なつかしきタンダ
橋の下を通り過ぎた船は、再び帆を掲げた。
イドリス川の流れが一層とゆるやかになっていく。遥か東から続く川が、終点に至ろうとしているのだ。
船の進路――西の方角には水平線が覗いている。左右を挟んでいた岸がなくなり、水の世界が広がったのだ。
川のせせらぎとは異なる不規則な波の音が響いてくる。
下界の海――マゼンテ海だった。
「おお、何たる巨大な湖……。これが海というものか……!」
感動を表したのは、メリューだった。
彼女の故国ドーマ連邦は、雲海に散らばる島々の集合体である。帝国にもイシュテア海があるが、訪れる機会もなかったため、これが初めての海となったのだろう。
「伝説によれば、これも『真の海』じゃなくて、単なる巨大な湖らしいんだけどね」
それでも、船で東西を横断しようとすれば、何日もかかるような広大さだ。ソロンからすれば、海と表現するしかなかった。
「うむ。万里に及ぶという太古の海のことだな。ともあれ、これが恐るべきほどに巨大なのは変わらんよ。対岸が見えぬとは驚き――」
そこでメリューは急に言葉を切った。海の彼方をポカンと見つめている。
「――あ、あれはなんだ、水が落ちておるぞ。滝か、滝なのか!?」
メリューは一層の驚きと共に指差した。
遠く彼方には、上界から落ちる滝が見えている。
メリューが今まで気づかなかったのは、かすかに霞がかっていたせいだろう。遠く離れているがゆえ、わずかな靄でも隠れてしまうのだ。
「マゼンテの滝だよ」「エーゲスタの滝ですね」
ソロンとアルヴァの声が重なった。
「どちらなのだ!?」
「あれは上界から落ちる滝なんだよ。上界ではエーゲスタ、こっちではマゼンテの滝っていうんだ」
「そういうことか……。ううむ、アムイの塔に劣らぬ驚異だな。もう少し近くで見たいものだ」
「それなら、すぐにでも見られると思うよ。村で海船を借りたらあっちのほうに向かうから」
「おお、それは楽しみにさせてもらおう!」
と、メリューは見た目の年齢相応に目を輝かせていた。
「そんじゃ、今日のところはタンダ村を目指すぜ」
グラットが舵を左へと回していけば、船はマゼンテ海へと進入していく。
マゼンテ海の波に揺られて、船も上下に揺れ動き出した。
「わお、揺れるねえ」
「おっ、おお……川と海はやはり違うのだな」
ミスティンは楽しそうにしていたが、メリューは不安げである。
メリューは今、船の前側で念動魔法を使用しているところだった。体勢を崩さないように、ソロンがその肩を支える。
「大丈夫?」
「いや、問題ない。川と海の落差に少し驚いただけだ」
メリューは視線を前方に据えたまま、返事をする。理屈はよく分からないが、舳先の辺りを視線で押して船を前進させているらしい。
「地図で見る限り、イシュテア海よりも数倍は巨大ですからね。それだけ、波も大きくなるのでしょう」
「海が大きくなったら、なんで波が大きくなるの?」
説明するアルヴァに、ミスティンが疑問を呈する。
「よい質問ですね。まず、波とは水が風にあおられて起こる現象です。それゆえ、海が拡大すれば、それだけ影響を受ける水の量も多くなります。広い範囲で波が重なった結果、波も大きくなるというわけです」
「お~、なるほど~。ということは、風が強くなると波も大きくなるんだね」
いつものようにアルヴァが説明し、ミスティンがほうほうと頷く。
「そういうことです。悪天候に気をつけるのは竜玉船でもそうですが、海においては高波への警戒も必要となります。少なくとも、この川船で大海原を目指すのは無謀でしょうね」
「そっか、それで船を交替するんだね」
「今更かよ……」
納得するミスティンに、グラットが呆れてみせる。
タンダ村を目指すのは、単に休息と補給をするためではない。
現在、ソロン達が乗る川船は、イドリス川を想定して造られている。重心は高く、船底が深くまで沈まないのが特徴だ。水深の浅い川でも座礁しにくいのが利点だった。
反面、安定性に欠けるのが難点である。海の沿岸部を少し進むぐらいなら問題はないが、このまま大海へ漕ぎ出すには心もとなかった。
ゆえに、大海へ漕ぎ出すには、タンダ村で海船を借りる必要があった。
海船は重心が低く、水面下に船底が深く浸かるようになっている。そうして、航海の安定性を高めているのだ。
ともあれ、今はまだ川船である。
ソロン達の船は、海岸線沿いに南下してタンダ村を目指した。それならば、途中で運悪く強風に吹かれたとしても、岸に寄せれば避難できるというわけだ。
右手に大海原を臨みながら、船は進んでいく。既に川の流れはないため、動力は風と彼女達の魔法だけだ。必然的に速力は低下し、動きはゆるやかになる。
やがて、太陽がマゼンテ海へと降りていく。西日に照らされた海が、赤く染まり始める。
もっとも、今回はそれで航海をやめるつもりはない。夜になっても、タンダ村への到着を目指すつもりだった。
「見張りは私に任せるがよい。そなたらよりも夜目が利くからな」
メリューが船の前側に立って見張りを買ってくれた。
それに蛍光石の明かりを加えれば、前方の警戒は万全だろう。ソロン達はそうして、今日中の到着を目指すのだった。
*
すっかり、空が暗闇に染まった頃、光が見えてきた。いくつもの光が、海に浮かぶように点在している。
「む、あれは漁火か?」
いち早くメリューがその光に気づく。
それはタンダ村の漁船が放つ明かりだった。魚をおびき寄せるため、船に光を灯しているのだ。
「正解。海がないのによく知ってたね」
「馬鹿にするでない。漁火は雲海でも使われておる。それに下界へ行けば、わがドーマにも海の一つや二つはあるのだ。ただ大都から遠いため、行ったことがないというだけだ」
メリューがフンと鼻を鳴らして言い返した。
漁火の隙間を通り抜けて、タンダ村の船着場へと船を停泊させる。
十五人の一行は、船着場から村の中へと足を踏み入れた。
漁場を離れれば、途端に光がなくなった。
アルヴァの懐中時計によれば、今は十一時。このような田舎では、みな寝静まっている時間帯だ。もちろん、街灯など存在するわけもなかった。
「なつかしいですね」
蛍光石のブローチで道を照らしながら、アルヴァはつぶやいた。
ここはかつて、彼女が滞在していた村だ。短期間ながら、思い出深い場所のようだった。
アルヴァからしてみれば、旧交を温めたいところではあったかもしれない。……が、なにぶん夜の早い田舎である。今日のところは、宿を目指すのだった。
宿は村の南門側にあるため、西岸の船着場からは少しばかり歩く必要があった。
「不便ですね。将来的には、港町としての発展も望める地理だとは思うのですが……」
一般的に港があれば、そのそばにも宿があるはず。そうでないのは、ここが港町として発展していないからに他ならない。
アルヴァが不満そうなのは、単に移動が面倒というだけではない。為政者としての職業病で、縁のある村の現状を憂えているのだ。
「う~ん、そうだね。どうしてもイドリスからは遠いし、手が回らないんだよな。少しは他国とも貿易してるみたいなんだけど、船を増やすのも大変らしいし。結局、現状は陸路での交易が主体なんだよね」
国の発展を預かる一人として、ソロンが答える。
「なるほど……。水深の浅いイドリス川では、海船を運ぶのは難しいですからね。よそで造船するのは難しいでしょう。となれば、大勢の船大工をこの村に集めて、船を造るしかなさそうです」
何やらアルヴァが難しい顔で考え出す。それでも、どことなく楽しそうにも見えた。
「けど、こんなところにわざわざ船大工が来るのかな? 王都とかで川船を造ってたほうが儲かるよね」
ソロンが疑問を浮かべれば、
「それ相応の費用を国が負担すれば、来る者はいますよ。いっそ、帝都から職人を連れてきてもよいぐらいです。なんといっても、ここは帝都の界門からも近いですからね。そう考えてみると、ゆくゆくはあちらの界門も開放し、村までの街道を整備すべきでしょう」
アルヴァは水を得た魚のように語り出す。
ソロンとしては、呆れるやら感心するやらだ。
「なんだか気の長い話になってきたなあ」
「都市計画とは気の長いものです。そして、どんな大きな都市も、最初は小さな村から始まったのです。大事なのは発展を望み、やり遂げようとする人の意志……。この村だって、都市に至る潜在力は十分にありますよ」
アルヴァの力説は留まることを知らない。暗い夜だというのに、その紅い瞳は爛々と輝いていた。
「……あやつ、なかなか暑苦しい女だな」
「一生懸命でかわいいよね」
背後を歩くメリューとミスティンが何か言っているが、それを気にせずアルヴァは続ける。
「イドリス王国の問題点の一つは、王都がある東部に発展が偏っていることですね。やはり、タンダ村のような西部も積極的に発展させていくべきでしょう」
「な、なるほど。今度、兄さんに進言してみるよ」
ソロンはいつものように呆気なく感化された。
「ちっ、あっさりと飲まれやがって」
ところが、グラットはそれで納得していなかった。ソロンに代わり抗弁してみせる。
「――発展させるのがよいことだとは限らねえぜ。昔ながらの暮らしがよいってヤツも、田舎にはいるだろ?」
「それは一定の水準があって、初めて言えることです。民を飢えさせない生産力に、民を生かす医療、魔物や野盗から町を守る防衛力……。それがなければ、民は日々生きるにも苦労せねばならないのです。その根幹を成すのはもちろん経済力であり、発展を否定するのは思考停止に過ぎません」
「しょ、正直、すまんかった……」
アルヴァの長広舌にグラットが圧倒される。旗色が悪いと見てか、彼は早々に頭を垂れた。結局、この男もいつも通りだった。
「あ~、でも、そういうの考えたことなかったよ。基本的に、政治は兄さん達に任せっぱなしだったからさ。……自分の至らなさをちょっとだけ反省します」
「ええ、反省するのはよいことです。この戦いが終わったら、国家の発展についてイドリスは今一度よく考えるべきです。帝国と共に友好国が発展するなら、お兄様も文句はないはず。私も協力しますから、ぜひイドリスの発展に尽力しましょう」
アルヴァはソロンの腕を力強くつかみ、声を弾ませる。よく分からないが、一つ生き甲斐を見つけたらしかった。
彼女と共に国の発展に尽くす未来――そういう未来像もあるのかなと、ソロンは思いを巡らすのだった。
……将来はともかく、現在の宿はタンダ村の入口付近にしかない。しばらく歩いていると、ようやく村一つしかない宿が見えてきた。
宿の扉は閉まっていた。
田舎では扉にカギをかけない習慣があったりもするが、宿までそうとはいかないらしい。
やむなく扉を叩き、既に眠り込んでいた主人を叩き起こす。
扉を開いたのは、ニワトリの亜人だった。去年、宿泊した時と同じ主人である。
主人もこちらを覚えていたらしい。眠たそうに手羽先で目をこすりながらも応対してくれた。
ソロンはお詫びを込めて、少しだけ多めに代金を払っておくのを忘れなかった。
*
田舎の朝は早い。従ってタンダ村の朝も早い。
一行が目覚めたのは六時頃である。十分に早い時間帯ではあるが、ここの村人はとっくに起きている頃だろう。
「私はお世話になった方々の元へ顔を出してきます。船の調達については、頼みましたよ」
宿を出るなり、アルヴァが切り出した。予定では今日、海を渡る船を借りることになっていたのだ。
「あれっ、君は来ないの?」
ソロンは不安げにアルヴァを見返すが、
「そこは王弟殿下のお仕事でしょう。頼みましたよ」
と、アルヴァにさとされる。
「そうだよ、ソロニウス殿下。腐っても王弟殿下なんだからがんばって」
「……まあ、こいつ殿下って感じはしないからなあ。ナイゼルじゃねえけど、いつまで経っても坊っちゃんって感じだ」
ミスティンとグラットは言いたい放題だ。
「心配するな、私が付いていてやる。そなたが頼りにならんと感じたら、私が交渉してやろう」
メリューだけは味方のようだったが、どこか馬鹿にされているようで今ひとつ嬉しくない。
「ぐ……分かった。行ってくるよ」
意を決して、ソロンは返事をした。
「まずは情報収集を兼ねて、村長に話してみるとよいでしょう。島についての言い伝えを知っているとしたら、あの方以外にありませんからね。どう判断するかは任せます。ただ遠洋まで向かうため、相応に安定した船を望みます」
「分かってる、任せといて」
そうして、アルヴァは挨拶回りに向かっていった。例によって、ミスティンも彼女のほうに同行するらしい。
ソロンはグラットとメリューを連れて、船の調達に向かうのだった。