砕け散った希望
そこには神鏡だった物が転がっていた。
鏡縁の中には、わずかな破片が収まっているに過ぎない。周囲の甲板にも破片は飛び散っているが、それで全てではないだろう。
去年の戦いを合わせた三度の酷使によって、ついに神鏡は砕け散ったのだ。
「おい、メリュー! 回収できねえか!?」
グラットがハッとして、メリューへと声をかける。
「やれるだけのことはやってみよう」
メリューが瞳を光らせ、散らばった破片を浮き上がらせる。破片は神鏡のそばへ集まっていくが……。
「足りないね……」
ミスティンが残念そうにつぶやいた。
残りは恐らく、雲海へ落ちてしまったのだろう。いくらかは回収できたとしても、もはや神鏡が輝きを取り戻すのは難しいと察せられた。
そんな一連の様子を、アルヴァはいまだ呆然と眺めていた。帝国の至宝の喪失が、彼女にとってはよほど衝撃だったのだろう。
光は消え失せた。今や呪海の王を照らすものは何もない。
吹き飛ばしたはずの赤黒い瘴気が、再び呪海の王の頭部へと結集していく。
瘴気は雲面下からも立ち昇り、まずます濃度を増していく。まるで呪海の王の全身から血肉を分け与えることで、頭部の欠損を補っているかのようだ。
「アルヴァ!」
「は、はい!」
ソロンが肩をゆすって呼びかければ、彼女もハッとこちらを見返した。
「アルヴァ、今は引こう!」
ソロンは神鏡への未練を捨てて告げた。
幼少から帝都の夜を照らしてきた帝国の至宝――それに対する彼女の思い入れは、相当なものがあったはずだ。
神鏡は元々、イドリスで作られたと伝えられている。しかし、それも実感のない伝説に過ぎない。そういう意味では、ソロンの神鏡への想いはアルヴァよりもずっと小さかった。
「……! 分かりました。ソロン、合図をお願いできますか?」
アルヴァはさすがの意志の強さで、気を取り戻す。
「ああ」
ソロンは西の空に向けて、蒼煌の刀を向けた。
撤退する方角の上空に向けて魔法を放つ――それが艦隊への合図だった。
青い火球を放てば、小さな花火が空に爆ぜる。情けない火力だが、単なる合図としてなら十分だろう。
「そんじゃあ、帝都へ帰還するぜ」
アルヴァが喋る気力もないと見てか、グラットが声をかける。
「……いえ、先に近くの港へ寄ってください。そこでガゼット将軍と落ち合い、善後策を講じます」
失意の底にあっても、アルヴァは自らの仕事を忘れなかった。
「了解、親父にも信号で伝えとくぜ」
*
戦いを終えた艦隊は、失意の中でネブラシア港へと帰港した。
大勢の市民が、兵士達を迎えに港へ集まっていた。
これが勝利であったならば、盛大な凱旋式が行われたのだろう。だが、それも叶わない。竜玉船を降りる兵士達の顔は、どこか重苦しかった。
ソロン達も兵士達を見送った後で、ネブラシア港へと足を下ろすのだった。
「私はこれから将軍達と合流し、陛下の元へ報告に向かわねばなりません。皆よく働いてくださいました。お疲れでしたら、あなた達は休息するとよいでしょう」
最も疲れているであろうアルヴァが、仲間達をねぎらう。
「帰りの船で、いっぱい寝たから大丈夫だよ。私はアルヴァの護衛だし」
ミスティンはいつもの調子で、アルヴァの隣に並んだ。
「私は別にどちらでもいいが、一人休養を取っても仕方あるまい。そなたら以外に知己もいないのでな」
と、メリューもミスティンに続く。
「んじゃ、俺も荷物持ちぐらいは手伝うぜ。さすがに皇帝陛下の御前に出る度胸はねえがな」
グラットは箱を大事そうに抱えていた。中には砕けた神鏡が入っている。メリューが念動魔法で破片をできる限り寄せ集めたのだ。
「えっと、僕も付き合うけど、報告にも参加していい? 部外者なのは百も承知だけどさ」
「ソロンがですか? 参加自体は問題ありませんが、あまり愉快な場ではないと思いますよ。お兄様のことなので、叱責されたりはないでしょうが……」
意外な提案に、アルヴァはきょとんと紅玉の瞳を瞬かせる。
「構わないよ。楽しくないのは百も承知さ」
*
一行はガゼット、イセリア両将軍と合流し、港で馬車に乗り込んだ。そのままネブラシア城まで一直線に向かっていく。
既に戦の結果は広まっているらしく、帝都の住民は打ち沈んだ様子だった。
さすがにガゼットも疲れた様子で、これにはグラットすらいつもの軽口を叩けなかった。
ネブラシア城に入り、皇帝執務室の手前まで七人で歩いた。
ただし、ミスティン、グラット、メリューの三人はここで待機する。会議の内容が重くなりそうなので、不要な者は控えるべきというわけだ。
「んじゃ、これ頼んだぜ」
「うん、任せて」
グラットから手渡された箱を、ソロンは大事に抱え込んだ。神鏡の破損状態を、皇帝に報告する必要があったのだ。アルヴァや将軍達に持たせるわけにもいかず、何となしにソロンの担当となった。
そうしてグラット達と別れ、四人だけで皇帝執務室の扉を叩く。
室内には皇帝エヴァートと、ワムジー大将軍の二人が待っていた。
「陛下、申し訳ありません。呪海の王を倒すには至りませんでした」
アルヴァは重々しい口調で、エヴァートへと戦果を報告した。ガゼットとイセリアも、それに補足する形で説明を挟んでいく。
破壊の閃光によって、数十の軍船と千を超える兵士が犠牲になったこと。
神鏡の力で呪海の王へと攻撃し、一定の成果を得られたこと。
しかしそれも、呪海の王の再生能力によって、決定打とならなかったこと。
そして再度、神鏡の力を使おうとしたが、砕けてしまったこと……。
その途中にソロンは箱を開いて、中身を検分してもらった。エヴァートは無言で頷き、神鏡の破片を見ていた。
「……決着をつけられなかったのは残念だが、気を落とさないでくれ。皆は最善を尽くしてくれた。未曾有のバケモノを相手にしているのだ。初めから想定通りにいくとは思っていないさ」
胸中はどうあれど、エヴァートは失意のアルヴァ達を慰めた。いかにも彼らしい寛大な態度だった。
「しかし、多くの部下を失ってしまいました。その責任は免れません」
「私としても、神鏡が砕けるとは想定外でした……」
ガゼットとアルヴァが頭を下げて謝罪するが、エヴァートはゆっくりと首を横に振る。
「その責任は私が真っ先に負うべきものだ。一時しのぎであろうとも、呪海の王の動きを止めることに成功したのだろう」
「はっ、呪海の王は侵攻を停止して、体を再生しているようです。その状況は引き続き偵察船に監視させております」
イセリアが報告する。監視任務は彼女の統括らしかった。
「ならば、それも立派な成果だ。引き続き、呪海の王との戦いは君達に任せようと思う。そこで投げ出すのは、帝国を見捨てることだと思って欲しい」
「仰せのままに」
アルヴァは再び頭を下げて頷いた。ガゼットとイセリアも、また同じように頭を垂れるのだった。
「それで今後、呪海の王はどう動くと思う?」
「油断できる状況でないのも確かですが、しばらくは動かないと考えています。その後も、何らかの動きがあれば、逐一報告するように命じております」
エヴァートの問いに、ガゼットが答えた。
「入念に頼む。相手がどう出るか分からない以上、そこは監視に頼るしかないからな。船でも魔道具でも、監視の強化に必要なものがあれば何でも言ってくれ」
「陛下」
と、アルヴァが進言する。
「――進路上と予想される沿岸部の市民は、避難させるべきでしょう。無論、帝都についても、その準備はしておくべきです。最低でも、避難経路と避難先の決定は必須でしょう」
エヴァートも頷いて。
「そうだな。君達が時間を稼いでくれたお陰で、避難させる猶予ができたはずだ。帝都についても、呪海の王がネブラシア湾へ入る前に避難を完了させよう。大将軍、多少強引でも構わないから実施してくれ」
「承知しました」
ワムジーが恭しく頷いた。
「陛下、サラネドについてはどういたしますか? 呪海の王は、あちらに向かう可能性もあるかと存じますが」
ガゼットが他国の名を挙げる。
サラネドは帝国の南方に位置する共和国だ。帝国南東部のカプリカ島へ幾度となく手を出しており、関係はよいとはいえない。
ガゼットの本来の任地はカプリカ島であるため、そのことにも気づいたのだろう。
「ああ……そちらの問題もあったな。サラネドは友好国でも何でもない。正直、あちらを気にかける義理はないが、警告だけはしておこう。その上でどう動くかは先方次第だ」
従妹よりもずっと穏やかなエヴァートだが、敵性国家を気にかけるほどお人好しでもないらしい。
そこでエヴァートはうつむき、大きく溜息をついた。それから、また面を上げる。
「――さて、気は重いが、いつまでも避けてはいられないな。神鏡が砕けた今、呪海の王を倒す方法はあるだろうか。率直にそれを問いたい」
「……正直に言って、見通しは立ちません。星霊銀の力がなければ、邪教の魔物には致命傷を与えられない。それは過去の事例でも明らかでした」
アルヴァが苦々しい顔つきで見解を述べる。
「星霊銀か……。他に当てはないのか?」
「星霊銀の矢が手元にありますが、神鏡には遠く及ばないでしょう。事実、下界では有効打になりませんでした」
そもそも、星霊銀の矢では足らなかったため、神鏡が必要だったのだ。それすら決め手にならないという状況は深刻だった。
「それに呪海の王は殺害した人間を吸収し、それによって体を再生しているようです。生半可な力では滅ぼすことは叶いますまい」
ガゼットもやはり、苦虫を噛み潰したような表情で付け加える。
「そうか……。いかに戦うかはこれからの課題だな。今は避難を優先し、時間を稼ぐ他はないか……」
エヴァートの声には絶望の影があった。それでも、皇帝たる者は投げ出すわけにはいかないのだ。
アルヴァもガゼットもイセリアも、何も言葉を返せないでいる。じっとたたずんでいるワムジー大将軍も変わりなかった。
ならば、ソロンが切り出すのは今しかない。