向かって、兵士達が矢を撃ち込むが全く効果が見られなかった。
「神獣……」
間違いない、あれこそが人々の口にした『魔神』なのだ。そして、それはソロンの知る『神獣』に酷似していた。
それは、アルヴァが杖から呼び出した『影』そのものだった。今は輪郭も色彩も明瞭になっており、以前よりも巨大化している。
初めてあの魔法を見た時から、嫌な予感はしていた。
あの『影』を構成する赤黒い霧は、故郷で見た『神獣』を思わせた。影が形を結んだ今となって、それは確信となった。
止めなくてはいけない。
あれを止められるのは自分しかいない。
あの時は何もできなかった。けれどだからこそ、自分がやるしかないのだ。
とはいえ、今は優先すべきことがある。彼女を探すのだ。
まずは水堀を渡らねばならないが――
「あれが使えるな」
ソロンは助走をつけて、水堀へ向かって跳んだ。
もちろん、以前のように水堀を泳ぐわけではない。
緑の巨獣の死骸を足場に跳び移り、一気に向こう岸まで渡り切ったのだった。
* * *
「どうして……。どうして、私の命令を聞かないのですか……」
アルヴァは呆然自失していた。
魔神は自分の魔法として生み出されたはずだ。それなのに思い通りにならず、暴走してしまっている。
あの杖は、アルヴァの手に余るものではなかったのだろうか……。
魔神の手によって、彼女の周囲にいた兵士も次から次へと倒れていく。
この事態が自分のせいなのか。アルヴァは皆を守りたかっただけなのに……。
心で何を思っても、もはやどうにもならなかった。
何を願っても、惨劇は止まらない。
突如、魔神の眼光がアルヴァへと向けられた。
恐怖で身もすくむが、もはや逃げる気力も湧いてこない。
魔神が四本の腕を蠢かせ、彼女に向かって腕を伸ばそうとする。
誰もアルヴァを助けに来なかった。
近くにいた者は、既に魔神によって殺害されたのだ。ラザリックらも兵の指揮に必死で、反応が遅れた。
最期を覚悟したその時――
疾風の勢いで駆け寄ってきた赤髪の少年が、アルヴァを抱えた。
魔神の腕は宙をつかんだのだった。