混沌の兆し
逃げ惑う人々の流れに逆らいながら、アルヴァは馬と共に疾駆する。
やがて巨獣の集団が目に入った。
巨獣は建物を、その長い腕で辺り構わず破壊していた。逃げ遅れた人間を見つけては、捕まえて喰らっていく。
崩れた瓦礫を拾っては投げつけ、被害はさらに拡大する。まるで子供の積み木遊びのように節操がない。
それらの行為が何を目的としているのかは分からない。ただ破壊衝動のままに暴れているのだろうか。
家族とはぐれたのか、泣き叫ぶ子供がいる。
その声に気を引かれたのか、巨獣の一体が子供のほうを向いた。
「あのままでは……!」
アルヴァの気は迷ったが、すぐに勇敢な兵士が子供に駆け寄った。子供を抱えるや、たちまち安全な場所まで走り去っていった。
帝国軍も、されるがままになっているわけではない。
兵士達は集団で囲むように巨獣へと殺到した。
四方から槍で突き刺された巨獣が、血を吹き出してもがき苦しむ。連携の取れた集団戦術は帝国兵の得意とするところだ。
しかし、巨獣も死に物狂いで腕を振り回し、一度に何人もの兵が弾き飛ばされた。
「私がやるしか……!」
アルヴァが選んだ手段は、やはり女王の杖に頼る方法だった。
今の彼女は強大な力を持っている。帝都を守るために、これを使わぬ理由はない。
ただし、強大な魔法であるだけに、兵を巻き込まぬよう注意をせねばならない。
「魔法を放ちます! 前に出ている兵は下がりなさい!」
アルヴァは馬上から号令した。そして、魔法の狙いを定めるために馬から飛び降りる。
もっとも、この乱戦状態では味方と敵の場所を切り離すことは難しい。まずは兵から離れた場所にいる巨獣を狙う。
女王の杖に思い切り魔力を込めて魔法を放った。
赤黒い霧が解き放たれて、形持つ影へと姿を変えていく。コウモリのような翼に、四本の腕、山羊のような角……。
赤黒い影の輪郭は、以前にも増して明確で巨大になっていた。そしてその色は、闇夜の中でも不気味に浮かび上がっている。
アルヴァはその変化を気にすることもなく杖を振り下ろした。
「喰らいなさい!」
影が飛び出すや、夜闇の街に赤黒い軌跡が描かれる。
途端、緑の巨体に大きな風穴が開いた。
ズシンという振動を鳴らしながら、巨体が倒れ伏す。
影はそれに留まらず、倒れた巨体へとまとわりついた。何をするかと思いきや、緑の体をむさぼり始めたのだ。
魔物の巨体が溶けるように消えてなくなっていく。ついには死骸すら残さなかった。
「…………?」
その様子に、アルヴァはわずかながら不審を感じた。
うまく説明できないが、今までとは影の雰囲気が違ったのだ。
影の力が強化されているのか、あるいはあの緑の魔物が特別に美味とでもいうのか……。
ともあれ、影の力が有効なのは間違いなかった。
影は次々と巨獣に襲いかかり、喰らっていく。その勢いは壮絶で、死骸一つも残す気配がなかった。
いかに強力な巨獣であろうと、あの影の前にはやはり無力なのだ。
兵士が束になっても苦戦する相手だが、それを一瞬で始末していく。
その有様を見た兵士達は、アルヴァの魔法に驚くと共に光明を見出す。巨獣から距離をとって、彼女が魔法で攻撃しやすいように支援してくれた。
二十体、三十体……。次から次へと影が巨獣を始末していく。
巨獣が消えるに従って、影が肥大化しているように思えたが、アルヴァは気にも留めなかった。
今はともかく、目の前の敵を始末する時なのだ。
残る魔物の数は十数体。
あと一息だ――と思った時。
「陛下、城の方角から魔物が現れました!」
馬を駆ってきた伝令兵が、驚くべき報告をもたらした。
「どういう意味ですか!?」
奇妙な報告にアルヴァは怒鳴り返した。
今、目の前にいる魔物は北門を抜けてきたからこそ、ここにいるのだ。
しかし、伝令の報告は不自然だった。
まるで帝都の外壁を無視して、ネブラシア城のそばに魔物が忽然と現れたかのようではないか。
「そのままの意味です! 魔物は城の近辺から突如現れました!」
「なっ……。私は城に戻ります! ここは任せましたよ」
絶句するアルヴァだったが、すぐに気を取り直す。
残った魔物は兵士達に任せることにした。これぐらいの数ならば、どうにかなるだろうと判断したのだ。
そして、アルヴァは再び馬に飛び乗った。
多くの魔物を倒したため、既にアルヴァの精神と体力は疲弊している。崩れ落ちそうな体を意志で支えながら、アルヴァは手綱をしごいた。
城の北に架けられた橋を渡って、水堀の内側へと戻っていく。
深夜にも関わらず騒然とする貴族街を、アルヴァは駆け抜けた。貴族達もどこへ避難すればよいのか、困惑しているようだった。
やがて、城門前に集まる兵士達の姿が見えてきた。固く閉ざされた城門を、兵士達は決死の覚悟で守っていた。
それに対峙するのは緑の巨獣。魔物は相当な数がいるようで、五十を超えているかもしれない。
アルヴァは、城門前の橋が破壊されていることに気づいた。防衛のために、苦肉の策で兵士達が破壊したのだろう。
もっとも、その程度で止まる巨獣ではない。
水堀の外側で巨獣が暴れ回り、街を破壊していく。向こう岸に残った兵士達が、それを必死で喰い止めようとしていた。
さらには橋を破壊した甲斐もなく、水堀を渡ってくる巨獣がいた。
その上半身が水堀の上に大きく覗いている。見た目はカバに似ているが、泳いでいるわけではなさそうだ。
水堀は大人の男を飲み込む程の深さがある。ところが、人の数倍の背丈を持つ巨獣にとってはさして妨げにはならなかったのだ。
もちろん、帝国軍も水堀を渡ってくる魔物達を必死で迎撃していた。
巨獣の上半身へと大量の矢が突き刺さる。
放たれた魔法の火球が巨獣に衝突し、水柱を巻き上げる。
けれど巨獣は、痛みを感じていないかのように進んでくる。
「命を賭しても城に近づけるな!」
そんな中で、兵士を叱咤しているのはラザリック将軍だった。
実戦経験の乏しい彼にとっては、あまりにも荷の重い事態。そもそも彼が若くして将軍に抜擢されたのは、実家である公爵家の後押しがあったからに過ぎない。
それでも、誇り高いラザリックは必死の形相で指揮を執っていた。
だがそこに、水堀をかき分けて緑の巨獣が接近してくる。一体の魔物が、ついにこちらの岸へと手をかけた。
「ひ、ひるむな!」
ラザリックは狼狽しながらも、勇敢に剣を構えた。透き通った青色の刃が、光を放ち出す。
氷の魔剣――将軍職に着いた者へと下賜される魔剣の一つである。
岸を登ろうとする巨獣へと、ラザリックは魔剣を振り下ろした。
凍てつく冷気が刃から放たれ、魔物へとまとわりつく。水堀を渡って濡れていた体表が急速に凍結されていく。
体温を失った巨獣は、その動きを鈍らせた。
「今だやれっ!」
ラザリックの合図に呼応して、兵士達が一斉に突撃する。さしもの巨獣も、頭上から槍で滅多刺しにされては無事でいられなかった。
魔物は断末魔を上げ、再び水堀に落ちていった。
「ど、どうだ! この程度で私は倒せんぞ!」
彼にしては珍しい実戦での勝利に、ラザリックが高らかに勝鬨を上げた。
だが、緑の巨獣は続々と水堀を渡ってくる。
ラザリックは再び魔剣を振って、一体を凍結させる。すかさず兵士達が殺到し、とどめを刺す。
ところが、同時に渡ってきたもう一体までは対応できない。
「ぐっ……このままでは!」
ラザリックは顔を歪ませ、歯噛みした。
その時、近寄ってきた巨獣を稲妻が貫いた。衝撃に吹き飛んだ巨獣は、水堀の中へと落ちていった。
「ラザリック将軍、この魔物はどこから現れたのですか?」
馬上のアルヴァが、ラザリックへと呼びかけた。その手には雷の魔石をつけた杖が光っている。
紫電の魔法で巨獣を撃ったのは、アルヴァだったのだ。同士討ちを避けるため、今はまだ女王の杖は腰に差している。
「陛下! 私にも何がなんだか……。少なくとも門を通ってきたわけではないでしょう」
やはり、ラザリックも事態を把握していないようだった。
これ以上、問い詰める意味はない。アルヴァは話題を変えることにした。
「城内にいた者達の避難はどうなっていますか?」
「はっ! 今は大将軍が城内の安全な場所へと誘導しております」
つまり、城外に脱出させる暇はなかったらしい。
これ以上敵が進んでくれば、城内のどこにいようと安全とは言い切れなくなるだろう。
「ご苦労さまでした。後は私に任せてください」
「はっ?」
ラザリックは意味が分からないようで、きょとんとしていた。
それを無視して、アルヴァは馬を飛び降りた。
水堀の縁へと近づき、雷の杖を腰へと差し戻す。その代わりに女王の杖を抜き放った。
「それが例の杖なのですか……?」
北方の戦いについては、ラザリックも聞き及んでいる。とはいえ、彼は実際に見たわけではなかった。
「ええ、ご覧なさい」
杖先の魔石から赤黒い霧が再び湧き上がる。
霧は前回にも増して、明瞭な像を形作っていく。
やがては赤黒い影となって、宙空に姿を固定した。
「ぐ、はぁ……」
息を荒くして、アルヴァは表情を歪めた。
本日二度目の魔法に心身が痛んでいる。しかし、負担は大きくとも、躊躇している余裕はないのだ。
「お行きなさい……!」
緑の巨獣へ向けて、杖を振り下ろした。
水堀を渡ろうとしていた巨獣へと、赤黒い影が襲いかかる。
兵士達があれほど苦労していた相手が、またたく間に水堀の中へと沈んでいく。
いや、正確には沈みすらしなかった。
影は全てを喰らって、巨獣の痕跡を残しもしなかったのだから。
「なんという……」
ラザリックはその絶大な威力に言葉もないようだった。兵士達も圧倒された表情で、成り行きをじっと見守っている。
やがて、水堀にいた魔物は全てが掃討された。
次なる狙いは水堀の向こうである。そこにもまだ暴れ回る巨獣が残っていた。
その時には、向こう岸で戦っていた兵士達も退避を完了させていたのだ。
残る魔物は数十体……。
だが、さすがのアルヴァにも疲れが表れた。
「あと少しで……」
アルヴァの体に悪寒が走る。額から滝のような汗が流れ出てくる。もはや体の異常は明らかだった。
放たれた影が巨獣を喰らうたびに、精神が摩耗していく感覚がある。
それでも杖を振るって、朦朧とする意識を保ち続ける。
ここで自分がやらねば、誰が帝都を守るのか。力を振り絞り、残りの巨獣へ向けて杖を向ける。
やがて、巨獣も残りわずかとなったその時――
信じられないことが起こった。
女王の杖の先にある黒い魔石――そこから膨大な赤黒い霧が湧き出したのだ。
想定外の反動に、アルヴァは尻もちをついた。すんでのところで右手の杖は落とさなかった。