呪海の王
メリューが指差すほうへとソロンは視線をやった。
膨大な赤黒い瘴気が、呪海の彼方から浮かび上がっていた。まさしく、大神殿があった辺りだろうか。
呪海の瘴気が次第に集まっていく。まるで意思を持つ生き物の群れのようだ。
やがて、それは赤黒く巨大な輪郭を、呪海の上に形作った。輪郭は次第に鮮明となり、何らかの巨大な魔物へと変化していく。あらゆる生命を拒絶するはずのその場所にだ。
「あれが、ザウラストの切り札か……。呪海の王などと言っていたな」
メリューが険しい顔で凝視する。
ソロンもアルヴァも、皆その異形から目を離せない。
印象としては手足のないワニだろうか。
頭部と胴体の境界は判然としない。蛇が鎌首をもたげるように、胴と一体化した頭部を高く持ち上げている。手足が見えないのは呪海に隠れているためか、はたまた元から存在しないのか。
頭部には暗いくぼみが二つ存在するが、位置からして瞳の代わりだろうか。ただ虚ろに虚空をにらんでいた。
山のように巨大な輪郭は、おぼろげに揺らめいている。液体と固体の中間といった印象だ。まさに呪海がそのまま凝固したかの如く。その周囲には赤黒い瘴気が漂っていた。
山のようにというのは比喩ではない。本当に山のように巨大だったのだ。帝都にあるどんな建物も、あの巨体には遠く及ばない。ネブラシア城の頂上すらも、あれよりは遥かに劣るのだ。
常識では、自重に耐えきれず潰れてしまう大きさである。それをなぜだか、あの怪物は保っていた。
そして、呪海の王は動き出した。
呪海をかき分けながら。体を引きずるようにして南の岸へ向かってくる。
遠くまでも空気が泣くような音が響いた。
動きは鈍重であるが、巨体ゆえにその速度は侮れない。
「こっちに来るぞ!」
兵士達がとまどい叫ぶ。
「に、逃げろっ!」
我先にとリーゲル軍の生き残りが逃げ出した。彼らはレムズ達によって制圧された身だったが、今は逃走をとがめる者もいない。
呪海の王の姿には、レムズすらも呆然としていたのだ。騎士達と共に、身動きを取れないでいる。
「あやつ、我らの元へ向かっているのか……?」
メリューがつぶやいたが、ソロンは否定的だった。
「いや、狙いが僕らなら向きがズレてるよ。それより、もっと遠くを見据えているような……。このまま南へ進んだら――」
「まさか、ラグルーブか!」
ハッとした様子でレムズが叫んだ。このまま南へ進んだ先には、ラグナイの王都ラグルーブがあった。
「ガゼット将軍、イセリア将軍! 弓兵と魔道兵の半分を連れて、西側へ移動を!」
そんな中、アルヴァが決断を下した。
「陛下はどうなさるのですか?」
イセリアがとまどいがちに、アルヴァの意向を伺う。
「私も残り半分を連れて、東へ向かいます。敵を一方へ誘導し、もう一方で背後から攻撃をしかけましょう」
全軍が合流した結果、この場には万に迫る兵力があった。それをもって、アルヴァは戦いを挑むつもりなのだ。
「了解しました。あのように巨大な敵は初めてですが、一つ挑んでみせましょう」
歴戦の将軍たるガゼットは、さすがに肝が据わっていた。こんな状況であっても、冷静に受け答えする。
「お願いします。ただし、近接攻撃は厳禁です。魔法や弓を持たぬ者は、遠方へ退避を」
「承知しました」
と、イセリアも頷く。
「じゃあ、僕達もアルヴァと同じ側だね」
「付き合うぜ。つっても、俺の武器じゃあ攻撃できねえけどな」
ソロンもグラットも仲間達も、当然のようにアルヴァへ続く。
「私も戦いましょう。あれはザウラストの置き土産……。紅玉の姫君だけに任せてはおけません。私もあなたのおそばへ」
レムズと騎士達も意気を取り戻したらしく、呪海の王へ立ち向かう。
「ありがとうございます。ただ、レムズ殿下は西側をお願いできますか? あなたの持つ星霊銀の剣が必要なのです」
アルヴァがやんわりとレムズを誘導する。ただし、今回は相手を避けたというよりも戦術上の都合らしい。
「はっ、仰せのままに」
レムズもすんなりと頷いた。
「ならば俺達は東側だな」
大刀を片手にサンドロスが助勢を誓う。それから、視線をナイゼルへ向けて。
「――ナイゼル、鏡はあるか? ……というかやれるか?」
「ここに。……体は見ての通りですが、精神は健在なのでご心配なく」
ナイゼルは息を切らしながらも立ち上がり、鞄から小さな鏡を取り出した。
かつて、王都イドリスに現れた神獣の瘴気を払った神鏡だ。元をたどれば、帝都にあった神鏡の破片――それに鏡縁をはめたものだった。
「ええ、お願いします。恐らく、呪海の王は東西のどちらかに意識を向けるはずです。狙いを向けられた側はすぐに撤退を。背後を取った側が攻撃をします」
アルヴァは早口で指示をし、さらには念入りに注意をうながす。
「――得体の知れぬ相手です。くれぐれも無理をなさらぬよう。逃げるのを恥じる必要はありません。敵を見極める前に戦力を失うほうが、結局は痛手なのですから」
「引き際は心得ていますとも」
「陛下こそ、お気をつけて」
ガゼットが頷き、イセリアがアルヴァを気遣った。
*
全軍を分割し、東西へ離れて位置取る。
ソロンもアルヴァと同じ東側で、呪海の王の接近を待っていた。背後には数千にも迫る弓兵と、魔道兵からなる大軍が控えている。心強くはあるが、それでもどれだけの意味をなすかは不透明だ。
固唾を飲んで、迫る怪物を見守り続ける。
敵は一体どのような攻撃をしかけてくるのか。もしかすると、既に敵の射程圏に入っているのではないか。様々な疑念が湧いてくる。ただ待ち続けることが、これだけ恐ろしいと感じたのは初めてだった。
その間、呪海の王はまっすぐに南へと向かっていた。
相手から見て両軍は、南西および南東に陣取ったことになる。アルヴァの予想では、そのどちらかに矛先を向けると思われていたが……。
「眼中にないということか?」
メリューは訝しがった。
予想に反して、呪海の王は向きを変えなかったのだ。ただ南へ直進し、上陸へと近づいていた。虚ろな瞳はこちらに興味を示さない。
「それならそれで好都合。両方から攻撃するまでです」
アルヴァは動じず指示を修正した。
「アルヴァ」
ミスティンはアルヴァへと矢を手渡す。
アルヴァは頷き、矢へ向かって魔力を込めていく。流れる魔力に呼応して、矢尻が白光を放ち出した。
矢はもちろん星霊銀である。呪海の力を色濃く受けた魔物には、その力が絶大な効力を発揮するのだ。
「ミスティン、あなたに託します」
輝く星霊銀の矢を、アルヴァは再びミスティンへと返す。
「任せて」
それを受けたミスティンは弓を構え、星霊銀の矢をそえた。彼女にしては珍しい緊張した面持ち。それでも、矢尻は正確に対象をとらえていた。
「ナイゼルさんも鏡に魔力を。ミスティンに続いてください」
「承知しました」
ナイゼルも小さな神鏡に魔力を込め始めた。鏡面が振動し、光をこぼれさせる。こちらも表情は真剣そのものだ。眼鏡を通して、じっと呪海の王を窺っていた。
迫る、迫る、赤黒い瘴気をまとった巨体が、呪海を進んで迫ってくる。
近づけば近づくほどに、その異様な大きさを実感させられる。生物にも建造物にもこんな巨大なものはない。やはり、山と表現するしかなかった。
呪海の王がついに陸地へと上体を乗せた。あまりにも巨大なため、断崖絶壁すらも軽い段差にしか見えない。
呪海の上に出た長い胴体があらわになってくる。不思議と地響きは起こらない。体の性質が液体に近いせいだろうか。
王がこちらの真横を通り過ぎ、背中が見え始めた。
「今です!」
アルヴァが指示するや、ミスティンは迷いなく星霊銀の矢を放つ。
輝く軌跡を描きながら、矢は一直線に魔物の横腹に突き刺さった。
刺さった矢がまばゆい光を放出し、呪海の瘴気を吹き飛ばす。
「行きますよ!」
それを確認するなり、次はナイゼルが魔力を解き放った。
神鏡から放たれた白光が、矢が開いた瘴気の穴へと注ぎ込まれる。光は穴を一層に広げていく。
けれど、全てを払うには至らない。巨体を包む瘴気の量が、あまりにも多すぎるのだ。
周囲の瘴気が、開いた穴を埋め合わせていく。たちまちにして、元通りの赤黒い瘴気が巨体を包み直してしまった。
「そんな……!?」
「えっ、なんで……!?」
「ウソでしょう……!?」
あまりの事態にアルヴァもミスティンもナイゼルも驚愕する。
「いや、まだレムズ王子がいる! 三人とも次は彼に合わせて!」
ソロンは西側にいるレムズへと期待を寄せる。彼の剣もまた星霊銀なのだ。
アルヴァはすぐさま星霊銀の矢を受け取り、魔力を込めていく。そうして、再びミスティンへと手渡した。
ナイゼルも光の失せた神鏡へと、再び魔力を込めていく。小さな神鏡はたちまち光を取り戻した。
通り過ぎる呪海の王は、無防備な背中をこちらへ見せてくる。
西側にいるレムズは輝く剣を、高々と両手で掲げていた。
やがて剣から伸びる光が、巨大な刀身を形作っていく。それはレムズの背丈の数十倍にまで達していた。
しかし、呪海の王はそのレムズを気にする素振りも見せない。
「うなれ聖剣! なめるなよ、バケモノめ!!」
咆哮を上げるや、レムズは光の剣を振り下ろす。光の先端が呪海の王の表面を斬り裂いた。
レムズは剣を突き出したまま、さらなる魔力を込めていく。剣からあふれ出す光が呪海の王へと衝突し、その巨体を押し包んでいく。
それに合わせて、ミスティンが星霊銀の矢を放つ。ナイゼルが神鏡から光を放出する。
東西から合わさる力が白光の洪水となり、赤黒い瘴気を押し流していく。
「今です! 全軍攻撃を!」
成果を確認する間もなく、アルヴァが号令した。どのみち他の手段は選べない。やるのは今しかなかった。
兵士達から猛烈な矢の雨と魔法が放たれた。あらん限りの攻撃を巨体の背に浴びせていく。
西側でもガゼットとイセリアの号令の下、猛攻が開始された。ガゼットは閃光の槍、イセリアは水竜の剣――両将軍もそれぞれの武器で魔法を放つ。
「やあっ!」
ソロンは蒼煌の刀から全力の炎を放った。蒼炎が呪海の王を焼き尽くそうと踊り狂う。天を焦がさんばかりに蒼炎は広がり、巨体を包んでいった。
メリューは大量の短刀を放ち、念動魔法で加速していく。短刀が尽きた後も、兵士達が投じた無数の矢を加速させて魔物へぶつけていく。
「くっ、こんな攻撃では豆鉄砲と変わらんな……」
メリューが悔しげに言えば、グラットも頷く。
「だな。だが、それでもやるしかねえだろ」
グラットは兵士達から投げ槍を受け取り、思いきりよく投げ込んだ。重量のある槍をやすやすと届かせる力量は、驚くほどのものがある。力の限り、グラットはそれを繰り返した。
サンドロスが大刀を振れば、前方に向かって大地の弾丸が飛んでいく。彼の土魔法は地面から離れた敵には不利だが、それでもできる限りの攻撃を加えていた。
極めつけに放たれたのは、稲妻の翼を広げる巨鳥だ。アルヴァの切り札たる雷鳥は、閃光を放ちながら呪海の王へと衝突した。
凄まじい轟音に凄まじい閃光。猛烈な煙は、山のような巨体すらも覆い隠してしまう。
これだけの攻撃を浴びせれば、神獣すらも無事では済まない。少なくとも、これまでの相手はそうだった。
だが――呪海の王は無傷だった。
光と煙の離れた先では、何事もなかったかのように怪物が進み続けていた。
その山のような全身には、今も赤黒い瘴気がまとわりついている。ミスティンの矢もレムズの剣も、有効打にはならなかったのだ。
「うおおおおおぉぉぉ! 我らの王都を守るのだ!」
と、その時、三人の騎士が突出し、呪海の王へと駆け出した。
「待て、血気に逸るな!」
これにはいつも無謀なレムズすらも制止する。
しかし、騎士達は止まらない。恐怖に駆られた馬を無理矢理に御して、突進を続ける。呪海の王の背中へと渾身の槍を突き刺したのだ。
けれど、あまりにも矮小な攻撃だった。あの巨体の前には、槍の一撃など蚊の一刺しにも満たなかったろう。
突き刺された部分がゆがんだ。
瞬間、ゆがんだ体がさらに変化し、触手へと姿を変えた。
「ぬああっ!?」
触手は馬もろとも騎士達に巻きつく。恐怖と痛みに震える馬のいななきが聞こえる。
人馬はそろって、呪海の王の体へと引っ張られていく。
赤黒い体へ押しつけられた人馬は、赤黒い瘴気を放出しながら溶けていった。
それを一行は見守るしかできない。
やがて、その瘴気も呪海の王に吸い込まれるように、その体の一部となっていった。
「くそっ、馬鹿者がっ!」
レムズが嘆きと怒りの叫びを上げた。
「離脱します!」
アルヴァの決断は早かった。もはやそれ以外の選択肢は残されていなかったのだ。