好機を逃さず
艦隊が進むのは、内雲海と呼ばれる雲域である。
帝国本島やカプリカ島を含む五つの島に囲まれているため、そのように呼ばれていた。
古くより複数の国々が、豊かな内雲海の覇権を争ってきた。
やがて、ネブラシア帝国は戦いに勝ち抜き、南のサラネド共和国を除く全方角を支配するに至った。事実上、帝国が内雲海の覇権を握っているといってもいい。
ところが、その帝国の覇権を脅かす存在が現れた。人間でも亜人でもない。下界から現れた得体の知れない魔物である。
帝国艦隊は内雲海の平穏を取り戻すため、呪海の王がいるという東へ向かい続けた。
被害を受けたザーシュ市へは、昼夜を問わず進めば一日半で到達できる見込みだ。そして、帝国の竜玉船は灯台の光によって、昼夜を問わずに進むことができた。
呪海の王は、既にザーシュから先へ進んでいると考えられる。そのため、遭遇はそれよりも早くなる見込みだった。
果たして、呪海の王を発見したのは、翌日の朝だった。
偵察のため先行した船が、内雲海の東部を進行する呪海の王を発見したのだ。報告はさっそくガゼットの旗艦へと伝えられ、さらにはこのオデッセイ号にも伝わった。
「いよいよか……」
さしものグラットも緊張に息を呑む。
「あと一時間もすれば、こちらからも視認できるはずです。呪海の王の恐るべき射程を考えれば、残された時間はそう多くないでしょう」
数々の修羅場をくぐってきたアルヴァも、緊張を隠せない面持ちだった。
「来たな……」
最初に、メリューの視力が呪海の王をとらえた。
やがて、ソロンの持つ双眼鏡でも呪海の王の姿を視認できるようになった。
相変わらず現実感のないほどに巨大な姿だ。
下界で見た時は天を衝くような巨体だったが、今見えているのは頭上だけだ。それでも、山のように大きいのは異常というしかない。
どことなくワニが頭だけを出して泳ぐ姿に似ており、雲面下には赤く巨大な胴体の影が覗いていた。
どうやって雲海を泳いでいるのかは分からないが、その動きはなめらかだ。少なくとも、雲面下で手足を忙しく動かしているわけではないらしい。
ソロン達の乗るオデッセイ号は、少数の護衛船と共に呪海の王の北側へと向かっていく。敵の注意を引かないよう、大回りに動く必要があった。
敵の射程を考えると、真っ向から敵の接近を待つわけにはいかない。神鏡の光を照射する前に、こちらがやられてしまっては作戦は終わりだ。できる限り、安全な位置から照射せねばならなかった
その間、ガゼット率いる他の艦隊は正面方向に陣取る。ただし、密集を避けるため、船の位置は分散させていた。イセリアも位置は分からないが、離れた場所で指揮を執っているはずだ。
破壊の閃光の射程外から攻撃できるような技術は、帝国には存在しない。いや、そんな技術は上界と下界――世界のどこにも存在していないはずだ。
従って、被害を軽減するには船を分散させるしかない。不完全ながら、それが結論だった。
呪海の王の側面を、船は離れて通過していく。そうしながらも、ソロンはまた双眼鏡を構えた。
虚ろで巨大な目が、正面の艦隊をとらえた。かすかにその目が広がり、反応を示していた。
それだけでも、艦隊の兵士達にとっては多大な恐怖のはず。それでも艦隊は止まらず、呪海の王に向かって進み続ける。もはや、退却を判断できる時期も過ぎ去った以上、進み続けるしかなかったのだ。
「行きます!」
その時、アルヴァが叫んだ。
敵の注意が、十分に正面の艦隊へ集まったと判断したのだろう。
彼女は両手で神鏡を抱えた。鏡は重く大きく、女が一人で持つには少し厳しい。ソロンはアルヴァの背中を支えて、それを助ける。
ミスティンとメリューも手は出さないが、そばへ寄ってくる。いつでも助けられるように構えてくれているのだ。グラットは操船のため、船の中央に構えていた。
アルヴァは両足でしっかりと甲板に立ち、鏡面で呪海の王の側面をとらえた。彼女の両手から、神鏡へと魔力が流し込まれていく。
まばゆい光があふれ出て、周囲を照らし出した。もっとも、これは前段階に過ぎない。
「おぉ……!」
力強い光に乗員達からも歓声が漏れる。
かつて見たときよりも強い光だ。ミスティンの星霊銀の矢や、レムズの聖剣よりも込められた魔力は強力だ。
彼女もこの一年で成長したため、その魔力も強化されている。これならば――と、ソロンも成功を確信する。
強い魔力が空気を振動させ、アルヴァの黒髪やスカートをはためかせる。
しかし、まだ光は放出しない。魔力を溜めて溜めて……一気に放出するのだ。
そして、堰を切ったように光の奔流が放たれた。
洪水のような光が雲海の上を越えて、呪海の王へと流れ込んでいく。
呪海の王はこちらの光に気づいたらしい。かすかに首を横へ向けようとした。けれど巨体が災いして、すぐに方向転換できないようだった。
光が呪海の王に直撃し、その顔面を飲み込んでいく。あまりにも光がまぶしいため、例によって確認はできない。
神鏡の光が収まったのを確認して、アルヴァが腕を降ろした。疲れた様子のアルヴァから、ソロンが神鏡を受け取る。
「うしっ、撤退だ!」
それを見たグラットも、素早く離脱を決断する。
オデッセイ号は颯爽と舳先を転じた。
神鏡の光を放てば、この船が目をつけられる可能性は高い。そのため、照射後はすぐに離脱する段取りだったのだ。
雲海の底から響くような鈍い音が聞こえてくる。
それが呪海の王が上げる苦悶の叫びだとソロンは気づいた。
呪海の王は首をゆっくりと曲げて、虚ろな瞳をこちらに向けてくる。少なくとも、こちらが光を照射したことは認識しているらしい。
身の毛がよだつ思いがするが、つまりは効果があった証でもあった。
「あれ、怒ってんのか……? とにかく逃げるぜ!」
グラットは恐怖に怯えながらも、必死で船の指揮を執る。
光を浴びて苦しんでいるのか、呪海の王の動きは鈍かった。その隙を突いて、竜玉船は呪海の王から離れていく。
「攻撃、始まるよ!」
ミスティンが叫び、オデッセイ号の後方を指差す。
ソロンもアルヴァと共に、遠ざかる呪海の王の方角へ目をやった。
今まさに、ガゼット率いる艦隊が動き出すところだった。
その主力となるのは、竜玉船に乗った魔道兵の数々だ。
猛烈な炎の嵐を、呪海の王へとお見舞いしていく。敵はオデッセイ号に気を引かれていたため、背後から攻撃を喰らう形になった。
続いて、軍船に積まれた弩弓から、勢いよく矢が飛び出す。
突き刺さった矢が爆発を起こし、呪海の王の体に衝撃を与えていく。
どうやら、あれは帝国軍の誇る新兵器のようだ。炎の魔石を内包した矢を、機械式の弩弓で撃ち出し、破壊力を高めているらしい。
もっとも、高価な魔石をまるごと使う以上、かかる費用の大きさも想像に難くないが……。
呪海の王もこれは無視できなかったようだ。こちらへ向けていた顔を、背後へとゆっくりと転じていく。
自然、こちらからはまた呪海の王の側面を見るような形になった。
そして、呪海の王が大顎を大きく開いた。それは恐るべし攻撃の兆候だった。
「来るか!?」
メリューが迫真の声を上げた。
途端、赤黒い閃光が放たれた。暴走する光が雲海の上を走り、艦隊を飲み込んでいく。
反対方向にいるこちらまで、衝撃波が伝わってくる。
「くそっ、親父……!」
グラットが言葉を失う。それでも、彼は船長としての集中を切らさなかった。
*
光が収まり、戦場の様子が鮮明となる。
バラバラに散らばった艦隊の姿が見えた。
風を動力とする帆船と比較して、竜玉機関を持つ竜玉船の動きは機敏だ。迅速な方向転換によって、予想以上に多くの船が回避できたらしい。
その中には無事な旗艦の姿も見えた。さらには、イセリアの乗る船もどうやら無事なようだった。
「親父……」
グラットが深く溜息をついた。
「ですが、相当な数の船が犠牲になったようですね……」
アルヴァが沈痛な表情でつぶやいた。
雲海の上には赤黒い瘴気がただよっていた。それが犠牲になった兵士達の痕跡なのは間違いなかった。
「仕方あるまい。今すべきは好機を逃さぬことだ」
「分かっています」
メリューの言葉にアルヴァは頷いた。
晴れた光の向こうで、呪海の王は動きを止めていた。
大きく口を開き、何かを待つように硬直している。
何を待っているかはすぐに分かった。
雲海の上に漂う赤黒い瘴気が、その大口へと吸い込まれていったのだ。
「攻撃をゆるめるわけにはいきません! 犠牲は大きくとも、ここで攻めなければ戦いは終わりません! ソロン、合図を!」
正直なところ、犠牲は覚悟の上だった。だからこそ、船の位置を分散するという策を取ったのだ。アルヴァやガゼットといった首脳部は犠牲になっていない。
ならば、作戦を止めるわけにはいかなかった。
「了解だ!」
ソロンは刀を空に向け、青い火球を放った。
上空で蒼炎が弾けて散乱する。
真上に魔法を放つ時は攻めの合図だと、最初から取り決めていたのだ。アルヴァの雷でもよいが、今は彼女も疲弊している。
すぐにガゼットがいる旗艦からも、光の柱が立ち昇る。彼の持つ閃光の槍で、了承を意味する合図を返したのだ。
動きを止めた呪海の王へと、全艦隊が再びの突撃を開始する。散った仲間達の借りを返そうと、総力を上げるつもりのようだ。
もっとも、艦隊はただまっすぐに呪海の王を目指すわけではない。
ガゼット将軍の指揮の元、散らばっていた艦隊は左右に移動し、縦列へと陣形を整えていく。
旗艦を先頭に、呪海の王の西側へと向かう構えを見せた。
「見事な動き、さすがはガゼット将軍です。グラット、私達はあちらへ向かいます。間に合いますか?」
アルヴァは向かって右――つまりは呪海の王の東側を指差した。
当たり前だが船は急に止まれない。帆船と比較すれば機敏な竜玉船だが、それでも慣性に従って動くのは変わらなかった。
だからこそ、各船が無秩序に動いてはならない。たやすく衝突事故を引き起こしたり、同士討ちとなってしまうのだ。
その点、分散していた陣形を、またたく間に統一したガゼットの手腕は見事だった。
今ならばガゼットの反対側へ向かえば、同士討ちを避けられる。ただし、ノロノロとしていては、艦隊の攻撃に巻き込まれてしまう。
「やるっきゃねえな! 右から回り込むぜ!」
グラットが覚悟を決めれば、竜玉船も舳先を右に向けて旋回した。一度は離れた呪海の王へと、船が接近していく。