昇竜の門
アルヴァ達は帝国軍の一部を連れて、北へと引き返した。アルヴァ、ミスティン、グラットらとはここでお別れである。
一方、呪海の王の動向を探るために残ったのは、ソロン、メリューにサンドロス、ナイゼルらのイドリス軍。そして、レムズ率いるラグナイ軍だ。
さらにはガゼット、イセリアの帝国将軍も引き続き下界に留まってくれた。アルヴァが戻るまで、彼らも呪海の王の監視を続けるようだった。
さて、問題はその呪海の王である。
異形の怪物は引き続き、王都ラグループに横たわっていた。
三国軍は半ば廃墟と化した王都に陣取って、その監視を続けることになった。
*
王都に奇妙な静寂が訪れていた。
日中、あれだけの暴虐を尽くした敵がその場にいる。だというのに、お互い何も手出しをしないのだ。
離れた宿の屋上から、ソロンは呪海の王を眺めていた。
夜の闇の中で、呪海の王の体はぼんやりと赤く光っている。見逃しようがないのはありがたいが、それにしても血を思わせるような不気味な色だった。
「動かんな」
隣で監視をしていたメリューが、嫌気が差したようにつぶやく。
実際、呪海の王が眠りに入ってから何時間か経ったが、一切の身動きはなかった。
「ずっとこのままでいてくれたら、楽なんだけどね。ただ待つだけっていうのも、辛いものがあるな」
かといって、油断できるような相手でもないのだ。動き出せば、前進するだけで建物も生物も飲み込んでしまう。あるいはまた、あの破壊の閃光を放つかもしれなかった。
「坊っちゃん、メリューさん。そろそろ交替いたしますので、お休みになってはいかがですか?」
屋上に現れたナイゼルが声をかけてきた。
「それもそうなんだけど、どうしても気になってさ」
「人手はたくさんありますので、坊っちゃんご自身が見張らずとも心配いりませんよ」
現在、王都には三国軍の多くが駐留している。レムズらラグナイ軍、ガゼットら帝国軍も各方角から監視しているはずだった。
「そうだね、休ませてもらおうかな」
ソロンはメリューの腕を引き、寝室へと引き返すことにした。ソロンにしても気にはなるが、メリューを付き合わせては申し訳ない。
メリューはやはり呪海の王に気を引かれていたが、しぶしぶ従うのだった。
*
呪海の王が動き出したのは翌朝だった。
身悶えするような動きが観測されるや、監視の魔道士が魔法の花火を打ち上げたのだ。
その音と光を見て取るなり、待機していた三国軍も慌ただしく動き出す。
ソロン達も跳ねるように起きれば、とある建物へと走った。すぐに動けるよう、全員が軍装・旅装のまま就寝していたのだ。
そこは政府高官の屋敷であり、王城とは違って例の閃光から逃れていた。家主の高官は既に避難してしまったものの、レムズはそこに仮の拠点を定めていたのだ。
「ソロニウスか。速いな」
屋敷の屋上へと駆け上がれば、既にレムズもそこで待っていた。
サンドロス、メリュー、ナイゼルも少し遅れて駆け上がってくる。ガゼットやイセリアもこちらへ向かっているはずだった。
「呪海の王はどうなった?」
ソロンが真っ先に確認すれば、レムズは目線だけでうながしてくる。基本的に男との会話は最小限に留める主義らしい。
レムズのそばへと駆け寄れば、他の皆も集まってくる。
ソロンは呪海の王が横たわっていた南東へと視線を向けた。
それは今まさに、呪海の王が起き上がるところだった。
その場にいた全員に緊張が走る。こちらを狙ってくるようなら、死に物狂いで逃げねばならないのだ。
呪海の王はこちらに背中を向けて、ゆったりと巨体を起こしていく。そしてまた、ゆっくりと這うように動き出した。
「南か……。予想が外れたな」
サンドロスは意外そうに声を上げた。兄の予想していた進路はラグナイ第二都市のホロージャ。あちらは西南西だ。
「あの方角に町は?」
ナイゼルがレムズへと問いかける。
「最も大きいのはアングーだが、人口は一万人を少し越える程度だ。基本的には人里から離れる方角だな。被害を抑えやすいのはありがたいが……」
レムズが地図を広げて指し示してくれた。
アングーという町が、王都から徒歩で四日程度のところに存在している。途中に町や村もあるようだが、それも多くて人口数千人といったところのようだ。
「こちらとしても、イドリスに向かわないなら歓迎なのですが……」
ナイゼルがつぶやけば、サンドロスも顔を見合わせ考え込む。
「しかし、気になるな」
「ええ、人が多い場所を狙うという仮説は誤りだったのでしょうか……。それなりに確信があったんですけどねえ」
「う~ん、僕もそこは間違いじゃないと思ったんだけど……。何か見落としがあるのかな?」
ソロンも二人と並んで悩み込んだ。
呪海の王は迷いなく、この王都を目指していたように見えた。その動きはやはり、ナイゼルの仮説が正しいとしか思えなかったのだが……。
そうこうしているうちにも、呪海の王は進撃を続けていた。王都の南を阻むはずの防壁は、障害にもならず飲み込まれていった。
早く追いかけたいし、焦る気持ちはある。けれど、その前に考えをまとめておきたかった。
「レムズ王子、この昇竜の門とはなんだ?」
一歩引いていたメリューが、地図を指差した。差された先は、アングーの町よりもさらに南にある印だった。
街道が途切れた先らしく、人里がある地域にはとても見えない。だからこそ、ソロンはそこまで呪海の王が進むとは考えなかったのだが……。
「お目が高いですな、メリュー殿。そこは地に空いた穴から常時、巨大な竜巻が立ち昇る場所です。竜が上界へ昇るための通り道といわれ、わが国では信仰の対象にもなっていました。もちろん、邪教徒ども以前からある正しき信仰の話ですが」
相手が女性なので、レムズは丁寧に答えた。
「上昇気流を生み出す地形というわけですか。ラグナイには随分と奇妙なものがあるのですね」
ナイゼルが何気なくつぶやく。
いや、しかし……ソロンは知っている。視点は違うが、初めて耳にする話ではない。
「それはもしや――」
メリューの尖った耳がピンと動いた。
「雲の柱だな」
それを口にしたのはガゼット将軍だった。いつの間にか屋上へ到達していたらしい。隣にはイセリア将軍も伴っていた。
「そうそれですよ! カプリカ島の東にもあるって、グラットも言ってました!」
上界のドーマ連邦で目にした巨大な竜巻……。雲海を巻き込んだそれは、巨大な雲の柱だった。だが、下界から眺めた場合は雲を含まないため、単なる竜巻として見えるのだろう。
そして、昇竜の門はここから遥か南にある。その西には広大な黒雲があり、その正体は上界のカプリカ島だった。
下界から立ち昇る昇竜の門は白雲を貫き、上界にて雲の柱となる。
『俺もガキの頃、親父に連れられて見たことあるぜ』
と、グラットが述べていた雲の柱だ。
「俺達が知らないことを知ってるようだな。しかし、それが何か関係あるのか?」
サンドロスは興奮するソロンに問いかけた。
「いや、関係あるかどうかは――」
そこまで言ったところで、ソロンの脳裏に閃くものがあった。
人の多い町……。それも呪海の王が向かう方角から、たどり着ける場所だ。突拍子のない思いつきである。しかし、それならば不可解な進路にも説明がつく。
「――まさか……上界へ向かうつもりじゃ!?」
「どういう意味だ、ソロン殿?」
イセリアは怪訝な声を上げた。到着したばかりで、会話内容を飲み込めていないらしい。
「このまま行くと、呪海の王は昇竜の門――つまり雲の柱に到達します。その気流に乗って、上界へ昇るんだと思います」
「そんなことが、ありえるのか……?」
イセリアは信じられないとばかりに訝しむ。しかし、その顔色は蒼白だ。
ソロンは頷いて。
「可能性は否定できません。あの体なら気流を使って、上界を目指せるかもしれない」
雲の柱を構成する気流は激しく、生身の生物では生命を保てるはずはない。しかしながら、あの呪海の王はそんな常識からも逸脱しているように思えた。
「……無視できんな。イセリア将軍、俺は帝国に戻るべきだと考えるが。君はどう思う?」
ガゼットに問われて、イセリアは考え込むが。
「可能なら見届けたいところだったのですが、猶予はないようですね。分かりました、私も賛同します」
仮に昇竜の門まで呪海の王を追跡すれば、界門から大きく離れてしまう。ソロンの推測が当たれば、帝国軍がそこから急いで引き返しても決戦には間に合わない。イセリアはその点を考慮したのだろう。
「それじゃあ、僕も同行していいですか? どうせ北の界門を開かないといけませんし」
ソロンはすかさず手を挙げた。主戦場が上界へ移るなら、ソロンがこちらにいる理由はない。一刻も早く、アルヴァ達と合流すべきだろう。
「無論、私もだ」
と、メリューも進み出る。
「ああ、こちらしても頼みたいくらいだ」
ガゼットも快く承諾してくれる。
サンドロスがソロンへと近づいて。
「俺達はもうしばらく呪海の王を追ってみよう。ヤツが本当に雲の柱へ向かうのか、見届ける必要もあるだろうしな。お前とはここでお別れだな、持っていけ」
そう言いながらソロンに黒いカギを手渡した。もちろん、界門を起動するための予備のカギである。
「坊っちゃん、寂しくなりますね」
ナイゼルは寂しげな顔をソロンに向けてきた。もちろん彼も、サンドロスと共に下界へ残るようだった。
「万が一の場合、イドリスのことは頼んだよ」
「まあ、そっちの心配はしていませんよ。私も坊っちゃんの推測は、妥当だと見ていますので」
「なんだったら、お前もソロンと一緒に向かうか?」
サンドロスが気を使うが、ナイゼルは否定した。
「いえ、他に力になれる手段がないか、模索してみようかと考えています。もっとも、間に合うかどうかは分かりませんがね」
「それでも頼りにしてるよ、ナイゼル。悪いけど、そっちは任せたよ」
この戦いはあらゆる手を尽くさねばならない。そういう点ではナイゼルのような存在は頼もしかった。
それから、ソロンはレムズへと視線を向けた。
彼はこちらのやり取りをじっと聞いていたが。
「南にも少ないながら町がある。俺はそれらの避難を取り計らうつもりだ。紅玉の姫君の助けになれぬのは無念だが、その役目は断腸の思いで貴様にくれてやる。ソロニウス、死んでも姫君を守ってみせろ」
ひょっとしたらと思ったが、レムズはさすがにアルヴァを追わないらしい。事実上のラグナイ国王となった身として、その責務を果たすようだった。
「言われなくても守るさ。健闘を祈るよ」
ソロンはレムズに向かって手を差し出した。
レムズは露骨に顔をしかめながらも、軽く手を握ってくれたのだった。
そうして、レムズ率いる騎士達は早々に王都を出発した。町人の避難を行うため、呪海の王を追い越す必要があったためだ。
サンドロス率いるイドリス軍は、後方から呪海の王を追跡する。
ソロンとメリューは、帝国軍と共に北の界門を目指して出発した。
かくして、一行はそれぞれの目的へ向かって、バラバラに動き出したのだった。