光の海
やがて、船は滝のそばを通り過ぎて、西へと向かう。
日は陰り、西の海へと落ちる太陽が白雲の向こうに覗いていた。
「今日はこんなところだろ」
グラット船長が進言したので、ソロンも了承する。下界にいる間、その辺りの決定はソロンの役目だった。
さて、そうなると停泊する島を探す必要がある。可能な限り、大海の中で夜を過ごすのは避けねばならないのだ。
理由は二つ。
一つは海流に流され、所在を見失う危険があるため。
もう一つは魔物の襲撃を受けて、船が被害を受ける可能性があるためだ。もちろん、岸のそばにも魔物はいるが、遠洋よりは大きな魔物が少なかった。
また、魔の島がある黒雲下への突入は、明日の朝からとなる。できるだけ、黒雲下に近い島であることが望ましい。
その点、熟練の航海士の協力を得ているのは心強かった。滝を目印に航海する彼らは、この辺りの地理にも精通しているそうだ。
見つかったのは、森に覆われた手頃な大きさの島だ。
海船は喫水が深い――つまりは、水面下まで深く船底が伸びているため、うかつに浅瀬へ近づいては座礁してしまう。
そのため、島から少し離れたところに錨を下ろし、船を沿岸に停泊させた。
魔物の襲撃を警戒して、夜間も見張りを立てておく。下界の海は危険の宝庫であり、油断はできないのだ。
*
翌朝、船は早々と島を出発した。日が昇り始めた時間から進入するのが、黒雲下の鉄則なのだ。
マゼンテの滝を遠く背後に仰ぎ見ながら、西の黒雲下へと船を進めていく。
さすがの熟練の航海士でも、黒雲下へ船を進入させた経験はないらしい。黒雲下を目前にして、船乗り達はいずれも緊張の表情だった。
そして、船は黒雲下へと入った。
「なんだ、大したことねえじゃねえか」
船員達が安堵の息を漏らす。
朝の太陽が黒雲下の海を照らす中では、その明るさも白雲下と大差ない。上空を見れば、一切の光を通さない黒雲が広がっているが、それだけである。
「それはそうです。黒雲下が異常な環境となるのは、極端な乾燥に依っています。海にまでその法則は当たらないでしょう。それほど恐れることはないと思いますよ」
あくまで、アルヴァは合理的に考察してみせる。
実際、下界人が黒雲下を恐れるのは、印象によるものも相当に大きい。実際に黒雲下を知った上で、正確に恐れている者はほとんどいないだろう。
「さて、後は肝心の魔の島が見つかるかだな」
「そうだね。だけど、伝説が本当なら大きな島だし、そう難しくはないと思うんだけどね」
グラットが話を振ってきたので、ソロンはそう楽観してみるが。
「伝説は伝説だろ。そんなの当てになるんかよ?」
「お前も宝探しの類は嫌いではなかろう。だというのに、妙なところで冷めておるな」
メリューが話に加わってくる。
「お前は浪漫が分かってねえな。宝探しってのは甘くねえんだよ。簡単に見つかったら面白くねえだろ? なあ、ソロン」
グラットが面倒臭いこだわりを発揮する。同意を求めているのか、ソロンの頭をポンポンと叩いた。
「いや、僕に同意を求められても……。だいたい今は必要に駆られて星霊銀を探してるんだよ。浪漫とかいう状況じゃないし」
「お前は真面目な奴だなあ。まっ、見つかるなら早く見つかるに越したことはねえけどよ」
その時、船に鈍い揺れが走った。
「むっ、何事だ!?」
メリューが崩れそうになった体勢を整えながら、周囲を窺う。
「ワニだー!」
右舷を見張っていた船員が叫んだ。
「ワニ?」
ミスティンがきょとんと目をしばたたかせる。
ソロンは急いで、右舷へと走り込んだ。
船員が指差した海面にいたのは、太く長い胴体を持った爬虫類――ワニだった。どうやら、これが揺れの正体らしい。
サメのように大きな体をくねらせて、ワニは船から距離を取る。助走をつけて、再突撃してくるようだ。
「なんで海のど真ん中にワニがいるんだよ! しかも、デケえ!」
遅れて走って来たグラットが、困惑気味に魔物の姿を確認する。慌てて銛を取ろうとするが。
「前に話したけど、これが海ワニってヤツさ。僕に任せて」
ソロンはそう話しながらも、蒼煌の刀を抜き放つ。そうして、ワニに向かって刃先を向けた。
慎重に船へ被害を与えないように注意しながら、魔力を解き放つ。
蒼炎が炸裂し、突撃を繰り返そうとしたワニを貫く。
ワニは飛沫を上げながら吹き飛び、海の底へと沈んでいった。
「やはり、黒雲下の海は油断ならんな」
沈みゆくワニを眺めながら、メリューが息を吐いた。
「黒雲下というより、海ワニは色んなところにいるけどね」
「アルヴァの鞄の材料だっけ」
と、ミスティンはアルヴァの鞄を指し示す。
「ええ」
と、アルヴァはにこりとソロンに微笑んだ。そうしながらも杖を構えて、油断なくワニが浮き上がってこないかを監視している。
「――やはり、例の邪教徒がイシュテア海で召喚した聖獣とも似ていますね」
「関係はあると思う。ザウラストはこれを元にアレを作ったんだと思う」
「なるほど、聖獣を生み出すにも原型が必要ということですか」
「それから、自然にいるヤツでも、船を沈めることがあるから要注意だよ。マゼンテ海ではサメより恐れられてるんだ」
「さっき思いっきりぶつけられたけど、大丈夫? 沈まない?」
ミスティンも不安そうに尋ねる。
「大丈夫だと思うけど」
ソロンは自分では答えず、熟練の船乗りを呼んでうながす。そうしたほうが彼女も安心するだろう。
「一発ぶつけられたぐらいじゃあ沈みませんよ。沖に出たらワニの襲撃なんて、毎度のこってすからね。いつもは銛で仕留めるんですが……いやはや殿下はさすがですなあ」
と、船乗りは感心してみせる。
「毎度のことなんだ……」
安心していいのか、不安になるべきなのか、ミスティンは困惑しているようだった。
「またやって来ても一撃でやっつけるよ。できたら、突撃を喰らう前にね」
ミスティンの肩を軽く叩いて、ソロンは言った。
「なんか、最近のソロンは頼りになるね」
それでミスティンもようやく安心したようだった。
海ワニとの戦いを乗り越えて、黒雲下の海を進む。
彼方にある太陽が徐々に位置を押し上げて、雲の向こうへと昇っていく。
けれど、魔の島らしき島影はいまだ見えない。
「見つからねえなあ。このままだと昼闇が来ちまうぜ」
「仕方ないか。どこかの島に船を停めて、太陽が降りてくるまで待とう」
「りょーかい。次に見つかった島に停めるぜ」
グラットが操舵手に指示を出して、手頃な島を探す。
しかし、島は簡単に見つからなかった。そもそも、黒雲下の海については、詳細な地図も存在しないのだ。ただ魔の島を始めとした大きな島が、いくつか記されているだけである。
そして、この近辺には魔の島以外に島は記されていない。
「時間切れだな。帆を下ろしてくれ」
太陽が少しづつ隠れ出したので、グラットもついに諦めた。
場所は黒雲下の海の真っ只中だ。錨を下ろせるような浅瀬もない。
グラットが船員に帆を下ろさせたのは、風に流されないようにするためだ。
黒雲下の中、これから何時間と太陽が降りてくるのを待たねばならない。その間、できる限り位置を一定に保つ必要があった。
やがて、太陽が完全に隠れ、周囲が暗闇に包まれた。
北にはどこまでも闇の世界が広がっている。巨大な帝国本島の真下に当たるため、対応する黒雲もまた巨大なのだ。
南側の空からはかすかな光が漏れているが、とても当てにできる光量ではない。
昼闇で過ごした経験のない船員達は、不安に怯えているようだった。
ソロンにとってはもう何度も経験したことだ。今更、怯えはしないが、海上という点だけは気をつけねばならない。
*
洋上でただ昼闇が過ぎるのを待つ。
「早く、終われよなあ」
「太陽を急かしても得るものはない。座して待つのみだ」
ぼやくグラットに対して、メリューは泰然自若と腕を組んでいた。
「それ、格言っぽくてカッコいいね」
ミスティンが謎の感激をする。
「まあ、言われんでも分かってるけどよ。退屈なんだよなあ」
「何か光ってるぞ!」
その時、周囲を見張っていた船員が声を上げた。
ソロンが見れば、光る何かが船の周囲を取り囲んでいる。その数は二十や三十では到底足りなさそうだ。
メリューがまぶしげに目を細めながら海を覗き込む。それから、ふうと息をついた。
「クラゲのようだな。船に害を与える大きさではなかろうし、気にする必要はないと思うぞ」
実際、クラゲは発光しているだけだった。ただただ船の周囲に浮かびながら、長い光の帯を作っているだけである。
「光の海ですか。美しいものですね」
アルヴァが舷側に手を置いて、海面を覗き込む。
「綺麗だけど不気味じゃない?」
ソロンがそう言えば、彼女は不満そうだった。
「ソロンは風情がなくていけませんよ」
「つっても、クラゲじゃねえか。なんで船に集まってくるんだ?」
グラットが加わってくる。
それにはミスティンが答えて。
「きっと、船が珍しいからだよ。クラゲだって退屈だろうし」
「退屈も何も、あいつら浮いてるだけじゃねえか。光に釣られて、魔物がやって来たらどうするよ」
「その時はソロンがやっつけてくれるから大丈夫だよ」
と、ミスティンが相変わらずの信頼を寄せてくる。
そんなやり取りをよそに、ソロンはじっと海を眺めていたが……。
「あの先って、何かあるのかな?」
ふと気づいてつぶやいた。
船を囲むクラゲの大群による光の帯……。その一部が囲みを外れて、どこかへつながっているように見えたのだ。それも遠く水平線の向こうまで。
「ふむ、北西ですか。陸地につながっている可能性も否定できませんが……」
アルヴァが手元の羅針盤を確認しながら言った。
「んじゃ、行ってみるか? 当然、陽が降りてからの話だけどな」
「そんな適当でいいの?」
「あっちの方向は行ってねえし、ちょうどいいんじゃねえか。俺だって当てもなく進みたくねえしな。外れだったらそん時はそん時だ」
グラットは楽観的に言い放った。
*
やがて、昼闇の時間は過ぎ去り、クラゲの光も消えていった。
船員達がほっと安堵の息を漏らす。
「おし、あっちの方角だったな」
光の帯が続いていた方角を、グラットが指差した。
「ええ、間違いありません」
と、アルヴァが羅針盤を指し示す。
まだ薄暗い中、船は北西へと動き出した。